第25話 さよなら、僕の世界
ちゃぷり、と湯がさざめいた。衝立の隙間から平仄の明かりが漏れてくる。庭の奥から犬の声、静かな新月の夜だ。国明は普段と変わりなく、板張りの廊下に腰を下ろして顔を庭に向けている。
ちゃぷり…
盥の中で藤木が身じろぎする度に、湯が小さく音をたてる。藤木は両手で湯をすくって顔にかけた。
僕はとんでもない選択したんだ…
頭が冷えてくるにつれ、藤木は事の大きさに改めて愕然とした。国明の側にいたい。その気持ちには変わりない。だが、藤木は現代に帰るチャンスを失ったのだ。もしかしたら永遠に。
二度と現代に帰れない…
国明に向かって手を伸ばしたときからそれはわかっていたつもりだった。だが、あの時は国明を置いていけない、その一念だけだったような気もする。こうして気が落ち着いてくると、ひしひしと実感が押し寄せてきた。
ちゃぷん…
湯が揺れる。
もう帰れない。
あの時空の穴は中途半端に現代へ戻ったときの現象とは明らかに違う。おそらく藤木の体が時空を越える最後のチャンスだったのだろう。
もう二度と…
父や母、裕子や健太や秀峰の仲間達にもう二度と会えない。二度とテニスが出来ない。二度と佐見にも…
ちゃぶり、ともう一度、湯を顔にかけた。
それでも僕は国明の側にいたいと思ったんだ…
ただ、まだ気持ちが乱れて整理がつかない。ざぶりと藤木は湯から上がった。濡れた肌に夜風がひやりと冷たい。体を拭いて絹の夜着に着替え、衝立の外へでる。国明が立ち上がってこちらを見ていた。黒い瞳が不安そうに揺れている。
いとおしい…
国明の不安げな姿をみて、藤木はそう思った。
国明がいとおしい。
藤木の中で一番大切な思いだ。藤木はゆっくりとした足取りで国明の前に立った。何か言いたげに国明は唇を動かしたが、声にならなかった。藤木は微かに笑いかける。国明の手が藤木の体に伸びた。そのまま藤木は抱き寄せられる。
「藤…おれは…」
「…国明…」
藤木は国明の胸に顔をうめ、小さく名前を呼んだ。国明の匂いが胸を満たす。幸福だが、辛くて涙が出そうだ。
「…今夜は一人にしてくれる…?」
びくり、と国明の体が強ばった。藤木は抱き寄せられた体を離した。
「頼むから今夜だけ…」
不安げな国明の顔を藤木は見つめる。何かを問うように国明もじっと藤木を見つめ返した。
「僕はどこにもいかない。君の側にいる…だけど…」
国明の黒い目が藤木を映して揺れている。
「だけど、今夜だけは一人で…」
藤木はそっと国明の目元を指で撫でた。
「僕の世界にさよならを言いたいんだ…一人で…」
頼むよ…と藤木は囁くように言う。国明は目を閉じると、ぎゅっと藤木を抱きしめた。それからゆっくりと藤木を離す。
「ゆるりと…休むがいい…」
国明は目を伏せ、しかし優しく微笑むと踵を返した。
「国明」
立ち去る背中に思わず藤木は呼び止める。国明が背中越しに振り返った。案ずるな、という風にまた微笑む。
またそんな顔して…
置いてきぼりにされたの子供の顔をしているなど、国明は気づいていないのだろう。藤木の胸が切なく痛む。
もう、そんな顔しなくていいのに…
「好きだよ、榎本国明」
国明の目が驚きに見開かれた。藤木はもう一度はっきりと繰り返す。
「榎本国明。誰よりも君が好き」
呆然と突っ立っている国明に、藤木はおやすみ、と笑いかけると部屋へ入った。湯浴み用の衝立の奥には、すでに床がしつらえてある。藤木は真綿入りの夜着に潜り込んだ。しばらくしん、と静かだったが、ようやく国明の歩み去る足音が聞こえる。と思ったら、がつっ、と派手な音がした。柱か何かにぶつかったらしい。小さくうめき声も聞こえた。藤木は夜着にくるまったままくすっと笑いを漏らした。
動揺しちゃって…
国明の立ち去る音と入れ替わるように、秀次と郎党達が盥や衝立を片づけに来た。藤木がもう休んでいると思ったのだろう、静かに作業を終え、足音を顰めて退出していった。再び部屋がしん、となる。時折、犬の吠え声と馬のしわぶきが遠くに響いた。藤木はごろりと寝返りをうち、仰向けになった。天井に平仄の影がゆらゆらと映っている。
たった一月…
藤木は思い返す。随分と長い時間、ここに留まっているような気がするが、まだ一ヶ月たらずなのだ。それなのに、どうしてここまであの男に心を奪われたのだろう。藤木はこの世界に来たばかりの頃を思い起こす。部屋に一人寝かされ、暗闇が恐ろしかった。あまりの静けさに恐怖した。降るような星の瞬きに絶望した。
大丈夫だ、藤…
不安に押しつぶされそうになっているとき、国明はそう言って笑ってくれた。大きな手で髪を梳いてくれた。いつも包んでくれる温もりをもう手放せなくなっている。吊り橋の恋なのかもしれない。寄る辺ないこの時代で、ただ国明に縋っているだけなのかもしれない。
だけど…
藤木は庭で泣いていた国明の顔を思い浮かべる。藤木が惹かれたのは、あの、国明の寂しい部分だったのではないか。榎本の当主として毅然と振る舞いながら、時折見せる、年相応の若者の顔に藤木は惹かれたのではなかったか。ずっと国明の側にいたい。この気持ちは変わらない。
僕は佐見が好きだったのにな…
あれほど何年も片思いをしてきたというのに、今、藤木の心を占めるのは、榎本国明ただ一人だ。自分でもそれが不思議でしかたがない。
さよなら…なんだね…
桜並木に立つ佐見の姿を今ははっきりと思い描ける。黒い学生服に身を包み、メガネをかけた佐見国明。その黒い瞳はいつも強い光を宿していた。
さよなら…僕の好きだった佐見…
涙が溢れてきた。
僕は本当に君が好きだったんだよ。
仰向いた藤木の目尻から耳へ涙が伝った。絹の夜着を濡らしていく。
さよなら、父さん、母さん…
家族の笑顔が、友人達の顔が、後から後から浮かんでくる。
健太、裕子姉さん、中丸、立石…
天井を見上げたまま、藤木は涙を零した。様々な風景が脳裏を駆けめぐる。自分の家のリビングで笑う家族達、秀峰のテニスコート、生意気だけど可愛い後輩達、友人達のと馬鹿騒ぎ…次から次へ、なつかしい顔が、思い出が浮かんでは消えた。
もう母さんの作ったご飯、食べられないね。姉さん、合宿前に占って貰えばよかったのかな。健太、ごめんよ、もうテニスの相手、してあげられないよ…
もう二度と会えない。藤木は、皆が生まれる遙か過去に生きて死んでいくのだ。
嗚咽とともに藤木は呟く。
「僕のこと、忘れないで…」
そしていつか、僕を見つけて。八百年昔の記録でもなんでもいい。
藤木は夜着の中で体を丸め、しゃくりあげた。
過去の中に僕を見つけて。
体を震わせ、藤木は泣く。夜風が海鳴りの音を運んできた。静かな夜、時折響くのは馬のしわぶきと風の音。
さよなら、もう二度と会えない、僕の大事な人達…
月のない静かな夜に、藤木は元の世界に別れを告げた。
夜明け前にやっとうとうとした。浅い眠りの中でも、家族や秀峰の仲間達に別れを言っていたような気がする。
「御渡り様、お目覚めにござりますか」
がらがらと秀次が板戸を開けにきた。射し込む朝日が眩しい。藤木はもそもそと起きあがると、夜着の上に座った。泣いて泣いて、散々泣きはらした瞼は腫れていたが、気持ちはすっきりと落ち着いていた。
「今日もよい天気にござります」
板戸を開け放された部屋に、さぁっと外気が流れ込む。肌に心地よい風だ。藤木は立ち上がり、廊下に出た。早朝の青い空にぽかりと白い雲が浮かんでいる。木々の緑が朝陽を受けて鮮やかだ。藤木は胸一杯、澄んだ空気を吸い込んだ。
「ただいま、膳を運ばせまする。先に白湯を召し上がられますか」
てきぱきと夜着を片づけながら秀次が話しかけた。藤木は振り向き、微笑んだ。
「お願いするよ、秀次」
気持ちのいい朝だ。藤木は思いきり伸びをした。
これが僕の世界。
後悔するかもしれない。これから先、生き延びていける保証もない。だが、一生懸命ここで生きていくしかない。そう覚悟を決めた。
「白湯にござります」
椀を受け取り、藤木は縁に座って湯を飲んだ。ただの湯だが、旨かった。
朝食の膳を運んできたのは国明だった。円座の上に藤木の姿をみとめると、あからさまにほっとした顔をする。
「おはよう」
藤木はくすっと笑いながら朝の挨拶をした。
「あっあぁっ」
国明はまたうろたえる。くすくす藤木は肩を揺らした。
「なに、どうしたの、国明」
「いっいや、何でもない」
「変なの」
藤木が上目遣いに国明を見ると、慌てて目をそらし、膳を藤木の前に置いた。それからどかっと乱暴な仕草で自分も腰を下ろす。藤木はかまわず箸をとった。湯気のたつ熱い汁に口をつける。
「あ、今日は海藻なんだ」
「好きか?」
「うん、おいしいよ」
藤木はいつも汁から手をつける。食材を口にするごとに好き嫌いを聞くのは国明の日課だった。藤木が嫌いだといった食材は二度と膳にのぼらない。今更ながら、国明の心遣いが嬉しかった。
「あ、これ、肝を焼いてくれたの?」
鳥の肝が塩で焼いてあった。
「…おぬしが旨いと言ったからな」
「うん、大好きだよ」
「藤は肉が好きだな」
「うん」
せっせと箸を動かす藤木に、国明は目を細めた。
「なれば今度、狩りをしよう。鹿でも猪でも捕ってやる」
「ほんと?」
「あぁ、近いうちに」
それを聞いて藤木は目を輝かせた。
「すごい、じゃあ、僕、ちょっと馬の稽古、がんばろう。みんなが狩りをするところを追いかけて見たいからね」
よしっ、と拳を握った藤木に国明が顔を曇らせた。
「危ないぞ。天幕を張るゆえ、藤木はそこで眺めればよい」
「大丈夫だよ。僕だって少しは馬くらい乗れなきゃ、ずっとここにいるんだから」
藤木がそう言った途端、国明が瞠目したまま固まった。
「…何」
自分を凝視したまま動かない国明に焦れて、藤木が口をとがらす。
「何だよ」
「藤は…」
ごくり、と国明の喉が動くのが見えた。国明は固い表情のままぼそっと言う。
「ずっとおれの側にいるか…?」
夕べのことがよほど堪えたらしい。国明は頑是無い子供のようだ。藤木は箸を置くと、きちんと国明の方に顔を向けた。
「僕はずっとここにいる。国明の側にいるから」
だからね、と藤木はにっこりした。隣に座ったまま呆けている国明の肩に拳を当てる。
「ちゃんと面倒みてよ。君が面倒みてくれないと、僕、干上がっちゃうからね」
国明の唇が何か言いたげに震えた。だが、言葉は出ない。藤木も照れくさくなり、また箸をとりあげると食事を再開した。
「僕もさ、とにかく、この時代の勉強はしないといけないよね」
野菜の炊き合わせを口に放り込み、藤木はもごもご言った。国明は呆けたままじっと藤木を見つめたままだ。なんとなく気恥ずかしくて藤木はあれこれ食べながらしゃべった。
「やっぱり、これから僕の職業、神様なわけだし、修行したほうがいいかな」
ごくん、と焼いた鶏肉を飲み下し、考え深げに眉を寄せる。
「神様っぽくなれるように、っていうか、なんかこう、霊験あらたかに見えるっていうか」
「藤はそのままでよい」
国明が言った。目を伏せてあらぬ方をみている。
「そのままでよいのだ」
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、口元が嬉しそうに上がっている。それから国明はふっと目を上げた。
「今日はぴくにく、とやらをしてみるのか?」
「え?」
藤木は飯椀を持つ手を止めて国明を見た。国明は至極大真面目に言う。
「昨日藤木は、ぴくにくをしたいと言った」
「あ、ピクニック」
そういえば昨日、外へ遊びに行く約束を強引にとりつけたのだった。律儀に国明は覚えていたらしい。
「そうだね、国明、二人で出かけたいな。近くでいいから」
藤木がにこっと笑いかけると、国明は慌てて目をそらし、顔を庭に向けた。白砂が朝陽を受けて光っている。植え込みの緑も色が濃い。もうすぐ初夏が来るのだ。
「良い天気だ」
国明がぽつっと言った。藤木も庭を眺める。
「うん」
短く答え、後は黙って箸をすすめた。国明も何も言わない。ひたすら庭を眺めている。ただ、顔が赤かった。こそばゆいような幸福感がわき上がる。明るい日差しが板の間まで射し込んでいた。
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