第37話 慟哭

自宅に戻っていつもの生活がはじまった。父親は春休み一杯は家にいるという。忙しいだろうからもう大丈夫だよ、と言えば、こんなときくらいサボらせろ、と笑い返された。家族の気遣いが素直に嬉しい。だが、藤木は部屋に引きこもってぼんやりすることが多かった。


夢だったんだろうか…


藤木は一人、部屋に籠もったままとりとめもなく考え続ける。一ヶ月過ぎていたはずが、目覚めてみれば二日、行方不明になっていただけだという。

だが、夢にしてはあまりにも現実味のある生活だった。忠興や秀次、国忠、郎党達、そして朝比奈義秀、皆、声も顔もはっきりと思い出せる。そして何より自分は激しい恋をしたのだ。家族も現代での生活も全てなげうって側にいたいと願うほど人を愛した。


榎本国明…


愛おしいと焦がれる気持ちも、目の前で自刃する姿に胸の裂かれる痛みも、夢というにはあまりにも生々しい。そして体が覚えている。国明の唇の感触、触れられる喜び、国明を己の体の中に迎え入れた時の痛みと快楽…


幻覚でもみたのだろうか。自分は覚えていないだけで、あの二日間に何かに巻き込まれていたのかもしれない。そこで薬でも使われて幻覚をみせられでもしたのだろうか。

支離滅裂な考えだが、鎌倉時代で一ヶ月暮らしたというよりは信憑性がある。佐見に恋するあまり、しかし道ならぬ恋だという罪悪感から、榎本国明という本でちらりと見た名前の幻影を自分でつくりだしたのだろうか。


『おれは佐見ではない』


耳に国明の声が蘇る。だが、それは佐見と全く同じ声なのだ。自分は長い夢を見ていただけなのだろうか…



ジャージのポケットには何も入っていなかった。日付とメモを記した「教育委員会監修、郷土の歴史と文化」の本かスマホがあれば、まだ何かわかったかもしれないのにと藤木は残念に思う。柔らかいベッドに身をなげだし、藤木はあの固い夜具の感触に思いを馳せる。


夢だというのか…



「アニキ、いいか~」


部屋のドアを健太がノックした。不安定な藤木を家族はあまり干渉しすぎることなく見守ってくれていた。いつもなら傍若無人な弟も遠慮がちだ。


「なぁ、入るぜ」


ドアが開いて健太が顔を出した。藤木は起きあがり、弟へほほえみかける。一瞬、照れたように赤くなった健太は、わざとぶっきらぼうに何かを藤木に突きだした。


「なぁ、これ、アニキのスマホだろ」


ハッと藤木は弟の手元を見る。確かに自分のスマホだ。だが、あのスマホは、藤木が投げ捨てたのではなかったか。この世界に帰りたくなくて…

そこまで考えて、藤木は自嘲した。たった今、鎌倉時代での生活は夢だったのではないか、と考えていたのに。


藤木は健太からスマホを受け取った。怪訝な顔をしていたのだろう、健太が言った。


「中丸さんや立石さんが届けてくれてさ。なんか、海神の祠とかいってたけど、その近くのでっかい木の下に落ちてたんだってよ」

「…え?」


藤木が顔を上げた。


「でもさ、変なこと言ってたぜ、中丸さん達」


健太が首を捻った。


「その海神の祠の近くって、手がかりないかみんなが探した場所なんだってさ。テニス部の皆もだし、警察も現場検証ってやつ?それやってたらしいんだけど、その時はアニキのスマホ、落ちてなかったって」


藤木は目を見開いたまま健太を見つめた。


「…これ…見つけたの…いつ…?」

「アニキが見つかった次の日だって。病院に見舞いにきてくれてたんだけどさ、東京に帰る前、もう一度祠に行ってみたら、スマホと、それから小刀が落ちてたって言ってたけど、小刀って何?なんか地元の祠?神社?戻されたって言ってたぜ?」


藤木はひゅっと息を飲んだ。思わずスマホを握りしめる。健太はしきりに首を捻っていた。


「変な話だよな。スマホとか小刀とか落ちてたらすぐ見つかるって。だいたい、アニキがいなくなって、真っ先にスマホに連絡したんだぜ?あんなとこ落ちてたんならフツー繋がるよな、電源切ってたわけじゃないし」


圏内じゃん、とそこまで言って、健太は藤木の様子に気がついた。藤木は真っ青になって僅かに震えている。健太は慌てて言いつくろった。不安にさせたいわけではなかったのだ。


「まっまぁさ、案外無能なんじゃねぇの?あそこの警察。田舎だもんなぁ、スマホ見落としたんだよ、きっと。田舎警察だしさっ。だからもう中丸さん達も警察には届けないでこっち持ってきたんだ。なんか、解析とかに出されるかもじゃん」


地元民と神奈川県警に聞かれたら袋だたきにされそうな暴言を吐きつつ、健太は退散した。いつも飄々としている姿しか知らない健太は不安定になっている兄を安心させてやりたくともどうすればいいのかわからない。


晩ご飯のおかず、分けてやっかな。


兄の好物を思い浮かべながら、そのくらいしか出来ない己を健太は情けねぇ、と小さく罵った。





藤木はベッドに腰掛けたまま、じっと手の中のスマホを見つめていた。震える指でホームボタンを押す。壊れてはいない。心臓が激しく鼓動を打ち始めた。緊張のあまり、指先の感覚が覚束ない。静かな昼下がり、戸外からは時折道を走る車の音が響いてくる。ぎしり、とベッドを軋ませ、藤木は身じろぐと、スマホを握りなおした。こめかみががんがんと脈打っている。


確かめられる…


鎌倉時代の生活がもし夢だったら、それとも夢ではなく現実だったら、どちらにしても藤木には恐ろしい。口が渇いて喉がひりついた。


もし夢ではなかったら…


写真ファイルを開く指がぶるっと震えた。最後に取った画像を表示する。そして藤木は、今度こそ全身の血が下がった。ひゅっと息を飲んだまま画面を見つめる。



そこには、庭で立ち話をしている忠興や秀次、そして国明の姿が写っていた。



スマホを恐れる鎌倉人を慮って、庭にいる三人にわからないよう、渡り廊下から撮ったのだ。はっきりと写っている。直垂姿の武者達は、確かにあの三人だ。濃緑色の直垂を着た国明、萌黄色の直垂姿は秀次、勝色の忠興、相変わらず国明は仏頂面で腕を組み、忠興は髭面に右手をあて豪快な笑顔を見せている。秀次は忠興に何かまた無理難題ふっかけられたのか、眉をさげて苦笑いの顔だ。


「あ…」


がくがくと体が震えはじめた。息が苦しい。それでも藤木は、もう一つ確認したいものがあった。


国明の声…


藤木は国明の声を録音したはずだった。あの日、桜若葉の山の斜面で愛し合った日、国明の夢を聞いた日…


震えながら藤木はボイスメモを立ち上げる。録音件数は一件、日付は表示されない。録音を再生する。声が流れた。


『御渡り様をおしいただき、榎本党が榎本だけで生きていけるよう力をつける。榎本の当主は生涯御渡り様に己を捧げる。たとえ死しても…』


国明の声だ。あの時の国明の表情がはっきりと思い出せる。


『当主の魂は御渡り様に、藤に捧げている。八百年たとうと、千年過ぎようとおれの魂はおぬしを求め、そして見つけだす。これからどんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ』


ガタン、と大きな音が入る。そうだ、あの時、国明に手を取られスマホを床に落としたのだ。


『もう一度言う。八百年たとうと千年過ぎようとおれの魂はおぬしを求め、そして見つけだす』


国明の声が少し遠くなる。床のスマホはそれでもはっきりと声を拾っていた。


『これからどんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ』


国明の声の後ろには館の前庭での騒ぎも入っている。郎党達の怒鳴り声、悲鳴、犬の吠え声、ひときわ響きわたるのは忠興の声だ。


『おれもおぬしだけのものだ』


凛とした国明の声、あの時の強い目の光がまざまざと蘇る。遠くに忠興の怒鳴り声、秀次のきっぱりとした声、郎党達の大騒ぎする声、声、声


『国明』


自分の声がする。衣擦れの音、あぁ、国明が自分を抱き寄せた音だ。遠くから打擲の音と悲鳴、郎党達の笑い声


『遠乗りに連れてゆこう』


衣擦れの音、ガラリという音は板戸が開けられたのだ。遠ざかる足音、郎党達の騒ぐ声、プツリ、とそこで音は途切れた。そうだ。床にスマホを落としたまま忘れていて、延々録音が続いていたんだった。帰ってから自分で残りは削除した。国明の声だけ残して後の生活音は削除して、だって自分はずっとあの館で暮らしてくのだと思っていたから、だから…


「あ…あぁ…」


夢ではない。国明はいた。忠興も、秀次も、郎党達も皆、現実にいた。そして


「ああああ…」


国明は死んでしまった。


「あぁ…あぁぁぁっ…」


皆、死んでしまった。

藤木はスマホを抱きしめたまま、床に崩れ落ちた。悲しみが全身を切り裂く。


「国明っ…」


ただただ、悲しかった。身の内を渦巻くのは悲嘆と絶望だけだ。


「くにあき…くにあ…き…」


恋しい男の名を呟きながら、藤木は蹲る。何故自分だけ生き延びてしまったのか。帰ってきてしまったのか。身を引き裂く悲しみで死ねるならこの場で死なせてくれ。


「く…うぅ…あぁぁ…」


音にならない絶望の呻きをあげ、藤木は床にうずくまり続けた。








泣いて泣いて、これ以上ないほど泣き続けて、それでも涙が枯れることはなかった。その日は部屋に籠もって泣き続けた。

翌日、心配する家族の声に、気力を振り絞って部屋を出たが、食事はほとんど喉を通らなかった。泣いたからといって何が変わるわけでもなく、痛みや悲しみが癒えるわけでもない。頭ではそうわかっていても、心がついていけなかった。


『藤』


愛しい男の声が蘇る。


『御渡り様』


忠興の、秀次の声がする。たった一ヶ月、それなのに藤木にとってはかけがえのない人達になっていた彼らの声が、笑顔が蘇る。

藤木はもう写真を見ることも声を再生することも出来なかった。忠興や秀次の、そして国明の画像を見て、声を聞いてしまうと失ったものの大きさに打ちのめされてしまう。炎に包まれた館や血まみれの人々、なにより、恋人の無惨な死に様が生々しい現実として藤木を襲う。藤木はただ、スマホを抱きしめ、そして泣いた。


『藤』


あぁ…国明…僕は…


喉を掻ききった国明の姿が脳裏から離れない。最後まで力強い瞳が自分を見つめていた。


僕は生きなきゃいけないの…?


明日からは新学期がはじまる。いつのまにか桜が八分咲きになっていた。







抜け殻。


今の自分を表すとしたら、抜け殻だとしか言い様がない。それでも藤木は生きなければならないのだ。


御渡り様として過ごした一ヶ月は藤木の心の底に「生」の意識を植え付けた。人が物を食べ、衣服を着て、雨風のあたらないところで眠る、今まで当たり前すぎて考えもしなかったことが、実はひどく大事なのだと身にしみていた。

鎌倉人達は、生をつなぐという基本的なことを手にするために、とにかく働いていた。大人も子供も、男も女も、日夜労働することでようやく生きる糧を得ていた。国明や榎本一党のように、支配する側の人間ですら、ぼんやりと過ごせるほど甘い世の中ではなかった。衣食住とは、漫然と受け止めていいものではなかったのだ。


ちゃんと生きなきゃ…


桜若葉の中、出陣していった人達の姿を今でも鮮明に思い出せる。がちゃがちゃと具足の触れあう音、陽光をはじく武具、おぅおぅという掛け声、それらを見送りながら藤木は絶対に忘れまいと誓ったのだ。藤木が覚えていることが、死地へ向かった人々へのはなむけなのだと、そして今、それが供養なのだと藤木にはわかっていた。


ちゃんと生きるから…


戦火の中で身を犠牲にして藤木を生かそうとしてくれた人達がいる。国忠が、祐則が、榎本の郎党達が、たとえ八百年過去の人々で、藤木が存在しようとしまいと結局戦で命を散らす運命だったとしても、あの時、彼らは藤木を助けようと必死だったのだ。彼らに貰った命だ。どんな悲しみに胸が引き裂かれようと藤木には生きる義務がある。


でもさ…もうちょっと待ってよ…


藤木は四月初旬の空を見上げる。八分咲きのソメイヨシノが青空に枝を伸ばしていた。今日から新学期だ。


ちゃんと生きるから、もう少し待って。


まだ心がついていかないんだ、そう小さく呟く。この現代でも、家族や友人達が自分の身を案じてくれている。しっかりしなければ、立ち上がらなければならない。


わかってる。甘ったれて潰れたりなんかしないから、しっかりするから、だからもう少し…


引き裂かれた心から血が流れ続ける。


もう少し時間を下さい…


祈ることすら出来ず、ただ藤木は一人、抱えた痛みに耐えるしかなかった。





ぼんやりと藤木は秀峰高等部へ続く桜並木を歩いていた。頬を撫でる風はまだひんやりとしていたが、浮き立つ春の気は辺りに満ちている。ソメイヨシノの桜並木の下は登校する生徒で溢れていた。明るい声が響いている。戻ってきた藤木の日常だ。


藤木はふっと苦笑した。鎌倉時代に飛ばされたとき、何度この桜並木を夢にみたことか。戻りたいとねがったことか。今、その願い通りに藤木は桜並木の下を通学している。

華やかなソメイヨシノを眺めながら、藤木は館の桜を思い出した。あれはなんという名前の桜だったのか。白や淡いピンクの花が花びらを散らしていた。満開の桜の庭で国明が藤木を馬に乗せて、向かった先の山道もまた山桜が満開だった。ちらちらと花びらが国明の濃緑色の直垂の上に舞い散って、そうだ、国明が手を引いてくれたのだった。温かくて大きな国明の手、自分達は手を繋いで桜の山道を登った。時折振り向く国明が目を細めて言う。


疲れぬか、藤…


「藤」


びくっ、と藤木は震えた。国明の声。


「くにあ…」


藤木は振り向いた。国明の声がした。桜の下に直垂姿の国明が…



「藤、もう体は大丈夫なのか」

「……佐見…」


黒い学生服の佐見国明がいた。佐見はまっすぐ藤木の側にくると、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「どうしたんだ。目が赤いぞ」


藤木はその場を動けない。体を強ばらせたまま佐見を見つめた。


「退院するとき、お前は眠っていたし、春休みも体調がよくないと聞いて心配したぞ。無理をするな」


国明と同じ顔で、同じ声で佐見がしゃべる。


「今日から部活だが、きついようだったら休んだ方がいい」


国明と…


「あ…」

「藤?」


真っ青になった藤木に驚いた佐見は、手を伸ばした。


「大丈夫か、藤?」


佐見の指が頬に触れた瞬間、はじかれたように藤木は駆けだした。


「藤木っ。」


背中で佐見の声が聞こえる。周りにいた生徒達が驚いたように藤木を見た。藤木は駆けた。誰にも会いたくない、見られたくない。

気づいた時には、高等部のテニス部部室の裏に座り込んでいた。ここなら誰もいない、まだ誰も来ない。藤木は顔を覆った。


まだ時間がある。落ち着いて、それから正面玄関に行ってクラス割を見て、教室に行って、それから…


「国明…」


それから友達とおしゃべりして、学活を受けて。


「国明…くにあき…」


今日は午前だけだから、部活に行って挨拶して、それから佐見に今朝はごめんね、って、何でもないんだって…


「くにあきっ…」


涙は枯れないのか、枯れてくれないのか。


「う…うっ…うぅ…」


唇を噛みしめ、藤木は嗚咽を殺した。遠くに予鈴を聞きながら、それでも藤木は動くことができない。風が涙の流れる頬をひんやりと撫でていった。






藤木が教室に入ったのは朝の学活が終わる頃だった。教員達には春休みの事情が説明されていたうえ、藤木は元々優秀で信頼篤い生徒だったので、少し体調が悪かったといえば後はあれこれ詮索されなかった。

示された自分の席につく。ふと、強い視線を感じた。顔をあげ、ハッとした。斜め前に佐見がいる。佐見は何か言いたげな顔でじっと藤木を見つめていた。


佐見…


藤木は思わず目をそらした。


佐見と一緒のクラス…


不自然だと自覚はしている。だが、どうしようもなかった。


まだだめだ…


国明と同じ顔、同じ声の佐見。しかし、藤木の愛した榎本国明ではないのだ。榎本国明はもういない。どこにもいない。死んでしまったのだ、八百年も昔に。

いつか、佐見とも平静に話せる日がくるだろう。だが今はだめだった。恋人と同じ姿形をしているのに、全くの別人だ。佐見を見るたびに自刃した国明の姿が目に浮かぶ。あまりに辛すぎた。震えそうになる手をぎゅっと握りしめる。

窓側の席で中丸が小さく手を振っていた。中丸の姿に藤木は内心ほっとする。中丸が一緒のクラスなのは助かる。気安い友の存在が心底ありがたかった。





朝の学活が終わると、早速中丸が寄ってきた。


「藤木ぃ、大丈夫かよ~?」

「中丸」


藤木はなんとか笑みを作る。中丸はちょこんと藤木の机に腰掛け、顔を覗き込んでくる。


「このオレが一緒のクラスだかんねっ。中丸にすべてお任せだよん」


おどけて中丸はどんと胸を叩いてみせる。藤木を元気づけようと一生懸命なのだ。さりげない優しさが藤木の胸に沁みる。


「うん、おまかせするよ」


中丸の言葉を受け取って答えると、中丸は大きな目を嬉しそうにくるくるさせた。


「佐見も一緒だしさ、クラス別だけど立石もいるし、呼べば二年の教室から上城や堂本だってとんでくるって」


立石のやつ、一人離れて10組なんだよ~ん、と中丸は悪戯っぽく笑う。


「ね、佐見っ。病み上がりの佐見君もど~んと中丸様を頼ってくれちゃっていいよん」

「何を言っているんだ、まったく」


呆れたように佐見が腕を組んで立っていた。ハッと顔を上げた藤木は佐見の黒い瞳にぶつかり咄嗟に目を伏せてしまう。それでもなんとか今朝のことを謝らなければともごもご口を開いた。


「あの…佐見、さっきは…」


ぽん、と頭に手が置かれた。


「気にするな」


ぽんぽんと二、三度かるく叩かれる。


「大丈夫だ、藤」


俯いたまま藤木は目を見開いた。国明の声で国明と同じ事を言う佐見、違うとわかっていても、今だけはその響きに縋ろうと思った。あの世から、佐見の口を借りて国明が励ましてくれたのだと、そう思いたかった。滲みそうになる涙をぐっと堪え、藤木は小さく礼を呟く。


「ありがと…」


国明の魂に、死んでしまった大切な人達に届くといいと思いながら。


「大丈夫だから…ありがと、国明…」

僕、がんばるからさ…


愛しい姿が目に浮かぶ。

ちゃんと生きるから、君の分まで。

心の中で語りかける。


下を向いたままの藤木は、この時、中丸がぽかんと口をあけて佐見と藤木を交互に眺め、佐見が赤くなったまま体を硬直させていたことを知らなかった。






ゆっくりと時は流れる。満開の桜はやがて桜若葉となり、柔らかい風の吹く季節となった。


朝起きると、藤木はスマホにむかって小さくおはようを言う。スマホが手元に戻ってきた日以来、電源を切ったままだ。このスマホを使う気はおきなかった。これは形見だった。スマホには国明が、忠興が、秀次がいる。藤木は使わないこのスマホを肌身から離さなかった。


佐見とまともに口をきくのはまだ辛すぎた。クラスでも部活でも、佐見が藤木を気にしているのはわかっていたが、顔を見れば同じ顔をした恋人のことを思いだしてしまう。そんなとき、中丸が同じクラスだというのは本当に助かった。彼の横にいて微笑んでいればそれでなんとかなる。それでも、ふと体から心が離れたようにぼんやりすることが多くなった。




部活では上城や堂本がやたらと藤木をコートに引っ張り出したがった。


「んっとに、先輩達にまかせてられないっすよ」

「先輩、オレと組みましょう。任せてくださいよ」

「どけ、先輩と組むのはオレだ、タコ」


相変わらずド突きあいながらも二年の後輩は藤木にかまいたがった。


「なんでお前らだけ藤木先輩、独占すんだよ」

「オレらだって先輩とやりたいっす」

「引っ込め二年、三年のオレら差し置きすぎ」


他の同級生や後輩達もやいのやいのと群がってくる。恐れ多い、とどこか遠巻きに藤木を見ていた部員達が寄ってくるようになった。上城や堂本がガンガン行くからその影響かもしれないし、どことなく藤木の変化を感じ取ったからかもしれない。実際、一度鎌倉時代のあの館で弾けた藤木は、無意識だが素の自分のままだ。穏やかで大人な『藤木涼介』の仮面は榎本国明が木っ端微塵にしてしまった。本人だけがそのことに気づいていない。ただ、以前より格段に藤木の周りが賑やかになったのはその証拠だろう。皆が藤木を心から気遣っている。皆の優しさが身にしみた。だから藤木は頭を上げ続けた。学校へきちんと通い、部活に励み、友達や後輩と笑いあう。そしてひっそりと涙を流した。




一人になると、藤木は館での日々をたどった。同じ四月を過ごしながら、過ぎていった四月を思い返す。


初めて弓の稽古をさせてもらった日、馬に乗った日、風呂だと喜んでお寺に行ったのはいいが、真っ暗な蒸し風呂でとんでもない目にあったこと、義秀が甘いお菓子をくれたこと、テニスボールのような模様の藤木の食器も、館と一緒に燃えただろうか。

たった一ヶ月の間に、本当に色々なことがあった。そしていつも、最後に愛しい想い人の直垂姿が蘇る。


国明…


満月に照らされた国明、桜の花吹雪の中にたつ国明、颯爽と弓を射る国明、国明、国明、国明…


藤木はスマホに頬をすり寄せる。


「…涙って枯れないもんだね、国明…」


たとえ枯れることがあったとしても、心が血を流し続けることには変わりない。がんばって、精一杯生ききって、そうしたらまた、国明に会えるだろうか。あの世でもなんでもいい。また国明に会わせてください…


「会わせてください…」


心が千切れそうだ。


がんばって生きると決めたんだから、だから国明、いつか命の終わるとき、僕に会いにきて。今度こそずっと一緒にいて…


「もう一度、国明に会わせてください…」


日々の営みを終え、一人ベッドに横たわって涙するときだけが、藤木にとって唯一、力を抜ける時間となっていた。



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