物理特化の聖女様

緋雨

第一章 柊紫音

第一話 突然の別れ

「……どこ、ここ」


 まばらに草木が生える荒野に、小さな声が溶けて消えていった。

 今この場所に立っているのは、左手に木刀を握り、白い剣道衣に黒い袴を履いた女性。綺麗な黒い長髪を高い位置で一つに結っている彼女の名前は、柊紫音(ひいらぎしおん)。

 荒野に立つ紫音の足は素足。この場に似つかわしくないその姿だが、それを疑問に思うような人影は近くにはない。


「優、は……いない」


 呟いた名前は、紫音の弟の名前。

 ほんの数分前まで、紫音は優(すぐる)と段位の取得のため、剣道形というものの復習していたところだったのだ。

 試験を受けるための練習を終えて、汗を拭くためのタオルと木刀を持って男女の更衣室に戻ろうとした瞬間、気づいたらこの場所に紫音は移動していた。

 手に持っている木刀とタオルを握りしめる。状況からして、紫音が持っていたものと身につけていたものだけが一緒に移動しているようだ。


「……優」


 もう一度弟の名前を呼んで、紫音は足を動かした。裸足のために、足の裏に当たる砂が少しだけ痛い。石だらけの場所ではなくてよかったと安堵しつつも、現状を確認するために足を前に動かした。


 見渡す限りの荒野だったはずが、しばらくすれば川にぶつかった。飲める水かはわからなかったが、乾いた喉で水を我慢することはできなかった。

 冷たい水に手を差し入れ口に含む、水が喉を伝っていく感覚を感じながら飲み込んだ。

 そして再び足に力を入れて立ち上がると、川下に向けて歩き出した。川沿いであれば、街にぶつかるかもしれないと考えたのだ。


 一時間も歩けば、鬱蒼と木が生い茂る場所にぶつかった。目印である川から逸れるわけにもいかないため、紫音は唇を引き結んでその中に足を踏み入れた。

 草の感覚が足裏に伝わる。先ほどの地面より歩きやすい草むらをしっかり踏みしめ、何が出てきてもいいようにとあたりに気を配る。

 ガサリ。と奥の方でわずかに木の葉が揺れた。

 紫音はピタリと動きを止めて、揺れた葉があるあたりを伺う。たくさん木が生えているせいで、遠くを見通すことはできない。


「何か、いるの?」


 大きな声は出せない。それでも、積み重なった不安が声に出た。蚊の泣くような小さな声を出した紫音の頬に、緊張からか汗が伝う。

 グッと木刀を握る手に力を込めて、できるだけ音を立てないように葉が揺れた場所へと近づいた。いつでも抜刀できるようにタオルは胸元に押し込んで、右手を柄に添える。


「っ!」


 バサバサと激しく響く羽音。木々の隙間を飛び去っていったのは、大きな橙色の鳥。


「と、り?」


 襲われなかった安堵感。しかし、見たこともない大きさのその鳥に、現在自分がどこにいるのかを測りかねてますます首を傾げた。


「……ここは、どこ」


 最初よりも深い意味を込めて声を出した。

 飛び去った鳥は、羽を広げれば二メートルはありそうな巨体だった。飛び去ったために間近では見ることができていないが、尾であるはずの部分が細長く、動いているようにも見えたのだ。

 そんな生き物、地球では見たこともないし聞いたこともない。


「人を、探さなきゃ」


 込み上げてくる不安を押し込めるために考えを音にする。ひとまずの目標を決めた紫音は、再び歩き出した。


 そこから約二時間。紫音にとってはとても長い二時間が過ぎ、真上にあった太陽はかなり傾き始めている。

 気を張っていたために疲れ果てた体。足の裏の皮は剥けて、わずかに血が滲んでいる。履いていた袴も汚れ、所々擦り切れていた。


「街、だ」


 満身創痍の紫音の目に映ったのは、石造りの壁。

 二メートル程度の高さの壁が続くその向こうに、建物が建っている。ようやく人のいそうな場所にたどり着き、疲れていたはずなのに歩くスピード上がった。


「止まれ」


 門までたどり着くと、そこから外には地面を整えて作った道があることに気づく。この道を辿ればきっと、繋がっている別の街に行くことができるのだろう。そう考えていた紫音に、鎧に身を包んだ男から声がかかった。


「……はい」


 剣を携え、銀色の鎧をまとった男は不思議そうな顔で紫音を見下ろす。


「不思議な格好だな、身分証はあるか?」

「すみません、これ以外は何も持っていなくて」


 門番と長話するわけにもいかないからと、紫音は街の中に入ることを優先することにした。

 戦う意思はないと、木刀を持ち上げてそう言えば、目の前の男は何か納得したように頷いた。


「どこかの辺境に住んでいたのか。であれば、この用紙にお前の情報を書いてくれ」

「わかりました」


 都合よく解釈してくれたことにホッと胸をなでおろし、男が持ってきた書類に視線を落とす。そこには、名前と年齢、出身地と英語で書いてあった。話している言葉は日本語なのに、書類に書かれているのは英語で不思議に思いつつも、念のため全てローマ字で記入していく。


「よし、問題はないな」


 何も情報がない状態で嘘をつく理由もないので出身地は県名を、名前は「Shion」とだけ書いたが、特に突っ込まれることはなかった。


「しかし、本当に聞いたことのない村だな。とりあえず身分証は作った方がいい。この場所へは仕事探しか?」

「あ、はい。えっと、そうなんです」


 この場所のことをわかっていないため、しどろもどろになりながらも肯定を返す。そうすれば、男はうんうんと首を縦に動かし、「大変だな」と紫音の肩を叩いた。


「紫音さんくらいの年齢なら出稼ぎはよくあるしな。むしろ少し遅いくらいか?」

「あ、その……弟の面倒も見ていたので」

「姉さんなのか、そりゃ大変だなぁ」


 話してみればとてもフレンドリーな男は、領主の屋敷で職業適性を調べ、その上で希望のギルドで身分証を作ればいいと言う。


「適した、ギルド?」


 職業適性を調べられることにも驚きだが、ギルドという言葉は聞いたこともなかった。不安な声を聞いた男は、田舎だから知らないかと前置きした上できちんと説明をしてくれた。


 ギルドには、冒険者ギルド、商人ギルド、薬師ギルドの三つがあること。薬師適性が出れば薬師ギルド、冒険者か魔法の適性があれば冒険者ギルドで登録をする。

 なお、適正に関係なく商人になりたい場合は商人ギルドで登録をすればいい。

 なんの適性もなく職業を決めかねている場合は、とりあえずどこのギルドでも身分証が作れると説明された。


「希望の職業にあったところで作るのが普通だが、すぐ決められるもんでもないからな」


 楽しそうに笑った男は、最後にそれぞれの場所を教えてくれた。お礼を言って別れ、ようやく門をくぐる。すでに空はオレンジ色に染まっていた。


 街へ足を踏み入れれば、立ち並ぶ建物は全て石造り。日本ではあまり見ることのないその光景と、聞いたこともないギルドという名称。冒険者に、魔法が存在する世界。


「違う、世界……か」


 自分が立っているこの場所が地球ではないと、紫音が認めなければならなくなった瞬間だった。

 ツンとする鼻の奥。ぼやけてくる視界。信じたくないと思うのに、もう信じるしかないのだと紫音の脳は伝えてきて、逃げることはできそうにない。

 泣き叫べたら楽になっただろうに、予想もできない事態が実際に起こったときには、人は唖然と涙することしかできないのだと紫音は知って、苦笑した。


「金出せよ、ばばあ」


 ぼんやりと歩いていた紫音は、いつの間にか人の少ない道に入り込んでいた。唐突に聞こえてきたしゃがれた男の声に、歩いていた足を止めて声の出所を探す。

 声の出所に気づいた紫音は、右側にある路地裏に注意深く視線を向けた。そこには、小太りの男と、ネズミの頭をした細長い男。そして、体格が良く背の高い男の後ろ姿があった。


「あんたらに渡す金なんてないよ」


 ネズミ男がいることに驚いているとき、女性の声が響いた。男たちに囲まれている女性は、怯えた風もなく挑戦的な声を上げる。


「使う男もいねぇ、だろ? よこせ、よ」


 ネズミ男の口から、想像していたよりも高いトーンの声が途切れ途切れに発せられた。


「俺らならもっと効率的に使ってやるからさ」

「ちょっと、触らないで!」


 声を聞き、なんとなく状況を把握できた紫音は、その内容に頭が急に冷静になっていくのを感じた。

 ここが地球ではないと知って、どうしようもない虚無感に打ちひしがれた。

 だが、たとえいい状況でなくとも、元の世界でも見たような状況が今も目の前にあることが、ひどく嬉しかった。


「女性には、優しく」


 静かに距離を詰めてから、男たちに向けて声をかける。

 男たちの奥に見えた女性は、紫音の母と近いくらいの年齢。淡いブルーのワンピースに白いエプロンをまとったその女性は、紫音と視線があって驚きに目を見開く。


「危ないから早く逃げな!」


 今まさに詰め寄られている自分より、紫音を気遣ってくれた女性。場違いながら少し緩んでしまった唇はそのままに、紫音は足を踏み出した。


「逃さねぇよ、お前もな」


 グッと地面を踏みしめたリーダー格の男。しかし、同時に聞こえたのは、紫音の淡々とした声。


「まず、一人」


 ドサリ、とネズミ顔の男が地面に倒れた。

 紫音は、左足に力を入れて踏み込むと同時に、木刀の柄頭をネズミ男の鳩尾に強く突き出していたのだ。


「私が時間を稼ぎます。その間に、人を呼んできてくれませんか?」

「っ……! ありがとね、でも無理はしないように」


 紫音の実力を見たからか、女性は頷くと荷物をしっかり持ち直して駆け出した。一瞬心配そうな視線を紫音へと向けたが、笑顔を返せばそれ以上何も言われることはなかった。


「逃すな!」

「っ危ない!」


 小太りの男と、長身の男が抜いたのは剣。鈍く光を放つそれは、模造品なんかではなく間違いなく本物。


「振り向かずに、行って!」


振り向いて声をあげた女性の方には視線を向けず、紫音は木刀を構える。


「棒で受け止められるわけ――なに?!」

「元から、受け止めるつもりなんてないよ」


 柄を右手で握り、切っ先を左手で支える。横に寝かせて鎬(しのぎ)と呼ばれる場所に剣の刃が当たったことを確認すると、左手を離す。

 小太りの男からの力をそのまま受け流せば、ぶつける先のなくなった力。踏ん張りがきかず、男は前につんのめった。

 紫音は剣が滑り終わったあとの木刀を振り抜き、無防備な状態で目の前にある男の背中へと、強烈な一撃を振り下ろした。

 ボキッと嫌な音が響いた。紫音の額に、疲労や暑さからではない汗が浮かぶ。


「やるなぁ、お前」

「……どうも」


 軽く額をぬぐい、最後の一人と向かい合う。あっという間に二人倒したこともあり、男は警戒していてなかなか打ってこない。


「木の棒に、火は辛いよな」

「え?」


 ――ファイア・ボール


 右の手のひらを紫音に向けた男。

 そこには赤い炎が集まり、まばたきをした次の瞬間には野球ボールほどの火の玉が出来上がっていた。

 驚きで惚け、思わず体の緊張が一瞬溶けた紫音。それを好機と見た男は火の玉を飛ばす。


「こんなところで、街が燃えたら――」

「俺には、関係ねぇな」


 楽しそうに口角を上げた男を、唇を噛み締めたまま睨みつける。紫音に今できることは何もないのだ。

 迫り来る火の玉。避けてしまいたいが、後ろは人の家。中に人がいたらと考えてしまい、動くことができない。


「金は逃したが」


 伝わってきた熱気の奥から、楽しそうに男が喉を鳴らした。


「俺の勝ちだ」


 万事休す。

 身体中に力を込め、せめてもと木刀を正眼に構えた瞬間。


「間に合ったか」


 真っ黒い背中が、紫音を守るように前に立った。

 前に立っている男は、持っていた長い槍を体の前でくるくると回し始める。槍に当たった火の玉は、ボンッと一度勢いよく燃え上がってからかき消えた。


「っ! くそ!」


 悔しそうな声を出したリーダー格の男は、仲間には見向きもせず、背中を見せて駆け出した。黒い男は地面を蹴り、逃げた男を飛び越えて前に回り込むと、捉えて地面に押さえつける。

 この後、気を失っているもの含め、ゴロツキ三人は無事に取り押さえられた。


「い……ぬ?」

「狼だ!」


 全て見届けた紫音は、張っていた気が緩み、一気に体の力が抜けた。

 紫音の体が地面にぶつかる直前、ぽそりと呟いた独り言。激しいツッコミが返されると同時に、暖かいもふもふに包まれた。

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