第二章第二節<Political balance>

 会議を終えたオーウェンは、足早に廊下を歩いていた。そのすぐ後ろを、半ば駆け足になりながらも助手の青年が羊皮紙の書簡をいくつか抱えたまま、追いかける。


 陽光が降り注ぐ中庭まで来たところで、オーウェンの足がふと止まった。


「お前は先に管理局に戻っていなさい。私はこれから人と会う約束がある」


 呟くように伝えると、助手の青年は釈然としない表情のまま、気の抜けた返答をした。その様子があまりにも露骨であったため、オーウェンは溜息をつくと、そこでやっと振り返った。


「何か、私に聞きたいことがあるのかね」


「先ほどの会議では、おっしゃっておられませんでしたが……」


 その言葉で、オーウェンは青年の胸中に渦を巻く靄の正体が理解できた。


 僅かに逡巡した後、オーウェンは中庭に爪先を向けた。


「まだ少し時間がある。話をしようじゃないか」


 オーウェンはそう言うと青年に振り返り、優しく笑顔を浮かべた。中庭をぐるりと取り囲む、無数の円柱によって支えられている回廊から出ると、厚手の上着を通してもなお、温かい陽光を肌に感じた。まるで温かい手をそっと肩に置かれているような、そして子どもの頃、太陽の香りのする母親に頭を撫でてもらった記憶が蘇えるように。


 そのせいだろうか、惜しみない陽光を浴びた瞬間の人は誰しも、ふと何かから解き放たれたような表情を浮かべるのは。


 革靴の底の感触も、冷たく固い石廊下からふわりと優しく受け止める土へと変わっている。オーウェンはその場所から青年を待つように振り返りつつ、回廊を慌しく歩み去る者たちの姿をちらりと見た。


 自分もまた、今しがたまでその中にいたというのに、こうして陽の光の中に身を浸してしまうと、陰になっている場所が途端に異質に見えてしまうのは気のせいだけではないだろう。


 普段、自分がそのような言葉をかけられたとしたら、素直に応じるだろうか。下らぬことに構っている暇は無い、と皮肉の一つでもつけて、冷徹に払いのけはしないだろうか。


「局長、話というのは」


 青年の言葉によって、思考の迷宮から掬い出されたオーウェンは、記憶の回路をゆっくりと切り替えた。


「お前が気になるというのは、どういうことかな」


 半ば声を落とし、話を続ける。


「<緋なる湖畔エスフォート・ライネ>についての情報です」


 青年もまた、オーウェンの意図を察したのか、声を潜めた。


 この情報は、まだ呪務管理局の中でも一部の人間しか知らないものであった。<緋なる湖畔>の詳細が分からなくても、それは十分に国内に混乱をもたらすものであったため、言及を避けたのであろうか。いや、しかしそれでも、あの会議の出席者のレベルにもなれば、国家機密にも触れることが出来る者たちばかりではなかったか。


「大陸戦争の危険がある、というものだね」






 オールマイアが滅び、ワルキュリエ共和国が樹立して三十年あまり。その間、大陸の国家間勢力図は度々書き換えられざるを得ない状況に陥っていた。


 まず、ヴァライア諸侯国連合の事実上の中枢権力を握っていた、カレルナスブルグ公領のアーヴァインが老齢の為に死去するや否や、この連合国の結束は急速に弱まっていったのであった。


 もともとが災禍ハルクーストの英雄としてのカリスマによるものであったのか、アーヴァインを継ぐ人物は人徳までは継承していなかったのか、以後数年でその無能さが浮き彫りにされる失態が続出し、この連合同盟から脱退する者が後を絶たないという状況に置かれてしまったのだ。結果として、ヴァライア連合は事実上の解体となり、現在のところは小王国、自治領が点在するという状態に置かれている。


 だがこの事態を、ラスケイピアは見逃さなかった。


 大陸北西端にあり、戦乱や策略の渦から半歩退いていた国ではあったが、小国が分散したと見るや、電光石火の素早さで隣接する三つの領土の盟主と条約を締結し、経済面での助力と引き換えに自治権の一部を手に入れるという策を展開したのだ。


 これは一般にはヴァライアの再結成による力の復興の阻止とされているが、信頼できる筋の情報によれば、条約締結をした領内の山岳に希少金属の鉱床を事前の調査で発見していたための策、とされていた。かつての、ハルクースト戦役の発端となったアイエン群島領と地層年代を同じくする鉱石であり、また当のアイエン群島はハルクーストの黒き宰相ゾエルフィーの大規模な気象呪術によって水没してしまっており、優に一世紀を超えて人の手に渡りつつあった財宝の山であったのだ。


 また、ワルキュリエ共和国は発足からほとんど時を待たず、ロベルティーナ女王は国土を三つに分割し、そして国内から聡明な女性ばかりを競わせる筆記、武術、討論の試験を行わせ、それによって選出された三人によって統治を分割させた。これにはオールマイアの国王が代々男子に限定されていたものと、完全なる世襲制であったものをロベルティーナ自身が強く嫌っていたためとされており、より平和的な統治を目指すために頂上に女性を置き、また権力を集中させないための手段として高く評価されることとなった。


 だが近年、その中の一人レイシス領において不遜な動きがあるということに対し、諸国は緊張を強めている。これは噂の域を出ない情報ではあったが、レイシスは臣下の男性と通じ、叛旗を翻す虞があるとして、ワルキュリエ共和国のみならず周辺地域の者たちは皆、口には出さぬが第二の戦乱を怯え、そして言葉の端々にはそうしたきな臭い雰囲気が漂っていた。


 こうして、三大国の勢力分布が変化したことにより、大陸は第二の時代へと流れ込もうとしていたのだが。






「だから、こんな辺境の島国には牙を向く余裕など、ありはしないだろう、というのが一般的な見解だろうな」


 オーウェンの説明に相槌を打っていた青年は、区切りがついた時点を見計らい、顔を上げた。


「しかし、それでは、心配をすること自体、無意味ではありませんか」


「いいか、これはあくまで、私の推論なのだよ」


 オーウェンは視線を外し、苔生した噴水の淵で飛沫を上げる黄緑の羽をした愛らしい小鳥の水浴びを静かに見やる。


「いかに魔術を学ぶ徒の上に立つものとしても、運命の女神ではないのだよ。明日になってみれば、どう事態が変わっているのか断言できるものなどいないのだ」


「はぁ……」


「案ずるな」


 オーウェンは口元に微笑みを湛え、青年の肩に手を置いた。


「<緋なる湖畔>の軍事利用など、あの結界がある以上はどうにもならんさ。それに、もう手は打ってある」


 にやりと笑い、オーウェンは自分の右の手の指を開き、甲を青年の側にして見せた。


 一瞬、それが何の意味を表すのか理解できなかった青年は、しかし唐突に意味を悟った。


 オーウェンの中指に嵌っているはずの、黒玉石の指環が、ないのだ。


 常にオーウェンの五指にはそれぞれ異なった石の指環があった。紅玉石ルビー碧玉石エメラルド黒玉石ジェット黄水晶トパーズ青瑠璃サファイアの指環全てには魔力が込められていると聞くが、実際にオーウェンがそうした指環の魔力を借りて魔術を行う現場には、まだ遭遇したことがなかった。


 だが、一つ一つが類稀な品であることは、青年でなくとも一目で知れた。その一つがなくなっているという事実は、指環の魔力を何者かに譲渡したということに他ならぬ。


「遺産保管局の人間を一人、あの場所に派遣してある…コルヴレイズという男だ」

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