第十七話


   


 女の言葉に、男は即答しなかった。


 その沈黙に、女の口調がまた張り詰めた感情をはらんでとげを持つ。


「あなたと私は結婚する、そうでしょう? 

結婚してバース家を継ぐ。

家を継いだらもう来られないだろうから、結婚前に日本の景色を見納めたい。

あなたがそう言ったのよ? 

あなたがそう言ったから、バース卿も私の父も、この日本旅行を許してくれたんじゃない。

だから、婚前旅行として日本に一緒に来たんじゃない。そうでしょう?」

「…………」


 男がやはり沈黙しているので、女は小さく溜息をついた。

 そして、続けてしゃべり出した女の様子は、聞き分けのない子供を諭すような調子になっていた。


「あなたはイギリスに必要な人なのよ。

バース家にとっても、国家にとっても。

ソールズベリ首相はあなたにとても期待しているわ。

保守党の議員の誰もが、あなたの才能を評価してくれているのよ」

「首相が期待しているのは、父の発言力と人脈、それにバース家の名前だ。

政治家は皆同じことを言う。

保守党も自由党も、家督も財産だって、本当のところ僕は興味が持てない。

政治家たちが僕個人に興味を持っていないように」

「そんなことないわ。皆さん、あなたの才能を」

「才能? 何の才能だ? 

僕は文学者だ。僕の志は文学にある。

そんな僕に政治家としての資質を求められても迷惑なだけだ」


 女の言葉に言い返す男の声には、珍しく感情的なとげとげしさがあった。

 意外に思って、私が思わず視線を向けると、声に反して表情の消えた男の顔を、女が細い眉をひそめて見つめていた。


 かんで含めるような調子で女が言う。


「あなたは上流階級の人間としての責務があるのよ?」

「僕が好きで上流の家に生まれたわけではない」

「贅沢な言い分だわ、中流に生まれ育った私のような人間からすればね」


 言って、女は不意に席を立った。


「今日もどこかにお出かけになるのでしょう。

私は留守番していますから、どうぞご自由に。

ああ、そうだわ。今日はその子を連れて行ってちょうだい。

家の中をうろつかれると気が休まらないの」


 言い捨てて、女は食堂を出て行ってしまった。

 口論の後のひりつく空気が残されて、私は居心地の悪い気分を抱えて、ちらりと男の顔を盗み見る。


 男は、音を立てて閉まった食堂の扉を見据えていたが、しばらくして小さく溜息をついて言った。


「ユメ、朝食を済ませたら今日も出かけます。

あなたも一緒に来てくれますか?」

「はい」


 短い私の答えに、男はぎこちなく笑んでうなずいた。


 男の様子に、なぜか私は不安を感じた。

 それは、唐突に始まってしまった口論の、何とも嫌な空気のせいだけではない気がした。


 二人の口論の様子、私には男が一方的になじられているように見えた。

 その男が、今私の目にはどことなく消沈しているように映る。

 平静な風を取りつくろってはいるけれど、内心はひどく傷つけられているのではないかと思えた。


 見慣れた紳士の姿が、今にも崩れそうな、不安定な装飾の塊のようにも見える。


 私は今更になって気づいた。

 二人の話していた内容を、私は半分も理解できていなかった。

 英語のせいではなく、それは私が男の抱えているものや背後にあるもののことを何も知らないせいだった。


 私は、ウィリアム・バースのことを本当に何も知らないのだ。

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