第10892世界『地球』 日本

再び踏み出す日常への第一歩

 気がついたら、見覚えのある住宅街の路地裏に立っていた。

 というか、我に返ったって感じが一番近い。


「わたし、ハロワールドから帰ってきたんだよね」


 自信がない。

 白昼夢のような空想にふけっていただけのような気もする。


ハロワールドに、行ってきたんだよね」


 声に出してみるけど、自信がない。

 はっきりと覚えているのに、どうして不安になるんだろう。


「ピィ」


 でも、足元にいるピィちゃんの首輪は赤ではなくて、緑色。

 それに、すぐに気がつかなかったのが不思議だけど、右手の中には金の指輪があった。


「夢じゃなかった。夢じゃなかったよ、ピィちゃん」


「ピィピ」


 目頭が熱くなる。

 言葉にできないほどの感情が、一気に胸の奥からこみ上げてくる。


 夢じゃない。

 わたしは確かにハロワールドに行って、帰ってきたんだ。

 もう、元の『女子高生』に幻滅していた五月病のわたしじゃないんだ。


 大丈夫。

 勝手に期待して勝手に幻滅していた高校生活を、前向きに過ごせる自信がある。

 もしかしたら、校門をくぐる頃には消えてなくなっているかもしれない自信だけど、確かに今この瞬間はわたしの中にあるんだ。


 内心『犬』じゃないんじゃないかって不安だったピィちゃんも、ますます好きになった。大好きだ。タムタムには、ピィちゃんが望むなら別れてもいいって言ったけど、本当は嫌だった。

 タムタムは、本当に遊びに来てくれるのかな。

 まだ、この胸の高鳴りに名前をつけるのは早い。


 あんなめんどくさがり死にたがりのどこがいいのか、わからないんだから。


「帰ろうか、ピィちゃん」


「ピィ」


 眼鏡を押し上げて、溢れそうになった涙を拭って顔を上げる。


 行楽日和のいい天気。

 久々に見た太陽は、燦々と光を降り注いでいた。

 目に優しかった大いなる暈グレートハロとは、まるで違うけど、これがわたしの世界なんだ。


「ハロー、ワールド」


 あいかわらず、静まり返った住宅街の細い路地裏から出ようとした、その時だった。


「っ!」


 走ってきた人影にぶつかりそうになって、危うく尻もちをつくところだった。


「ごめ、んなさいっ」


 聞き覚えのある声に、弾かれたように顔を上げた。

 生活道路を走っていくその後姿は、間違いない。わたしだ。

 脇腹を押さえながら走る背中の先には、灰色のマント姿のタムタムが


「ピィちゃん、わたしたち、ちょっと早く戻ってきちゃったみたいだね」


 これから、お約束破りな異世界に行くことになるなんて思いもせずに――ううん、ピィちゃんを取り戻すことだけしか考えずに必死で走る自分の後ろ姿を見送るなんて、とても不思議な気分だ。


 の前を歩くタムタムが、十字路で足を止めると、彼の足元から黒い靄が舞い上がる。今ならわかる。闇の暈ダークハロだ。


「ピィちゃ、ん、を、返せぇええええ!!」


 なけなしの体力を振り絞って彼の背中を捕まえようとしたが、彼を飲みこんだ闇の暈ダークハロに消える。

 しばらく十字路の上で、グルグルと渦を巻いていた闇の暈ダークハロは弾けるようにパァンと消滅した。


「がんばれ、わたし」


 空気が変わった。

 近くの家から、テレビのコメンテーターの面白くもない政治批判が聞こえてくる。

 静かな住宅街に人の気配が戻ってきたんだ。


「今度こそ、帰ろうか」


 今度こそ、日常に戻ってきたんだ。


「ピィ」


 家に向かって歩きだす。

 緑色の首輪に合わせたリードも、新しく買わないと。


「あ、そうだ」


 チノパンのポケットの中からスマホを取り出す。

 指紋認証でロックを解除すると、止まっていた時間も動き出していた。


「……あれ?」


 ピィちゃんのベストショットの壁紙の前に並んだアイコンの中に、見知らぬものが紛れていた。


「う、そ」


 赤いボールのようなアイコンの上に白で書かれた三つの数字に、胸が高鳴る。


「995?」


「ピィ?」


 足元のピィちゃんが伸び上がる。


「待って、ピィちゃん」


 まだ、ピンポン玉アルゴ995号と決まったわけじゃない。


「ハロー、ハロワールド」


 震える指に、ありったけの勇気をこめて、赤いアイコンをタップする。


 日常に戻ってきたけど、どうやらハロワールドの一部も連れ帰ってしまったらしい。

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