第13話

「考えて腕を振っているから遅いんだ」

「……!」

「反応速度がものをいう競技かるたで、半年も腕を振っていなかったんだ。動くものも動かんだろ」

「……う……!」

「音の感じも鈍いし、目で札を追っているし、さらにいえば札の並びも考えが浅くてだな」

「……うっさいのよ! ちょっと黙ってなさいよ!」

 ブチ切れて畳を叩く白妙は、もはや哀れであった。

 それも仕方のないことである。

 せっかく、勝ち濃厚だった試合を、瞬く間にひっくり返されてしまったのだから。

「くそっ!」

 白妙が、苛立ちを漏らす。

 半ば説教染みてきた平野先生の言に、苛つくのものむりないが、そのほとんどが当たっているからこそ、白妙は看過できないのだろう。

 平野先生の言うことが正しいがゆえに、札が取られているのだろうし、負けかけているに違いない。

 それほど、白妙と平野先生の実力の違いははっきりとしていた。

 辻先生の合図で、下の句が詠み上げられる。

 平野先生は畳の上に掌をつけ、ぐっと身を前にのめらせた。

 その姿勢が、競技かるたのベーシックスタイルなのだろう。

 白妙も同様の姿勢をとっているが、少し違う。平野先生は、背筋を伸ばしているのに対して、白妙はまるで猫のように丸めていた。

 飛びかかる準備をしているように見え、また一方で、勇み足のようにも見える。

 ぴしりと空気が張り詰め、そしてスピーカーの奥に人の気配が現れる。

 詠まれた瞬間に動く。

 一文字目。

「あ」

 絞り込まれた札に、両者は手を放つ。この時点で数札に絞られる。

 二文字目。

「ら」

 白妙が、自陣の札に視線を落とす。だが、まだ、払わない。いや、払えないのだ。札がまだ断定されていない。

 場には、この時点で二枚あった。

『あらざらむ この世のほかの 思ひ出に』

『嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は』

 白妙は、止まる。

 当たり前だ。この時点でどちらか、まだわからないのだから。異なる方を弾けば、お手つきで一枚。さらに、相手に正しい札をとられたら二枚抜きされる。

 うかつに動けない中、先行したのは平野先生の方だった。

 白妙が、目敏く気づく。

 抜かれてはならない、という恐怖心が、白妙を敏感に動かす。

 しかし、その動きは派手すぎた。

「し」

 畳を弾く音が重なる。

 白妙とは逆筋の札。弾いたのは、平野先生だった。

「もう!」

 にじみ出すような声が、白妙の喉から漏れいでる。

 二文字目で動いた平野先生は、肩を揺すっただけ。あれは、今ここに至れば、フェイントとも捉えられる。白妙が、その動きに釣られ、三文字目への反応が遅れた。

 いわば小技だが、白妙には有効だったようだ。

「……せこい手ばっかり使いやがって!」

 それには同意だが、そういう競技なのでは?

「せこい手なんかにひっかかるなよ」

「こんのくそ教師!」

 白妙は拳を握りしめた。

 もう手を出してしまいそうなくらい白妙は高ぶっている。しかし、それも平野先生の策の内だろう。普段ならば、ここまであからさまに挑発を繰り出したりしない。このもの言いは、白妙を苛立たせて正常な判断力を奪おうという策略。

 つまりは、せこい手である。

 そんなせこい手にひっかかる白妙と、そんなせこい手を使ってまで勝ちに行く平野先生。

 ……泥沼の様相を呈してきたな。 

 感情的には泥沼ではあるが、力量的には、戦略の差も含めて、はっきりとしている。

 平野先生は、それくらい正確無比であり、それでいて速かった。速いというよりも、無駄がない。決して派手な動きではないのだが、最短ルートを掌が滑る。

 もしかすると速度は白妙の方が速いのかもしれない。けれども、腕の振りが速ければ札を取れるというわけでもないらしい。平野先生の職人的手捌きは、白妙の純粋な速度を凌駕し、まるで鷹のように、半ば芸術的に札をかっ攫っていく。

 白妙は、先程までの辻先生に近い状態に陥っていた。

 負けが込んできたがゆえに、焦り、あやふやな状態で手を振ってしまう。さらに、苛立ちが相まって、お手つきの回数が増える。

 お手つきをすると、次は手が出ない。すると、平野先生よりも先に札を取れるべくもない。


 しばらくして、大方の予想通り、平野先生が自陣の最後の札を手にした。


「……」

 白妙は、畳に倒れ込むようにつんのめり、両腕で頭を覆った。

 その仕草に、貫行はいささか恐怖を感じた。この子は、どうしてここまで悔しがっているのだろうか。彼女が失ったものはさしてない。強いていえば、退部できないことだが、再三述べるが、やめたければやめればいい。

 練習試合で負けた程度で、この女は、人生のどん底のように落ち込んでいる。

 退部できない、ことを悔しがっているわけではない。

 きっと、負けたことが辛いのだろう。

 貫行には、ない感情だ。

 勝負に必死になったことがない。いや、かつてはあったのかもしれない。しかし、今、貫行の感情分布の中に、勝敗に一喜一憂するという感情は見当たらない。

 自分の中にないがゆえに、白妙が全身で表現する敗北への落胆は、貫行にとって珍事であり、恐怖に似た感情でしか同調できなかった。

「ふぅ」

 一方で、平野先生は息をついて、立ち上がる。見たところ、平野先生はかなり安堵しているようだった。

 あれだけ煽ったのだ。負けるわけにはいかないというプレッシャは、白妙の比ではなかっただろう。勝ててよかったと、胸を撫で下ろす思いに違いない。

 しかし、そのような表情を見せたのは束の間で、平野先生は背筋を伸ばした。

「約束は守ってもらうぞ」

 無慈悲に伝えられた言葉に、白妙はぴくりと背中を震わせてから、顔をあげた。

「ぐすっ」

 白妙は目を真っ赤にして泣いていた。それでも、その瞳には、批難の火が灯っており、平野先生に向けられていた。

 慌てたのは辻先生で、すぐさま白妙の側に寄って、背中を擦ろうとした。けれども、白妙は鬱陶しそうに、その手を払った。

「せこい手、ばっかり、使って、教師の、くせに」

「勝負は勝負だ。おまえも納得したことだろ」

 白妙は、拳を握りしめつつも、悔しそうに目を擦った。

 なんともいえない空気であり、部外者である貫行達は、なんと言っていいものかわからない状態であった。この気まずい状況を打開しようと動くのは、かなり勇気がいる。そんな勇気を貫行は有していなかった。


「泣くほどのことでもないだろ」


 しかし、口を出す者がいた。

 その者は、状況を打開しようと思ったわけではなかろう。

 ただ、そう思ったから、述べた。


「くだらない」


 意趣返しのつもりか、千秋はにやりと笑ってみせた。

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