第四章第三節<Old Friend>

 結女は男に案内されるまま、石組みの廊下を歩き、冷たい石段を登り、さらにまた灰色の光の差し込む回廊を進む。途中、幾度となく擦れ違う者たちは結女に視線を向け、ある者は囁き交わし、ある者は羨望の眼差しを送った。


 それが、己の何に対して向けられているのかということを考えもせず、結女はただ冷え切った爪先を機械的に踏み出し、道を辿る。


 アウレティカ、ジュライと分かれてから十分は歩いただろうか、男の案内のもと、結女は最奥にあると思われる一つの重荘な扉の前に導かれた。


 男は扉を二度軽く叩き、そして結女の到来を告げると、中から男性の声で応えがあった。入室を許可する言葉に、案内していた男は慌ててその場を離れて姿を消してしまう。その卑屈な態度に、いささかではあったが頭痛を覚えた結女であったが、気を取り直し、部屋の主の導くまま、扉を押し開いた。


 室内は、緋色の絨毯が敷かれた書斎のような部屋であった。扉の向かいの壁には大きな窓が一対設けられており、部屋に足を踏み入れた者は、まずその窓から差し込む光と対峙し、ついで部屋の正面に配された大きな机についた主と対面することとなる。部屋の左右の壁はそのまま書架となっており、そこには無数の貴重な資料が並べられていた。そのどれもが一般の閲覧には応じられぬ、貴重な古文書の類であり、また不特定の者の接触には耐え切れぬほどに磨耗した装丁の書ばかりであった。


 結女はまず、雪を反射して目を射る陽光から顔をかばい、ついで部屋の主の姿を目の当たりにした。


 主は、初老の男性であった。


 髪は見事な白髪であり、それが波打って背のあたりまで流れ落ちている。さらに、男にしては線が細く、そして端整な顔立ちをしている原因を、結女はすぐに悟った。男の顔の側面、ともすれば髪に隠れてあまり見えぬその耳は、鋭く尖った形状をしていた。


 かつて精霊に愛された、長命の種族。


「天城、結女様ですね」


 精霊族の男は、結女の氏名を流暢な発音で確認した。


「ここの館長をしております、ゾットール・シェルダーリオンと申します」


 胸に手をあて、ゾットールと名乗った男は一礼に身を屈める。


 この人が、父と共にあの秘められた霊戦を潜り抜けたのか。如何なる歴史書にも残されていない、しかしそれ故に熾烈を極めた、神の戦乱に終止符を打った、あの戦いの生存者なのか。人の世界に出るために、古代精霊言語での「二」すなわち「新緑」を意味する姓を捨てたことは、結女の与り知らぬことではあったが。


 白を基調にし、品を損なわぬ程度に金の装飾を纏った服の裾を揺らし、ゾットールは机の向こうからゆっくりと進み出た。


「お父上は、ご健在ですか」


「はい、お陰様で」


 緊張していないと言えば嘘になる。しかし、初対面であり、またこれほどの高位の人間であるにもかかわらず、その威圧感を適切な度合いに保ち、また向かい合う者を落ち着かせる物腰は、結女には有り難くもあり、また新鮮であった。


「それはよかった」


 社交辞令には決して見られない、心からの微笑みを顔一杯に浮かべる。


「ちょうど雪が止んだ時期でよかったが……ここまでは一人でいらっしゃったのですか」


 その問いは、これまでのものと同様、旧知の友の娘に向けた、何の変哲もない質問の一つであったはずであった。


 しかし結女には、その問いに対する答えに、先ほどまで自分自身の精神を不快なまでに揺さぶった、あの男に対する憎悪が音もなく揺らめき、立ち上るさまを感じた。何故なら、結女に同行者がいるという話を、あの男はゾットールに伝えていないことになるからだ。


 ここで、連れがいることを答えとすれば、もしかしたらあの男の態度というものを、暗に告発することが出来るかもしれない。館長の地位であれば、この図書館で働く者一人を解雇することなど、造作もないことであろう。


 考え、逡巡し、そして。


「ええ」


 結女は誘惑を撥ね退け、ゾットールの言葉に首肯した。つまらぬ諍いの種が、自分の内なる空間で忌まわしき実を結ぶのを、結女はよしとしなかったのであった。


「こちらが、父からの手紙です。お忙しいとは存じますが、ご覧になっていただければ」


 結女は懐から、細く折り畳んだ和紙の書簡を取り出した。この地方では見られぬ、毛に墨を染ませて筆記用具とする筆と呼ばれたもので綴られた文字を、しかしゾットールはこともなげに読み進む。


「お父上は、あなたを武者修行に出すとはいえ、やはりお心を砕いていらっしゃいますね」


 ゾットールは結女の目の前で書に目を通し、そして再び微笑んだ。


「何かお困りなことがあれば、どうぞおっしゃってください。喜んでお力添えをさせていただきましょう」


 結女が、心の鎖を、解き放とうとした、そのとき。


 すぐ背後で、先刻入ってきたばかりの扉が控えめに、しかし微かな焦燥感を伴って、ノックされた。


「お話中、申し訳ありません、館長」


 男の声だ。しかし、結女の聞き覚えのある声とは違う。


「取り急ぎ、館長にお会いしたいという方がいらっしゃいまして……」


「今は大切な友人との時間ですよ」


 ゾットールの、遠まわしではあるが明確な拒絶があってもなお、扉を隔てた向こうから人の気配は消えなかった。しばし沈黙があり、そして最初よりさらに控えめに、男は言葉を続けた。


「それが……実は、その方と申しますのが、バベル・フラムスティード様でございまして……」


 結女には聞き覚えのない名であったが、それを耳にしたゾットールの表情は一変した。額に手をあて、しばらく何かを考え込んでいる様子であったが、やがて顔を上げ、頷いた。


「仕方ありません、通しなさい」


「は」


 男の足音が遠ざかるのを待たずに、ゾットールは再び結女に向き直った。


「お忙しいようですので、私はこれで……」


「構いません」


 足早にゾットールは、部屋にあるもう一つの扉に近寄り、開いた。その先は第二の応接間のようになっており、背の低い机と、向かい合うように四脚の椅子が整えられていた。


「申し訳ありませんが、こちらでお待ちになっていてくださいますか」


 ゾットールの申し出の意図が分からなかったが、結女はそれをゾットールの好意と受け取った。


 そこまで頼まれておきながら、無碍に踵を返すことはかえって無礼にあたる。そう感じた結女は、有り難くゾットールの申し出を受けることとした。






 部屋に通されてから程なく、扉の向こうに新たな人の気配が生まれた。


 別段、なにをするでもなく、座っていた結女は、ふと生まれた好奇心から、扉へと歩み寄ってみる。そして、目の前の扉が完全には閉まり切っていないことに、結女は気づいた。


 閉め忘れたのか、あるいは故意か。しかしそのお陰で、結女はバベルという名の客人とゾットールとの会話を、比較的明瞭に聞くことが出来た。


 なにやら一方的にまくしたてた男の言葉の切れ目を捜し、ゾットールはこれ見よがしに溜息をついて見せた。


貴族院三冠トライ・フェルネの特権には、人の予定を考慮せずともよいという題目まで揃っていらっしゃるようですね」


「要らん口だけは達者だな、人外の分際で」


 高圧的な男は、ゾットールの剃刀のような言葉の攻撃をこともなげに打ち返した。まるでその態度は、こうした敵意をふんだんに含んだ応酬にも、熟練しているかのような感覚させ起こさせる。


「何度も申し上げますが、私は古い友人との会合があるのです。用件がそれだけであるなら、即刻お引き取り頂きたい」


「事はそう簡単ではないのだよ、館長」


 バベルという名の男は、たとえ目の前で意思疎通に必要な回廊の門を閉ざされたとしても、少しも怯みはしないだろう剣幕を続けた。


「<緋なる湖畔エスフォート・ライネ>についての文献を調査したいのであれば、どうぞご自由に。その権利は当然貴殿にもありますが、それは誰にとっても同じことだということをお忘れなく」


 その言葉を耳にした、結女の眉が僅かではあったが、ぴくりと動いた。


 聴きなれぬ言葉、<緋なる湖畔>。そこにただならぬ雰囲気を感じた結女は、さらに扉の隙間を押し開き、聴覚に神経を集中させる。


「融通という言葉を知らずに育ったらしいな」


「生憎と、私の知るその言葉は、あなたとは異なる辞書で学んだものですから」


 一歩足りとて退かぬその態度に、バベルはこれ以上の正面交戦は無駄であると悟ったらしい。


「今日のところは退いてやろう。だがいずれ、自分の言動に後悔する日が来るだろう事を忘れるな」


 独創性という面を持ち合わせぬ捨て台詞を吐くと、バベルは大股で扉へと歩み寄り、そして歩調を緩めることなく退出していった。

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新編 Nostalgia Episode7 不死鳥ふっちょ @futtyo

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