第8話

「天の川?」

 貫行は思わず反復した。

 なぜ、かささぎが天の川になるんだ?

 まったくぴんときていない貫行とは違って、泉美は何かに気づいたようだ。

「織姫と彦星のお話?」

「That’s right」

 千秋は指を鳴らした。

「七夕伝説。大陸から伝わった古い伝承だ」

 こほんと咳払いして、千秋はもっともらしく語りだした。

「昔々、天帝の娘である織姫と牛飼いの夏彦がおりました。二人は愛し合っており、両者共に働き者であったこともあり、天帝は彼らの結婚を認めました。しかし、彼らは結婚生活が楽しくて、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。激怒した天帝は彼らを天の川で引き離しました。二人は哀しみました。それを見かねた天帝は、ちゃんと働くことを条件に、一年に一度だけ、会うことを許しました」

 どこかで聞いたことがある七夕のお話である。

 しかし、この話のどこにかささぎが出てくるのか。

「二人が会う時、天の川に橋が渡される。そのときに橋を渡したのがカササギだったんだ。カササギが飛んできて、その羽で天の川に橋を渡したと伝えられている」

 カササギの渡せる橋。

 この和歌を聞いたときに、いちばん最初につっかかったフレーズだが、ここまで話を聞くと、わからなかったのも当然と頷ける。

 暗号解読鍵がなかったのだ。

 それがただいま発行された。

 七夕伝説の詳細を知ることによって、貫行は詠み手と知識を共有した。ゆえに、『かささぎの渡せる橋』は、黒天に流れる光の川と、そこに飛来した数羽のカササギと、舞う羽と、ファンタジックに架けられた橋として、きらびやかに描写された。

 頭上を飛び抜けるカササギを見送って、貫行は、ふとした疑問を口にした。

「この伝承って、そんな昔からあったんですね」

 ふっと、皆の思考に空白が生まれた。

 おや、と貫行は不思議に思う。

 自分は何かおかしなことを言っただろうか。

「伝承なんだから、ずっと前からあるものなんじゃないですか?」

 何を言っているんだといわんばかりに、泉美が静かに反論した。

 だが、その考えはおかしい、と貫行が告げる。

「いや、前からあるのはそのとおりだと思うけれど、今はそのの話をしているんだろ。そうしたら、まだ、伝承がないことだってあるんじゃないか? だって伝承というのは、結局、誰かがつくったんだから」

 ふふ、と千秋が笑う。

「君は、冷めているね。伝承、伝説、もしくは神話というのは、人の歴史よりも前から存在している前提のものが多いというのに。君は、そんな神話や伝説を、まるで誰かが造った創作物のように語るんだから」

 そのおどけた口調からは、非難の色を感じられない。

 千秋の性格から察するに、むしろ、彼女の方こそ、神話や伝承を信じていなさそうなものだけれども。

「神話が創作物かどうかは、さておき、その記録がいつから残っているかというのは、歴史を語る上で重要なことだ」

 平野先生が話を継いだ。

「当たり前の話だが、当時には、音声や映像といった記録方法はない。まぁ、一部、絵画があるが、もっとも多い記録は、文字、文章だな。この和歌にしても、新古今集に掲載されていたものだ。そして、七夕伝説は、大陸の古い王朝である梁王朝の時代に編纂された、文選という漢詩集で初めて記されたといわれている。文選は、その後の王朝である隋の時代に、遣隋使によって日本に伝わっていて、時代的に考えても、中納言家持が、この文選を知っていておかしくない」

 だとすると、矛盾はないわけか。

 海の外から渡ってきた漢詩集に載っていた伝説をなぞらえて、中納言家持は、この和歌を詠んだということになる。

「でも、それを聞くと余計に不思議に思うな。当時の人達は、そんな外国の文献をみなが読んでいたんですか? 読んでいなかったら、今と変わらないでしょ。当時の奴らが解読鍵をもっていないのだから、暗号化されたままだ。これは、ただのカササギが夜を飛んでいるだけの歌」

 少しいじわるな言い方になってしまった。

 頬をかく貫行であったが、平野先生は動じずに返答した。

「その問に確信をもって答えるのは難しい。だが、一つ誤解があるとすれば、漢詩というのは、当時の詠み手達にとって一般教養といっていい。すばらしい漢詩を知っていることがインテリの証というかんじだな。さらに、文選というのは、隋の科挙、これは今でいう国家試験のようなものだが、その科挙を受けるための参考書的な役割を果たしていた。つまり、隋ではベストセラーだったんだ。さて、隋で流行っている漢詩集が日本にやってきた。そりゃ、日本でも流行すると想像して、そう飛躍していないだろう」

 なるほど、と貫行は納得する。

「昔からミーハーだったんですね」

「そう解釈するか」

 平野先生は、かるく笑った。

「けれども、先生。だとすると、この歌は、余計にわからなくなってしまったのですけれど」

 話が一段落してから、泉美がさらなる疑問を呈した。

「『かささぎの渡らす橋』が天の川に架かる橋だと、三句目の、おく霜の、の意味がわからなくなります。そんな幻想的な橋に、霜がおりるというのは、ちょっと雰囲気が合いません」

 たしかに、橋に霜が降りるというのは、幻想的というより写実的だ。とすると、二句までに幻想的な話をした後に、急に現実的な話をされても、ついていけない。

 いや、だとすれば、と貫行は思い至る。

「これも暗号化されているわけか」

「そういうことだ」

 貫行の気づきに、平野先生は片頬を吊りあげる。

「ここも漢詩の引用と言われている。詩人、張継の漢詩で、


『月落烏啼霜満天』


が相当する。この漢詩は、


『月落ち烏啼きて霜天に満つ』


と読む。邦訳は、


『月が沈み、烏が鳴いて、霜が天に満ちている』


となるわけだが」

 平野先生は黒板にカツカツと詩を書いた。

「霜が天に満ちる、ってどういうことですか?」

 泉美の問に、平野先生は一度口を開きかけ、そして止めた。

「泉美はどう思う。霜が天に満ちるというのは、どんな情景を現していると思う」

 唐突に迫られて、泉美は戸惑ったが、少し考えて何かに思い至ったようだ。

「星、ですか?」

 夜空に、星が満ちている。黒く塗りたくられた天に、斑に散りばめられた星々。それが霜のおりたように見えたということだろうか。

「そういう解釈もできるな」

 平野先生は、言葉を受け取る。

「まぁ、この漢詩は、月が沈んで、烏が鳴くなどの表現があることから、早朝におりた霜という解釈もできる。だが、初見の泉美がそう感じたということは、このフレーズを満天の星空と解釈することもできるだろう」

 平野先生は、霜から、星を連想させた。

「さぁ、ここまでくれば、この歌の意味がまったく違うものとして解釈されるだろう」

 たしかに。

 貫行は、黒板の和歌に目を向ける。


『かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける』


 橋に霜がおりたというだけの歌ではない。この和歌の意味するところは、たとえばこうだ。

 

『かささぎが羽を紡いで渡したとされる天の川に架かる橋、その橋に霜がおりたように散らばめられた星々の白さを見れば、あぁ、夜もふけたのだなぁ、と気付かされる』


 平野先生の話の末に、直訳とはまったく違って、急に神秘的な雰囲気となった。その歌には、1300年の刻を超えても変わらない、夜空の美しさが表現されていた。

「こんなに昔にも、やっぱり星空はきれいだったんですね」

「ふふ、当たり前さ、1300年なんて宇宙の時間でみれば一瞬だからね」

 うっとりとした顔の泉美と、したり顔の千秋が、それぞれの感想を述べた。

 ふむ、と納得してから、平野先生は付け加える。

「さて、今説明したのが、この歌の一つの解釈。さらに、この歌にはもう一つの詠み方がある」

「もう一つ?」

 既にお腹いっぱいな感があるというのに、この和歌にはさらなる情報が詰まっているというのだろうか。

「もう一つは、凝ったものではない。この歌を素直に詠んだものだ。見立てという技法なのだが、この『かささぎの渡せる橋』、というものが、『宮中の御階』つまり宮中の階段を表現している、という解釈だ。そうすると、この歌は、そのとおりに、宮中の階段に霜がおりたのを見て、夜の到来を知る歌になる」

「どうして、橋が階段になるんですか?」

、というのは、、という意味なんだ。川を渡す橋、そして、上と下の階を渡す階、他には皿から口へと渡す箸などもある。だから、当時の者にとっては、それらは同じ意味合いだったと考えられている」

 そもそも、その時代に、二階なんてものはなかっただろうから、階段自体が珍しかったのではないだろうか。さらに宮中の階段は、偉い人の住まうところに繋がる道筋。

 まさに、異界への橋というわけか。

 二つ目の解釈の方が時代を感じさせる。時間の隔たりや、文明の未成熟さが、はっきりと現れていて、古めかしい匂いを残していた。

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