オルガニスト

 コツ、コツ……


 くそったれな足音が、いつも俺を現実に引き戻す。


 コツ、コツ……


 俺はいつもエレクトーンの前に座っている。足音が聞こえると、俺は亀頭にティッシュをかぶせたままズボンを上げる。エレクトーンにつないだヘッドフォンをかぶり、バッハの『大フーガ』に耳を傾ける。


 ガチャ。


「お兄ちゃん、ご飯できたよ」


 くそったれな母親。


「わかった」俺は言う。「聞き終わったら行く」


 コツ、コツ……


 俺はいつもエレクトーンの前に座っている。足音が遠ざかるのを確認して、ヘッドフォンを外し、力いっぱいしごく。溜まっていたものを吐き出すと、ズボンを上げ、亀頭にティッシュをかぶせたままトイレに向かう。


 ゴオオオオ……


 くそったれな家。


   ※※※ ※※※


 一人目は、ケツがデカい女だった。別にそういう女が好きだったわけじゃないし、洋ポルノみたいにケツを叩く趣味もない。ただ、大宮駅前であのケツを見たとき、たまにはこういう女と寝てみるのも悪くないと思ったんだ。声をかけて部屋に連れ込み、ひとしきり会話を楽しんでからむしゃぶりつくしたよ。


「ピアノ弾くの?」


 ヤる前に訊かれた。俺の部屋には最新機種のエレクトーンが置いてあったんだ。


「いや、これオルガンなんだ」


「どう違うの?」


「そうだな。まず表現力が違う。ピアノは弾く人によって全く違う音が出るんだ。タッチの強弱でも音が変わってくる。オルガンはそこまで繊細じゃないね」


「へえ」


「だけど、その分気軽に楽しめるし、こいつは電子だからいろんな音が出せる。気になった音楽を耳コピして楽しむくらいならこれで十分だよ」俺は言った。「何か弾こうか」


「近所迷惑にならないの?」


「夜中じゃないし、少しくらいなら平気さ」


 俺はリストの『慰め』第三番を弾いた。


「すごい」


 女は手を叩いた。頬にえくぼが浮かぶ。俺は勃起した。女に軽く触りながら、シャワーを勧めた。フリスクを口に放り、ベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』の第三楽章を弾いた。


 いい女だった。声をかければ誰にでもついていくんだろうが、愛想じゃなく心から笑い、ベッドの上でもよく尽くしてくれた。エレクトーンの音を気にしてたわりには、ちょっと声が大きすぎたがな。それでも死ぬときは静かなもんだった。最初だったしもっと手こずると思ったが、すぐに力が抜けて楽になった。いい子だったよ、本当に。殺すのが惜しかったくらいだ。


   ※※※ ※※※


 二人目は、垢抜けた美人だった。しかし、なぜだろうな。どこか隙があった。新都心のコクーンシティ前を歩いてたんだが、まるで男が声をかけるのを待っているように感じさせる何かがあったんだ。実際、その予感は正しかった。


「エレクトーン」女は部屋に入るなり、言った。


「わかるんだ」


「楽器やってたから」女は控えめに微笑んだ。「ピアノの方だけどね。うちにグランドピアノがあって……家庭教師にも習ってた」


「お嬢様なんだ」俺は言った。「うちは母親がたまたま親戚からもらって来たから弾いてただけなんだよ。まあ、ピアノとオルガンの違いなんてわかる人じゃなかったけど。ねえ、一曲弾いてみない?」


 女はうなずいた。ドビュッシーの『トロイメライ』だ。正直言って、あまりうまい演奏じゃなかったな。


「うまいよ」


「全然、鈍っちゃった」女は手を振った。「ねえ、お手本を見せて」


 女の意図がわかった。


 リストの『バッハの名による幻想曲とフーガ』を弾く。弾き終えると、女は目を細め、手を叩いた。どこまで本気だったんだかわからない。本当は女の方がうまく弾けたのかもしれないな。


 女は一人目よりずっと貪欲だった。一回で終わるはずが、三回までがんばることになって、危うく殺すだけの体力まで使い果たすところだった。週末を目いっぱい使って死体を解体して、築地で生ガキを食った。精力がなきゃやってられない。


   ※※※ ※※※


 三人目は地味な女だった。隙というなら隙だらけで、それを隠そうともしていなかった。友達の家に泊まるつもりだったらしいが、それが男の家に変わっても何の問題もないみたいだった。エレクトーンに気づいても特に何も言わなかったのは、彼女がはじめてだった。


「何か弾こうか」俺は自分から言った。女はスマートフォンをいじりながら、どうとでも取れる返事をした。どうしてだろう、それが俺の中の何かに火をつけた。


 バッハの『大フーガ』を弾く。


「どう」弾き終えて、言った。


「どうって、ただの音だし」女は言った。「ねえ、抱かないならタクシー代くれない?」


 女はそれまでで一番抵抗した。ムカつく話だった。あんなに気だるげにしていたのに、死ぬ直前になってあそこまでもがくなんて。おかげでエレクトーンの比じゃないほどの物音が立った。怒りに任せのこぎりを引くが、気分は晴れない。女を解体していてあそこまで空しい気分になるのははじめてだった。途中で何度も投げ出したくなったよ。それでも、最後にはいつも通り死体をブロック状に切り刻み、ゴミに出した。あまりに消耗したんで、会社を休むことになったがな。


   ※※※ ※※※


 コツ、コツ……


 くそったれな足音が、いつも俺を現実に引き戻す。


 コツ、コツ……


 俺はいつも低いテーブルの前に座っている。足音が聞こえると、その場に凍り付いたまま、耳を傾ける。


 ガチャ。


「三八〇番、■■■。出房だ」


「いやだ!」隣の男が喚いた。「やめろ! 俺にかまうな!」


 革靴の男たちは取り合わず、男を独居房から引きずり出す。


 ズル、ズル……


 俺はいつも低いテーブルの前に座っている。足音と喚き声が遠ざかっていくのを確認して、胸をなでおろす。


 くそったれな隣人。


 バッハのオルガン作品集を広げ、音符を目で追う。目を閉じて、テーブルを指先で叩く。


 コツ、コツ……


 音楽は聞こえない。


 コツ……


 俺は備え付けのトイレに腰を下ろし、用を足す。


 ゴオオオ……


 くそったれな人生。

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