第六部 第1話
キツネさんは親しくならないと人を名前で呼ばず、適当な愛称を付ける癖がある。子リスちゃん、ナルコレプシーちゃん、財ちゃん、壁君辺りがその筆頭だろう。乙茂内も最初はそうだったらしいし、ツーカーと見える百目鬼先輩ですらそうだったと言うのだから驚きだ。だから俺が俺の事を哮太で良いと言った時も少し驚いたのだと言う。全然そう見えなかったけれど。
「美女は最初
「あたしは
「いじめ? あのキツネさんに? どんな猛者だ……」
おにぎりを包んでいたアルミホイルを丁寧に畳んでごみ箱にシュートする。当たって弾けて見事成功。バスケもあんまり出来ないからこういう時の爽快感は格別だ。さて閑話休題。キツネさんの苛められ問題だ。
「髪の色の所為で随分いじめられたらしいよ。本人曰く地毛らしいけれど、他人には分からないからねえ。通せんぼされて裏切られたのが原因だと言われている。あたし辺りに」
キツネさんはお手洗いに行ってまだ帰ってこない。地学準備室からトイレは結構遠いのだ。滅多に使わないからそれは頷ける。しかし危急の用の時は大変だろう。特に女子は。
「こっちに行けば通れるよ、って言ってくれた唯一の友達が、通せんぼを手引きしてたって言うねえ。人間信用できなくするには一発だよ。しかも小学二年。ちなみにキツネさんのテスト一位記録はそれから続いてる。そして名付けも、続いている。やっぱどっか人間不信なんだろーなーとは思うよ。だからせめてテストで見返してやろうと思ってるのかな」
トラウマ、と言う奴だろうか。それにはちょっと大げさな響きがあるが、高校生になっても人の名前が上手く呼べないと言うのは結構な心の傷だろう。俺がいまだに走れない事にもよく似ている。まあ、俺の場合はひき逃げと言う立派な犯罪に巻き込まれたせいだが。犯罪に立派も何もないか。人を傷つける行為に、立派がないように。
しかし小学二年から一位ってすごいな。俺は二桁内に入ってれば良い方だから、素直にその努力に感心する。家庭教師や塾や通信講座を受けずに、だもんな。あの飄々とした姿で何人の鼻をへし折って来たんだろう。そう思うとその執念にはちょっと怖いものがある。そしてそれでも進学しないというある種の潔さには感服する。特待生扱いしてくれるところもあるだろうに。そういえば中学から大学までエスカレーター式のうちの学校でも、キツネさんは特待生扱いで授業料免除だったと思う。一年の俺にはまだまだ遠い話だが、大学なんて。二年前、やりたいことなんて何にもない状態にさせられた俺としては、もう少しモラトリアムを楽しみたいからと言う不純な理由で適当な進路を決め、あとで困るのがお似合いだと思う。そうだな、大雑把に言えば文系だな。本当大雑把だな。乙茂内は理系っぽいが、何故か俺に文系の相談をしてくる。何でも頑張る、えらいえらい。でも俺にばっか聞くの止めて、周囲の視線がこわいこわい。
「あら、何か盛り上がっているのかしら?」
「キツネさん、おかえりなさーい。若人たちと勉学について少々ですね。ちなみにキツネさんの進路は?」
「家業の手伝いかしら」
「家業ってあれ?」
「そう、それ」
「二人で会話を完結してないで下さい。何ですか家業って、お店ですか?」
「うーん物売りはしてるけれどお店とは少し違うかしら」
「美女も知りたい! キツネさんの家業!」
「まあ、その内話すわよ」
くすくすと煙に巻かれて、俺達は予鈴を聞く。結局訊き出せないままキツネさんは弁当箱を持ってさっさと地学準備室を出て行ってしまった。ちょっと悔しいな、思いながら歩いていくと、乙茂内にねぇねぇと見上げられる。アイプチだと知っているが二重瞼のくっきりしたその顔は可愛い。小悪魔め。そういやそんな雑誌もあったな。そう言うのにも出るんだろうか。白い肌に黒はさぞよく似合うだろうが。
「なんだ、乙茂内」
「今日さ、キツネさんの後追い掛けてみない? そしたら家業が何だか分かるかもっ」
「あの人自転車時々バス通学だぞ。追い付けない」
「み、美女が太いからっ!?」
「いやそんなことはないから。言ったろ、二ケツする予定はないって。俺昔の怪我が原因であんまり足使えねーんだよ」
「み、美女が漕ぐっ!」
「目立つわ。それにお前一人なら出来るだろうが、俺と言う文字通りの荷物を抱えて漕いでいくのは至難の業だぞ」
「うー、うー」
「ウルトラ怪獣みたいな鳴き方すんな」
「ちえー、哮太君たら冷たいのっ。美女電車通学だからこっちに自転車置いてないんだもんなー。爆速ギア七連チャリ」
「小学生か」
「ちゃんとした大人用ですっ!」
と、教室に入ったところで本鈴が鳴る。ギリギリだ。話しながら歩いていると遅くなりがちだが、今日も危なかったな。ただでさえ乙茂内連れて歩いてると目立つんだ。一緒に遅刻なんてしたら余計に目立つことこの上なくて嫌だ。何で俺こんな部入ったんだろう。それも原因は乙茂内だった気がするが。あの笑顔と涙目の絶妙な差異が俺を引き留めてしまったのだ。不覚にも。
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