10. 時計

 彼女の指が、古風なアナログ時計の長針を動かして、正確な時刻に合わせる。


 リビングのテーブルに置かれたアンティークの時計は、一際厳つい存在感を放って鎮座していた。


 午後七時三十分。

 夫が帰って来るのは、七時三十五分だ。


 彼女は時計が好きだった。正確に時を刻み、過不足無く情報を伝えてくれる存在を、愛おしく感じていた。


 夫はそこまで時間に厳密な人間ではなかったが、妻の性格は重々に承知しており、出来るだけ定刻通りの行動を心掛けてくれる。

 電車が事故で遅れればタクシーを使い、残業は断固として引き受けない。


 二年前に長子を授かり、彼女は専業主婦となったものの、生活は出産前よりも上向いた。

 出生率が激減した御時世で、手厚い支援金が給付されるからだ。


 なんなら夫が仕事を減らしても、暮らしていくのに困らない。

 家に引き篭ればいいのにと言う彼女へ、彼は「そうもいかないだろう」と苦笑いしていた。


 秒針が刻む小さなリズムが、カチカチと静かに響く。


 時計の中でも、機械式が最も好ましい。

 毎日時間を合わせ、ゼンマイを巻き、ガラス蓋を拭く。手間の掛かる作業にこそ、彼女は喜びを見出だした。


 時をつかさどり、時に守られる。

 時間に執着する性格を除けば、穏やかな良き妻だと自負もあった。夫も納得して結婚したのであり、この高級置時計も彼からのプレゼントだ。


 壁に嵌まったモニターに近寄り、スイッチを入れると、ニュース配信が映し出された。

 連日の病死者の増加を、アナウンサーが淡々と告げる。


“赤死病”の流行は、もはや世界規模で問題となっており、自分たちの住む国も無縁ではない。

 新たに生まれ続ける多種多様な奇病の中でも、感染力が強く、死亡率も異常に高い。

 潜伏期間が長いため、キャリアが気づかないまま日常生活を続けてしまい、余計に被害が伝播した。


 病院からの生中継に切り替わった映像を見て、彼女は不愉快そうに電源を切る。

 中継など愚かしい。


 本気で赤死病を抑える気なら、みんな家から出ずに、罹患者は徹底して隔離するべきだろう。

 この事態でも社会の営みを続けた結果が、史上最悪の疫病被害を生んでしまった。


 午後七時四十分。

 結婚以来、夫が五分以上遅れて帰宅したことはあっただろうか。


 彼女は時計を見つめ、針の動きを目で追う。

 出掛けなければいいのに、そう彼女は忠告した。


 もっとも、慌てて家に留まっても同じこと。潜伏期間は長いのだ。


 時計は無情にも針を進め、七時五十分を示す。


 感染した夫はそうと知らずに勤務を続け、一昨日、職場で吐血した。

 すぐ病院に担ぎ込まれたらしいが、即死に近く、病室に着いた彼女は冷たい遺体と対面する。

 息子が亡くなったのは、翌日のことだった。


 自分だけが陰性なのは、果して本当に幸運と言えるのか。


 リンリンと澄んだベルが鳴り、時計が午後八時を教える。鳴らしても平気な音量の奴を選んだと、夫は笑っていた。


 彼が家に帰るのは、午後七時三十五分。


 彼女は時計のガラス蓋を開け、長針に指を掛けると、また・・七時三十分へと押し戻した。

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