冬季

立冬。


 冬がくる。全てが眠る冬である。

 冬とは全てが死に絶え、朽ち果て、そして眠りに付く季節である。幾度となく繰り返し見てきたが、相変わらず閑散とした世界である。色がないのだ。黒白の無声映画でも見ているかのように、ぼんやりと、世界は移ろう。冬である。

 冷たい空気が、やがてここを満たすだろう。

 私の肺を満たすのと同じように満たすだろう。満ち満ちたとき、世界は冬に沈むのだ。眠りに付くのだ、世界さえも。世界からも私は隔絶されているのだ。愚かしい。なんと愚かしいのだろうか。

 眠ってしまえば、あらゆるしがらみから逃れられると、誰が言ったのだ。誰が。


(以下より文字は随分と乱れている。)


小雪。


 小枝の男が私を覗き込んでいる。砂が部屋中を覆っているが、幸いにも私を囲う気高き書物たちのおかげで難を逃れている。小枝の男が私に耳打ちをする。わたくしは魔王であるぞ、と私に言っている。おまえを今に罰してやるぞ、と私に言っている。私が投げつけた硯を、男がかわす。障子を破って縁側へ転がり、庭へ落ちたようだ。砂が巻き上がり、紙魚どもがわらわらと押し寄せてくる。


大雪。


 外が白い。

 そこに点々と転がる蛆虫が、黒の斑を作っている。

 足跡も残っているが、あれは男のものだろう。

 紙魚が私の霊峰を齧り、食いつくさんとしている。

 私ももうこれまでだろうか。

 罪深き私が裁かれるのは、もうすぐなのかもしれない。

 判事を務めるのはおそらくあの小枝の男だ。

 執行人かもしれない。

 いや、砂はどうなる。

 この砂だらけの部屋にした張本人も、執行人であろうか。

 そうなると、ああ、私に下される罰はきっと恐ろしい。

 眠りなど、久しく忘れた感覚である。

 罪である。

 原罪である。

 切支丹の言う奇跡でも起こらぬものか。


冬至。


 食われた。すっかり、食われた。紙魚どもの餌食だ。

 霊峰が紙魚虫ごときに敵わぬとはどういうことであろうか。食われてしまった。

 籠城している私は、四方を囲まれた。知識が食われていく。食われてしまった。男が私を見て笑っていた。笑っている。今私は畳の上に身を伏せてこれを書いているが、これも紙魚虫に食われてしまっている。端から端から寄ってくるので、払っては書き、払っては書きをしている。

 この転がった私に身を寄せる黒髪の男の、その背にある巨大な烏の羽と蝙蝠の翼が大きく広げられている。私に寄り添う男がにやにやと笑っている。にやにやと笑っている。男が笑っている。転がっている私のすぐ目の前だ。割れた鏡の破片がまだあったようだ、指先を切ってしまった。

 だがそれさえも男は愉快とばかりに笑っていた。笑っていた。笑って。


小寒。


 砂が、砂が私を、覆うのだ。私を覆うのだ。妹よ、これまでかもしれない。これが遺書になるやも知れぬ。父も母も私を心配などしてはいないだろう。この離れの別邸を、一族は認めてはいないだろう。私は孤独に、いや、私には男がいる。枝で人を罰するという男がいる。砂を置いていった砂男もどこかに潜んでいるだろう。睡眠をもたらす恐ろしい魔物どもも、逃げられぬ状況にあればずいぶんと可愛く思えるものだ。男が泣いていた。なぜお前が泣くのかと問うと、男は口元をもごもごさせただけである。泣きながら男は巨大な翼を広げて、砂に埋もれた私を覆うようにしているのを最後に


(数頁白紙が続く)


 大寒。

 睡眠は、我々を侵している。

 眠りというのは我々の脳内を麻痺させ、一時的とはいえ肉体を殺してさえいる。そうはいえないだろうか。いいや、そうであるのだ。眠っている間に私の肉体は一時的な死を迎えており、端の方からぼろぼろと腐っていっているのだと思う。

 眠っているときに私は何かを学べるだろうか、いや、学ぶことは出来ない。眠っているときに私は問題の一つでも片付けることができるだろうか、いいや、出来やしないのだ。記憶の整理がどうしたというのだ、何一つ吸収できないその時間は一体何のためであるというのだ。

 やはり、眠りとは我々には毒であるのだ。緩慢に、だが確実に、我々は侵されている、毒され続けている。

 母親の腹の中に芽生えたときから、あの羊水に浮かべられたときから既にもう、毒されているのだ。もはや取り返しは付かない、失った時間というものは、膨大に過ぎる。生命の誕生そのときから、我々は毒されており、背負った業はなんと深いものであろうか。そこで私は考えたのだ。

 これは名案であるのだ。単純である。

 眠ることなど、ないのだ。


(頁が数枚破り捨てられている)


春季


立春

 春である。春とは、万物の芽生えである。木の芽の綻ぶ頃である。まだ寒さが厳しく、東の空が白んでくると指先が冷え切って筆先が震えてしまう。だが梅の花が咲くのも時間の問題だろう。一年の始まりとは、おおよそあらゆるものの芽生えというものがあって、つまるところこれは、春というものである。春というのは何かとはじまりの多い季節である。それで、ともいうか、私も一つ、始めることにした。それが、これである。そう、この浅井の記す日記である。そもそも、眠ることが罰であるとしてからずいぶんと経つ。あれは私の妹が高女へ通うのに家を出た頃であったから、十四、五年前か。もう三十路を目前にする私だが、今になってこのように日常を記すというのには些か違和感もあろう。死期を悟ったとか、記憶がおぼつかなくなったとか、そういうことでは無論ない。ただ、ふと、ふと書くべきと悟ったのである。何者かが私の耳元でそっと囁いたのかもしれない。いや、それはどうでも良いことなのである。違うのだ、そこではないのだ。このままでは、学びがいかに素晴らしいか、時間がいかに貴重であるか、妹にさえ理解されないだろう。それは良くない、まったく良くない。眠りなどはただ時間を消費しているだけである、これほど無駄なことはあるだろうか。これほど惜しいことはあるだろうか。ないのだ。だから私は書くのだ。おそらくこれを妹は見るだろう、友人は見るだろう。そして彼女らも悟るのだ、睡眠ほど病的に我々を蝕み、付いて離れない悪魔というものはないのだと。


 さて、それでは記すとする。

 左記はこの男、浅井京十郎の日々である――




(まだ先があるようだが繰り言のようだ)

(私たちはここで頁を繰るのをやめた。兄の遺品はこれだけである)

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