遺書を練る

夜乃偽物

どうして遺書を書くときって、必ず敬語で書いてしまうのだろう?

 慣れぬ推敲を繰り返すうち、自分の文章にそんな違和を感じた。

 小一時間下手な文章をルーズリーフに書いては物足りなさにくしゃくしゃにしちまったが、それを開いて見てみると、どこを切り取ってもへいこらしてる自分が目に浮かぶほど着飾ったものとなっている。

 もはや宛てる相手への尊敬という本来の意味を失い、ひとえに生意気に映ることを恐れたおれによる、醜い容赦の嘆願となった文章。おれは駄文をふさわしい場所に投げ入れる。

 相手を敬う言葉をあろうことか、懺悔のために用いているのだから、遺書に敬語というのは情けないものだ。


 しかし、相手か。文の礼儀作法もさることながら、これにも悩まされる。


 普通遺書というのは……おっと、普通と遺書が並んでいるのを見るのはある種壮観とも言えないだろうか。いや、言えないな……

 話を戻そう。遺書の宛先なんてのは両親や友人、恋人というのが相場だろう。

 が、それだけに済ませて良いものかとも思う。


 迷惑をかけた人間は4の階乗ほどもいる気がする。それにこれから迷惑をかける人間も幾らかは……この部屋の管理人である階下の老婆など、その代表格だろう。月の賃料に色をつけてせめてもの贖罪としておこう。

 それだけじゃない。そもそもおれが悩んでいたのは、どれぐらいの距離にあった人間に、この遺書を宛てるのかということ。学生時代の友人……の友人で時々他愛ない会話を交わした彼彼女なんかはどうだろう。三年間おれに社会科目を教授してくれた中年の女性教師には? 

 今はすっかり疎遠になってしまったが、それでも何一つ彼らに言い残さないのは、流石に不義理な気もしてくる。自分が何でできてるか考えたとき、浅い仲であった彼らでさえ、記憶の底から引きずり出さざるを得ないからだ。


 考えてみるとおれには語れるほど豊かな思い出は、彼らと居たころぐらいしかないような気もする。別れた後も人生はいくらか続いたが、おれの記憶にそれらは零と一の繰り返しのように残る。

 月曜も金曜も月末も年末も、大した違いはない。毎年カレンダアを捨てるときになって、己の年を知る。

 その日々が無駄であったとは言うまいが、おれの何を変えてくれたかと問われると、しかし何と答えたものだろう? 


 ……さて、となるといよいよたくさんの人間に読んでもらえるような、良い遺書を書かなくてはならない。修辞的な表現を使ってみたり、歌うような優美な文章を……ちょっとした伏線なんてものを入れてみるのもどうだろう。いや、文量の問題があるか。

 

 文量はどうするべきだろう。原稿用紙一枚とかじゃ、書きたいことを書き切れない。かといって五枚も十枚も使っちゃあ、文章を読み慣れてない奴には辛いだろう。おれの駄文じゃあ尚更。


 悩んだあげく、原稿用紙二枚と半分ぐらいの、ちょっとブラックジョークを加えた頓知とんちの利いたものを書くことにした。おれは財布を手に、近所の文房具屋に原稿用紙を買いに出る。


 道すがら、まだ見ぬ遺書の構想がどんどんと湧き出てきた。頭の中で作られていくそれはとても魅力的なものに映った。ある一文の出来はかの漱石先生さえ唸るだろうと思えた。形のない夢はどこまでも巧妙であった。


 ふいに、袖を引かれる。

 振り返ると、見たことのない若い女性がおれの目を真っ直ぐに見つめてくる。おれは一歩を足を下げた。


 落としましたよ、と女性はおれになにかを差し出す。すり切れたその布切れは、間違いなくおれの使い古した財布だった。夢想に浸っていたときに落としてしまっていたらしい。

 女性はすぐ立ち去ろうとする。おれは口を開こうとして、自分の上唇と下唇がくっついちまっていることに気づく。焦って引き剥がすが、もう一度唇を閉じた。


 角を曲がろうとする女性。このままではどうしようもなく惨めだと思った。遺書も書けないほど惨めだと思った。駆け出す両足。口からはどんな言葉が出るのだろう?


「ありがとう」


 ございました、は三秒経ってからようやく出てきた。女性は気味悪気に目を見開いたが、やがて目を細めて愛想笑いっぽく会釈して、去った。残るのはおれ一人。


 一言喋っただけなのに、ひどく疲れた。難しいことをしたからだろうか。

 普通に落とし物を拾ってくれた女性に、普通に礼を言う。久しぶりに物事が正常に回ったような気がする。空回らない平凡。枠を超えない仕合せ。きっと普通過ぎて、誰も気にも留めない。あの女性も、数分後には忘れているはず。世界でおれ一人、ここで普通が執り行われたことを知る。


 棒立ち。五分くらいだと感じたが、陽は落ちていた。

 足が疲れた。家に帰ろう。今日はもう寝よう。


 あの普通を明日に持ち込めたなら、もう夢を見なくても日々をやり過ごせる。一日の終わりに、おれはそれだけを思った。



                 *****



                  ***



                   *


 


 ——おれは一人暗澹な部屋で筆を執る。何も浮かばないまま適当な紙にぞんざいな文を書き連ねて、そして気づく。

 どうして遺書を書くときって、必ず敬語で書いてしまうのだろう……?

 


 


 


 


 


 

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