第二章第一節<Lake of scarlet>

 大陸の北西の湾岸に位置するラスケイピアより海峡を挟んださらに北に、約二十五万平方キロメートル規模の島がある。


 島とはいえ、もともとは複数の国家が存在していたほどの広さを持つものであり、しかし現在はそれらは統一され、クレージェントという名の国家が成立していた。


 三十年前、大陸西土で起きたオールマイアを滅亡に追いやった内乱において、クレージェントは完全に傍観を決め込んでいた。この戦乱にラスケイピアが本格的な参戦を決め込んでいれば、クレージェントは大陸との輸送経路を封印され、経済封鎖を取られていたに違いない。


 しかしオールマイアの内乱は他国をほとんど巻き込むことなく、オールマイア自身の滅亡という結末で終焉を迎えることになった。






 クレージェント聖王都、城内のとある会議室にて。


 列席している者たちは、皆一様に一人の男の到着を首を長くして待ち望んでいた。


 その男の名は、呪務管理局長官オーウェン・ファーニヴァル。


 大陸北東に存在する不可侵領域についての詳細な調査の報告による今後の対応決定のためのこの会議は、これまでに二度、他ならぬオーウェン自身の欠席において中座していた。曰く、提出書類の不備によるものとしていたが、オーウェンを快く思わない輩の中には、彼自身が会議による採決を望んでいないのではないか、という中傷であった。


 何故ならば、その不可侵領域とは、如何なる人為的な条約や盟約による干渉地域ではなかったからである。


 冠せられた名は、<緋なる湖畔エスフォート・ライネ>。周囲五キロ四方より近づくことの出来ないその場所は、長く歴史の中に名を残している。


 名の由来は、その異観にあった。


 <緋なる湖畔>の存在する方角は、昼夜を問わず、暮色が空を染め上げているのであった。


 本来、太陽の運行により照射時間の差異から生ずる昼と夜という概念を根底から覆さんとしているその現象であった。深夜に見たとしても、その方角の天空だけはまるで永遠に続く黄昏刻のように、天空のみならず漂う雲の腹さえもが、赤く染まって見えた。その光は決して目を射ることは無く、しかし存在感だけは強烈なまでに、訴えかけてくるものであった。


 それならば何故、湖畔であることが判明しているのか。事実を立証できる手段は、今のところ存在しない。当該地域を現在確認しようとしたところで、地表には無数の樹木が林立し、原生林のような様相を呈していた。


 また、魔術師における幻視干渉をも退けるだけの対抗魔力が結界を成していることからも、その地域に関する詳細な情報については憶測の域を出ることは無かった。


 しかし一ヶ月前、オーウェンは大々的な発表を国王クレージェント二世の前で行った。


 国庫援助を願う代わりに、<緋なる湖畔>についての情報を提出できる技術を開発したというのであった。その詳細はいまだ不明とされていたが、ともあれオーウェンに対する経済援助は受理されることとなったのであった。


 この日も、約束の刻限を半時間ほど回っても、オーウェンの姿は会議室に現れることはなかった。


 貴族院三冠トライ・フェルネの一角を占め、同時に獅子皇騎士団上級大将ジュリアン・アイアトンが、その病的に白くやせ細った拳を今にも樫のテーブルに叩きつけんとしたときであった。


 静かに扉は開き、そしてオーウェンは姿を現した。


 紺を貴重とした正装の上に、胸元にエメラルドのメダリオンを掲げたその姿に、半ばの者は会議が進展するという至極当然な成り行きに安堵の溜息を漏らし、そして残りは悠然としたその姿に小さく舌打ちを漏らした。


 一人の若い助手を伴ったまま、オーウェンは特別に急ぐでもない足取りで大きくテーブルを回り込み、そして両手を後ろに組んだまま、まるで学徒の試験監督をする学府の教授のような表情を浮かべていた。


 己の席に着いたオーウェンは、しかし椅子に腰を下ろすでもなく、列席している者たちを口髭を僅かに動かしただけで一瞥し。


「お待たせして申し訳ない、諸君。たった今、最後の報告がもたらされたものでな」


「前置きはいい」


 多分に排他的な響きを持たせ、手で空を払いのけるような所作をしたのは、軍務省聖守護騎士団元帥のアーサー・ソーンダイクであった。


「我々が知りたいのは、あの地域が人の手によって統治できるかどうか、ということなのだよ」


「では、結論から申し上げよう」


 オーウェンは俳優のような身振りで手を振って見せると、彫像のように胸を張り、喉をそらせた。


「支配は可能だ」


 その言葉に、一堂がざわめく。


「そして、当該地域を覆う近隣の地域における結界の作用も判明しておる」


 オーウェンは自分の言葉がもたらした衝撃を確かめるように睥睨すると、とんと指先で頭を叩いてみせる。


「脳からあらゆる記憶を消し去る、忘我の結界……それがあの、<緋なる湖畔>を覆っておる」


「莫迦な」


 真っ先に否定したのは、中央情報事務局長ニコラス・アーチャーである。


「何もかも忘れてしまうという程度なら、いくらでも兵力の投入など可能だろう」


「落ち着いてください、長官殿」


 オーウェンは唇を歪め、そして出来の悪い生徒をたしなめるように、ゆっくりとした発音に切り替える。その一言一言は、まるで今しがたの軽率な発言がもたらす、己の無知さの暴露を殊更に示すかのように、ニコラスの胸を抉る短刀のように突き刺さった。


「どのようにして、あなたは朝目覚めたのですか?同じくどのようにしてあなたはパンを噛み、ミルクを飲み下し、そしてどのようにして今もなお、深く息を吸い込むのですか」


 その言葉から、一握りの者は既にオーウェンの言わんとしていることが判明できていた。


「忘我の結界とは、ただ忘れさせるだけのものではないのだよ。それこそ生命維持においてすら必要な、人である以上知らなければならぬ根源的な記憶すら、まっさらな状態にしてしまうもの」


 ニコラスは憮然とした表情のまま、眉間に刻まれた皺をさらに深くしたまま、オーウェンを睨みつける。


「それとも、長官殿は三つの誉れある騎士団を、赤子よりも手のかかる、図体だけ大きい保育施設にでもなさるおつもりか?」


 失笑が各所で沸き起こり、ニコラスはまるで絞殺死体のように充血した眼差しをあたりに向けた。


「現在、我々の調査隊が結界を打ち破る方法について模索中である。もしあの地域が支配できたとするならば、その内側には恐らく潤沢な土地が豊富に残っていることだろうな」


 これまでの調査から、<緋なる湖畔>周辺に生い茂る植物らは、従来の種と同じものであるとするなら、成長規模と速度は五割は増しているだろうという報告がもたらされている。つまり、その土地に隠された秘密を明るみにすることができれば、農業革命にも匹敵するほどの効果が期待できるということにも繋がるのだ。


「ということは、結界の解除も出来ず、支配が可能であるなど、机上の空論に過ぎぬ……か」


 ジュリアンの言葉に、同じく貴族院を代表して出席する者たちはオーウェンから視線を外し、なにやら互いに囁きあっている。


「役に立たない報告は今回も同じ……どうせなら、もう少し有益な情報が欲しかったよ。国の金を使うという身分である以上、ね」


 ジュリアンは最後の言葉をオーウェンの脳髄に突き立てるほどの敵意を込めて発し、そしてわざと音を立てて席から立ち上がった。そしてそのまま、くるりと踵を返すと一度もオーウェンに振り返ることなく、会議室を後にした。


 残った者たちは、皆オーウェンの発言が続くものと思ってはいたが、予想に反して反撃はもたらされなかった。


 いまだ根強く国の各所に根を張っている貴族院のもたらす影響力は計り知れず、胡散臭く思っていてもそれを行動に移せぬ者は多かったのだ。それ故、オーウェンの反撃がなかったことを、彼らは痛いところを突かれたのだ、と取るしかなかった。


 つまり、菓子を目前にしながらも、その前に立ち塞がる厳格な母親に怯えているだけの子どもと同じ状況であるのだ。


 宝はあれど、手に入れるは敵わず。


 それを今回の結論として、それからほどなくして、会議は解散された。

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