戸松秋茄子

 十二歳の夏、父が逝った。渓流釣りで訪れた奥多摩の岩場で足を滑らせ、頭を強く打ったのだ。


 家でちいさな葬儀をあげてから一か月後、引っ越しの準備も兼ねた遺品整理を手伝っていると古いアルバムを見つけた。


 アルバムは何冊か束になって、スポーツドリンクの段ボールに突っ込まれていた。子供の成長記録に使うような、特に凝った装飾もない、ノートのような冊子だ。開いてみると、果たしてそれは子供の成長記録に違いなかった。


 二歳くらいの男の子だ。どの写真を見ても仏頂面で、カメラと目線が合っていない。写真によっては、両親と思しき若い男女が一緒に写っている。男の方は僕の父に違いなく、女の方は毎朝鏡で見る顔とそっくりだった。母だろうか。とすると、この男の子はどうやら僕らしい。写真の日付から鑑みても間違いないように思えた。


 もっとも、確信を得るまでには時間がかかった。この人が母なら、いま僕と一緒に住んでいる女の人が誰かわからなくなる。両親が再婚だったなんて話も聞いたことがなかった。


 実の母でないことがわかった人と引っ越しの準備を進める中、僕は秘かに自分の部屋に持ち帰ったアルバムを眺めては写真の時代に思いをはせた。すでに失われてしまった記憶。しかし、確かに僕の中に存在するはずの記憶に。


 アルバムはおよそ四年分の家族写真を収めていた。最初の一冊は、僕が生まれた日の写真からはじまっていた。日付から間違いないにしても、後頭部がエイリアンのように突き出した赤ん坊を自分だと認めるのには若干の努力が必要だった。


 母は背の高い人だった。見覚えのない街を背景に、しばしば僕を伴う格好でカメラに笑みを向けている。当時住んでいたと思われる家、保育所、街を見下ろす公園、どこかの埠頭、長い長い階段の途中。


 それが長崎の佐世保であることを知ったのは、すでに埼玉の家を引き払った後のことだった。女子高生が同級生を殺した事件の報道で、アルバムの写真とよく似た雰囲気の街を見かけたのだ。


 それ以来だろうか。誰の家かもわからない場所で、たまに故郷の夢を見る。高台の公園から街を見下ろし、潮の匂いを嗅ぎ、アメリカの軍艦が入港するのをぼんやりと眺める夢を見る。僕が知らないはずの海を、すぐ近くに感じる。

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