第8話 プラネタリウム

 ストローをくわえて、すする。

 じゅじゅるるっ

 醜悪な音――あたしはついつい周りを見回す。

 が、見回す必要はないんだ。あたしの自意識が強すぎるだけだ。情けなくなってくる。

 りゅうちゃんに何度も同じことを指摘された。もっとも最近では、先週の木曜の夜。

「隣の人の着てるシャツに染みがあったって、たぶん僕は気づかない。たとえ気づいても、それが何? ズボラだなあとか、こいつの昼のパスタの食い方雑だなあとか、そんなこといちいち思う? 僕は思わない。誰だって思わない」

「そうかなあ?」

「そもそもその人に興味がない。だから、声を大にして言うよ。ど・う・で・も・い・い、って」

 いつも流ちゃんは理路整然としていた。

 あたしの唇が少しだけほころんでしまう。

 今このカフェの椅子に腰掛けて、おちょぼ口でアイス・ハニーソイティーを飲んでいる二十九歳独身女――誰が気にする?

 もう一度、ストローを吸う。あえて力を入れてみる。

 じゅじゅるるるっ

 誰がわかる?

 同じ音だなんて。


 二十四時間前。あたしは同じ口で、同じ音を立てていた。

 唇と舌――力を加減しつつ、舐め、吸う。五十過ぎ、頭の禿げ上がった肥満男の臭くて汚くて塩辛い陰茎。

 汗臭い布団。染みだらけのシーツの上に、小さな蜘蛛が這っている。黒い体に金色のぶち。さして時間を必要とせず、男はあたしの後頭部を力を込めて股間に押し付けていた。が、さして長くは続かなかった。あたしの口の中で、男はすぐ射精した。蜘蛛はその複眼で、じっとあたしを見ている。ことが終わると、男はすぐさま天井を見上げながらタバコに火を付けた。煙草は嫌いだと事前に告げていたのに、男はあたしの顔に向かってわざと煙を吹きかけた。

 金で買われるあたしを、ここにいる誰も知らない。


「ど・う・で・も・い・い」

 小声で言ってみる。

 そんなことにも、やっぱり勇気が必要だ。

 あたしは、弱い。情けない。

 目の奥に痛み。

 つーん。

 窓の外――にじむ。小雨が舞い落ちてきたから。

 今日は久しぶりに流ちゃんと会えるんだ。

 だからなのか、思考の振幅が大きい。肋骨の下。しくしく――小さな棘。突いてくる。

 自動ドアが開く音――びくっとする。ドアをくぐって来たのは、あたしよりも若いくらいのパパと、その手を握っている幼い女の子だ。四、五歳くらいか。女の子はまだこの世界に絶望していない。パパが知っている汚濁を、この子はまだ知らない。

 早く流ちゃんが来ないかな。

 窓の向こうに顔を向ける。通りの対岸の灰色の建物――科学博物館。見上げると、銀色のドーム。

 プラネタリウム。

 空ばかり見ていた。ずっとずっと昔から。

 ぱきんと冷たい夜の空気の中、星を見上げるのが好きだった。そんな少女時代――少女。

 少女だって?

 お笑い種。

 テーブルに置いたスマートフォンを取り上げる。

 ――今着いたよ。

 三十分前に送った言葉――既読マークは付いていない。

「車だもんね、きっと」

 独りごちて、ストローを吸う。氷が溶けて、もうアイス・ハニーソイティーの味なんかしない。

 じゅじゅじゅるるるるっ


 二十時間前。しゃぶっていたのは十九歳になったばかりの大学生の陰茎。臭くはなかった。が、小さかった。短いし細かった。童貞のくせに遅漏。顎と首が疲れた。首の筋肉がりそうだった。立派な新築マンションの一室に住んでいた。家賃はあたしの住んでいる部屋の二倍近いだろう。ベッドサイドに、一抱えもありそうなゴマフアザラシのぬいぐるみ。ようやく男があたしの口の中に放ったとき、男は「飲んで」と言った。即座に男の腹の上に唾液とともに吐き出した。小さな蜘蛛がゴマフアザラシの右頬上で身を震わせていた。「ごっくん」のオプション料金――二千円。そう告げると男は駄々っ子のように口をとがらせた。蜘蛛は黒と金色の胴体を震わせ、ぴょんとゴマフアザラシのほっぺたからジャンプした。


 流ちゃんはまだ来ない。

 ――着くまでどのくらいかかりそう?

 指先でガラスのタッチパネルをなでる。しばらく見つめる。届け、届け、そう中空に向かって念じる。

 星を見たいと言ったのは流ちゃんだった。なぜ星なんかわざわざお金を払って見なきゃいけない?

「まともに星を見たことがないからね」

 流ちゃんはあたしの髪をなでながら答えた。

 流ちゃんは卑怯だ。

 あたしは髪に触れられるのは嫌いだ。けれど、流ちゃんだけはべつだ。そしてそのことを、流ちゃん自身もわかっている。流ちゃんに髪をなでられると、あたしの体の芯に温かいものが溢れてしまうことを知っている。下腹部から背骨を貫通し、後頭部へ。温かいしずくが、溢れ出してしたたり落ちるのを、龍ちゃんは知っている。

「流ちゃん、まだ?」

 声に出す。

 隣のテーブルの太った中年のおばさんが、ちらとあたしに視線を向ける。

 ど・う・で・も・い・い


 十七時間半前。七十を一つ二つ超えた爺さんが、萎びた陰茎をあたしの肛門に一生懸命に突っ込もうと奮闘していた。AFアナル・ファック――オプション料金五千円は支払い済み。バイアグラを服用済みだったが、効果はなかった。四つん這いになったあたしの顔の脇で、小さな蜘蛛が両の黒い前脚をこすりあわせていた。結局、老人の陰茎は勃たなかった。「下手くそな女だ!」と爺さんはあたしに向かって言い捨て、あたしの顔に唾を吐きかけた。


 窓の外では雨足が強くなっている。

 流ちゃん、まだ来ないの?

 雨は好きだ。けれど、星空が見えないのは嫌だ。

「この街じゃ、晴れてたって星なんかほとんど見えない」

 あのとき、流ちゃんはそう言った。

「だからお金で星を買うんだね」

 あたしは答える。

「素晴らしき哉、資本主義」

 流ちゃんが、あたしのもっとも敏感なところに人差し指の先端でそっと触れた。流ちゃんの手はいつだってやさしかった――ほかの客とは違って。

 さらに雨足が強くなっている。窓を透明な粒がたたく。

 もうコップの中に液体は残っていない。

 時計――約束の二時を四十分も過ぎている。四十分は長くない、はずだ。

「流ちゃんよく行くの、プラネタリウム?」

「だいたい月イチで」

「そんなに? 楽しい?」

「月に一度、プログラムが変わるんだよ。今の時期なら、巨大クジラの生贄に捧げられたアンドロメダと英雄ペルセウスの物語だろうね」

「今夜も、空に星座が見える?」

「今の季節、見える一等星が少ないんだ。だから、この街では見えにくいかも」

 あたしが住んでいたあの町で、アンドロメダは見えていたのだろうか?

 暗い空――見えたはずだ。あたしは何度もアンドロメダを見上げていたはずだ。ペルセウスと、彼がまたがるペガスス――その姿すら、あたしはちゃんと両の網膜に投影していたはずだ。

 いつも空ばかり見ていたのだから。

 けれどあの頃も今も、あたしは星の名前を知らない。眼に入っていたはずなのに、何もわからずにいた。

 いつだって、あたしの眼は大事なものをちゃんと見ていない。

 いつだって、あたしはいちばん大切なものを見逃してばかりだ。

「じゃあ、プラネタリウムでまがいもの見るのにも、ちょっと意味あるかも」

「本物が必ずしもいいとは限らないよ。むしろ『まがいもの』にこそ救われることがある」

「そっか、わかるよ。あたしがそうだから」

「そうって?」

「あたしは、お金払って買う『まがいもの』。本物の恋人の代替物だから」

「僕だって、本物じゃないよ。みんな僕を『まがいもの』と言う。そんな僕に、君はちゃんと触れてくれた」

「ここに?」

 あたしは手を伸ばす――流ちゃんの大事な場所。

 あたしと同じもの。

 濡れている。

 粘膜。粘液。


 十五時間前。あたしの父親と同じくらいの年代の男が、あたしに肛門を舐められてあえいでいた。パパと呼びなさい――男は言った。あたしはそのとおりに呼んだ。パパ大好きと言った。パパのあそこすごいと言った。パパのもっとちょうだいと言った。言いながら、舌と唇と指を使った。小さな蜘蛛が、男の尻の上でその黒い体をくるくると回しながら、あたしを見ていた。

 あたしは何だってできた。あたしは、まがいものの娘だから。


 窓の外は急に薄暗くなっている。窓ガラス――くたびれた女の像。

「ど・う・で・も・い・い」

 つぶやきながら、時計を見る――もう三時を十一分も過ぎている。

 流ちゃんは、まだ来ない。

 肋骨の下。冷たい手でなでられたような感触。

 窓の向こう――屋上のドームがかすんでいる。雨のヴェールがあたしの視界の前に垂れ込める。

 星たちが、遠ざかっていく。

「個人的に会って、ほんとうに大丈夫なのかな?」

 流ちゃんは小首をかしげながら訊いた。

「いいよ、流ちゃんだから。お店には内緒にする」

「無理してない?」

「してないよ。流ちゃんは特別だもん」

「僕が……まがいものの男だから?」

「股間にあれが付いてなくても、付いていても、流ちゃんは流ちゃんだよ」

 流ちゃんは、あたしを力強く抱きしめてくれた。

 つーん。

 え? どうしたのだろう?

 あたしの視界がかすむ。降りしきる雨。灰色の科学博物館と銀色のドームがぼやけている。

 どうして、眼の前のグラスさえもかすんでいるのだろう?

 テーブルの上の伝票も。隣のテーブルのおばちゃんも。スマートフォンの画面も。あたしが送ったメッセージの文字も。

 なぜ、すべてがかすみ、にじんでいるんだろう?


 十二時間半前。煙草臭い四十男が、あたしの耳の穴に舌を突っ込んでいた。あたしはホテルの天井の隅に小さなあの蜘蛛がいるのを見つけていた。男の舌があたしの首筋に移動しても、黒い蜘蛛は微動だにしなかった。あたしは蜘蛛に手を伸ばした。男は三本の指をあたしの内部に侵入させた。その瞬間に、蜘蛛が消えた。

 この世界から、消滅した。


「痛……」

 つーん。

 眼の奥の疼痛。

 自動ドア。開く音――見上げる。かすむ視界の向こうに、細身のジーンズ姿。

 流ちゃん。

 立ち上がる。

 コップ。がちんという音。こぼれた水。拡がって滴り落ちる。あたしの膝を濡らす。

「流ちゃん!」

 呼びかける。スカートの内側へ氷水が染み込む。冷たいしずくが太ももを伝って、足首まで流れ落ちる。

 かすみ、にじんだ世界の中、自動ドアの前の人影がすぐにあたしに背中を向ける。

 流ちゃんが、去ってしまう。

「行かないでよ!」「

 椅子を押しのける。コップが落ちる――砕け散る音が、鼓膜を不快に震わせる。

 入り口の自動ドア――遠い。ほんの数歩の距離だというのに、どうしてあたしは前へ進むことができないんだろう?

「お客さま……」

 背中に声を聞く。

 右脚、左脚、右脚、左脚、前へ出す。流ちゃんに追いつくために。流ちゃんに触れるために。流ちゃんに触れられるために。

 自動ドアが開く。冷たい雨――風とともに吹き付けてくる。

 右脚、左脚、右脚、左脚、右脚、左脚、右脚、左脚――流ちゃんは遠い。

「お客さま!」

 誰かがあたしの右腕を摑む。流ちゃんじゃない。流ちゃんはこんなに乱暴にあたしに触れたりはしない。

「流ちゃん、待って!」

 右脚、左脚、右脚、左脚、右脚左脚右脚左脚右脚左脚――

 さらに力いっぱいに引っ張られる。二の腕と肩に激痛。振り払う。手の甲が何かに当たる。脚がもつれて、視界がぐらんと揺れる。空が回る。右脚左脚右……宙を踏む。

 ぐるりと世界が回転する。

 破裂する視界――赤褐色の光が明滅する。

 叩きつけてくる雨粒。一粒一粒が、矢のようにあたしの全身に刺さる。

 屈折する光。反転する空。その片隅の銀色のドーム――プラネタリウム。

 そこに星空があるはずなのに。まがいものでも、星がまたているはずなのに。

 届かない。

「流ちゃん……!」

 やっぱり、届かない。

「大丈夫ですか」

 遠い声。

 雨粒の矢を避けながら、黒と黄色の胴体を持った小さな蜘蛛が、あたしの右の頬を這っているのを感じる。一瞬ためらってから、小さな蜘蛛はゆっくりとあたしの右の鼻の穴から、あたしの体内にその身を忍ばせる。

「お客様……!」

 さらに遠い声。

「ど・う・で・も・い・い」


「プラネタリウム〜アヴァロンから来た女」完

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アヴァロンから来た女 美尾籠ロウ @meiteido

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ