三駅目

 家でいつも通りの一人の時間を過ごしていた。しかし、私の頭の中にはあの顔面を血だらけにし、原型を留めることなく、再現なく腫れ上がった顔で感謝しながらしがみつくクラスメイトの姿があった。

 あのあと、私は彼を適当に慰め、家路にと着かせた。彼は私がこの出来事を不快に思っているなど露知らず、大袈裟に感謝しながら、最後まで、教室を出てて私の視界から見えなくなるまでペコペコと何度も振り向き、頭を下げながら帰っていった。

 彼は大村真史。クラスではあまり目立たない地味な青年だった。彼とは三年間クラスが一緒であったが、私は彼を意識したことは一度もなく、また、彼も私には特別な感情を抱いているわけでもなかっただろう。強いて言えば、人気者の優等生がいるなぁ、という認識を彼から受け、私は地味で虐めを受けていそうな青年がいるなと認識していた。それだけの関係だった。

 だが、案の定虐めを受けているとは全くもって知らなかった。

 彼は確かに気弱でひ弱で貧弱そうな青年ではあったが、それなりに周りには同種のような友人も居たし(類は友を呼ぶというやつだろう)、普段の学校生活の中では、虐められているなんて素振りは見せていなかった。

 しかし、私が目撃をしてしまった以上、それは事実であり、私の憶測は正しかったと言うことなのだろう。

 ともあれは私は何気ない一言で彼を助けてしまい、面倒ごとに巻き込まれそうなのは確かだった。

 彼のような人間は誰かの影に隠れることによって生きているのだ。その隠れるべき影がいなくなったとき、醜態が世間へと暴露され、格好の的となるのだ。人間は自分より弱い者や醜い者、また、その逆に何か能力が有ったり、優秀な者を毛嫌いする性質がある。だが、大抵の場合は除外されるのは前者であり、後者が排斥的な目に合うことはあまりない。兎に角、人間はそういう奴らを貶めること、貶すこと、辱しめること、痛ぶること、そうすることで優越感を得るのだ。他者を冒涜することが生の充実感を得ることができる最短の術なのだ。

 だが、ここで私はそんなことをしなくても生きている実感を得られているだとか、人を貶めることなんてしていないし、したことないと言い出す人たちが出てくるだろう。でも、それは現実世界の話であって、精神世界の話に置き換えればしたことない人間などいないのだ。

 誰もが皆、一度は心の中で他者を羨み、妬み、嫉妬する。その逆も然り、憎み、嫌悪し、憎悪する。それがどんな理由にせよ、心の中、精神世界では私たちは何人もの人間を殺してきたのだ。刺殺、撲殺、薬殺、絞殺、銃殺、その他諸々……。

 人間は何かしらの形で人を殺す、もしくは殺そうとするのだ。

 かくいう私も精神世界で爪を噛むというシグナルで父と祖父を殺し、それが影響を与えた現実世界で同じように彼らは亡くなった。これは幻想などではない。確証は得られないにしろ、私は父と祖父を殺した殺人鬼に他ならないのだないのだ。

 そして、今は貶められる側のあの彼も次期にこちら側へとやって来るだろう。蔑まれ、貶められた彼はきっと報復に出るであろう。それはだが、現実世界ではひ弱な彼はまず、精神世界での殺人に走るだろう。それが本当に人を殺める力を孕んだ代物だとは知らずに……。

 結局のところ皆が皆、自分のことを守るために生きているのだ。自分のレールからはみ出さないように、慎重に歩んでいるのだ。

 自由を求めるなんて大それたことを言っても結局は自分を守るためにはレールに従うのが一番正しい道なのだ。

 これ程までに救いがないとは……。


 扉の開く音で思考をやめる。あわてて時計を見ると時刻は既に九時過ぎだった。

 私は夕食をとるためリビングへと降りていく。

 部屋を出るとき、私の部屋には私しか居ない筈だったが、何者かの気配を感じた。だが、私は気に止めることなく一階へと降りた。

 そのとき感じた気配は親近感を覚えるものであると同時に、最も対局に位置するであろう、そんなオーラを漂わせていた。


 次の日の朝、面倒な出来事は案の定続いていた。

「さ、沢村くん……」

 駅から学校へと向かう道、誰かに声をかけられ振り向く。するとそこには大村真史立っていた。その姿はなんと形容するべきか、今にも消えそうな蝋燭の灯火のように輪郭がボンヤリとしていて、私を呼び掛けた声にすら覇気は一切こもっておらず、口を開けたがためには出た惰性という雰囲気のものだった。

「君は大村くん。昨日は災難だったね」

 私は早くこの場を切り上げたいがため、少し冷淡に振る舞う。だが、彼にはその冷淡に振る舞ったつもりの行動が羨望の的になったのか、少し嬉しそうに話を進めてきた。

「昨日は、ありがとう……。今まで誰も助けてくれなかったから」

 私は彼と歩調を会わせ学校へと向かう。その間ボソボソと喋り続ける彼の声を何となく聞きながら、歩いてく。

「学校はそういうことには当てにならないからね。」

 コクりと私の言葉に同意を示した彼はまた、嬉しそうに少し笑う。私はそれが気にくわなかった。だから、私はこの手の人間が一番自己嫌悪に陥るであろう質問を投げ掛けた。

「ところで君はどうして苛められていたんだい?」

 一瞬だけ時間が止まったように彼の顔は硬直した。私はそれを見て予想通りだと安堵すると同時に期待はずれのような不可解な気持ちに陥った。

 しかし、私の予想が実はことごとく外れていたことが、彼の発言から発覚することとなった。

「……みたいに……」

「なにか言ったかい?」

 彼は何事かを呟いた。けれども、それはあまりにも小さすぎて、騒音がけたたましい現代社会では聞き取ることは出来なかった。

「君みたいに……」

 私みたいにと行ったところまでは聞こえた。が、それから後は横の道路を走るトラックのエンジン音にかき消されていた。しかし、大方予想するに、私に対する羨望もしくは妬みだろう。君みたいに人気者だったらとか、君みたいに上手く生きていけたらなどそんなものだろう。もし、そう言ったなら彼は間違っている。私は上手く生きてなどいない。あらゆる者にがんじがらめにされた哀れな黒い塊だ。

「君みたいに格好よく生きたかったんだ!」

 彼は不正解を口にした。

 突然叫んだ彼に周囲の住民や生徒は一瞬だけこちらを向くが、触らぬ神には祟りなしとでもいうのだろうか、そそくさと私たちから離れていった。それは正解だろう。私だってそうする。

 うつむいて恥ずかしそうにしている彼は、またなにかを呟きだした。

「だから僕は、アイツらを助けたんだ……」

 大村のその言葉に私は耳を疑った。

「どういうことだ?」

 彼は確かに助けたと言った。このひ弱で貧弱な青年は一体何から何を助けたのだ?

 私の中でなにかがざわめくのを私自身で確かに感じた。

「僕は君みたいになりたくて、君みたいに格好いい人になりたくて、虐められている友達を助けようとしたんだ。そうしたら次は僕に標的が向いちゃって……バカだよね……」

 自虐的に笑うその青年の笑みは私にとっては純粋すぎた。無垢すぎた。あの日みた部活動に励む生徒たちなど比にならない尊さがそこにはあった。

 だが、私はそれを認めるわけにはいかなかった。

「い、いや、君はバカじゃないよ。素晴らしい行動だよ」

 なんとか平静を保ち、被った皮の演技を続ける。

 彼は私のようになりたいからと言った。こいつは一体何を考えているのか、私には全くわからなかった。

 彼は私が居ないと決めつけていた聖人に近いなにかなのかもしれない。元来神というのは意外と凡庸な見た目をしているという。彼は私が追い求めた自由を体現した人、神なのかもしれない。

「あぁ、もう学校につくね……僕と一緒だと色々と面倒だから僕は先に行くよ……兎に角、昨日はありがとう」

 そういうと彼は校門を抜け走り去ってしまった。

 私は彼の背中を目で追いながら、数日前の自分を言葉を頭のなかで復唱していた。


「これを誰かに打ち明けることが出来れば、私は少しは楽になるのだろうか。いや、打ち明けることなど出来ないだろう。この皮は既に被り物の域を越えてしまったのだ。私の皮膚にベッタリと結合し、もし剥がそうものなら、皮膚ごとえぐり、爪を除いた全ては剥がれ、下の眠る筋肉とどす黒い思考のみが残ってしまうだろう。そうなってしまえば、自由もくそもへったくれもないのだ」


 彼ならば……。




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