第19話 佐見には渡さぬ


「殿ーっ、殿、殿ーっ」

「なんだ、騒々しい」

「また御渡り様のところにおられましたかっ」

「悪いか」


朝食をとる藤木の傍らに国明がどかりと腰をおろしている。館ではまた、いつもの朝の風景が復活していた。


「朝っぱらから当主が油を売るとはこはいかにっ」


郎党を従え廊下に平伏して藤木に礼をとった秀次が、くるっと国明に向き直ってべしべし床を叩いた。


「我らと小和賀様を謀ってまで三浦は御渡り様を欲しておるのですぞ。この大事の時に何を呑気な」

「この大事だからこそ、当主自らが藤木の警護をしている」

「その警護の者どもをことごとく下がらせたのはどこのどなたでござりましょうやっ」

「おれだ」


しれっとうそぶく国明に、びしっと秀次の青筋が立った。


「前より性質がわるぅなっておられるな」

「与三郎殿、心労で禿るやもしれぬぞ」


後ろに控える郎党達がひそひそと囁きあうのを秀次はじろりと睨む。そこへまた、どすどすと足音が響いてきた。


「殿ーっ、殿はいずこに。殿ーっ」


どら声の主は忠興だ。国明が顔をしかめた。


「次から次へと何事だ。そろいもそろっておれと藤木の邪魔をする」


藤木は我かんせずと朝食に専念するふりをしながら、くすっと笑みをこぼした。国明と気まずくなる前は毎日この手の騒ぎが起こっていた。久しぶりの光景がなんだか嬉しい。弛みそうになる口元を隠すように吸い物椀を取り上げた時、忠興が廊下に姿を現した。少し緊張した面持ちだ。


「殿っ、早馬じゃ。小和賀殿より文が届いた」

「おはよう、忠興」


吸い物椀から顔をあげ、藤木がにこりと笑った。忠興の強面がへにょりと崩れる。


「おぉ、御渡り様にはご機嫌うるわしゅう」


ジャージに着替えて運動する気満々の藤木はニコニコと忠興に話しかける。


「忠興、今日は馬で外に出られるかな。砂浜で練習しようと思っているんだけど」

「それはよいお考えじゃ。ご案じめされるな。この忠興がついておりますればなんなりと」

「叔父貴、馬の稽古は庭でおれが見る。叔父貴は外回りの警護があろう」


国明が口を挟んできた。忠興が目を剥く。


「なんじゃあ、いきなり。殿こそ、馬の稽古どころではござるまいに」


忠興が文句を遮るように国明は手を突き出した。


「小和賀殿の文はどこだ」


しぶしぶ黙った忠興は、失礼つかまつる、と部屋へいざり、書簡を国明に手渡した。それから、国明が難しい顔で文を読んでいる間に、もう一通を取り出した。


「御渡り様への文もござりましてな。これも一緒じゃ」

「え?僕?」


怪訝な顔をする藤木の前に忠興は文と扇、それから濡れた和紙に包まれた緑色のつやつやした葉っぱを置いた。


「何?この葉っぱ」


国明が自分宛の書簡から顔を上げた。


「…芹…だな」


訝しげに眉を顰める。それから藤木宛の文を見てますます不機嫌に顔をしかめた。その文には香が焚き染めてあったのだ。藤木は文を手にとって匂いをかいだ。


「いい匂いするね」


文を開くとより香りが立つ。素人目にも達筆なのだとわかる字で、しかし、藤木には何がなにやらさっぱり読めない。困って顔をあげると、忠興がぶんぶんと首を振った。


「いや、わしはどうにも学問はの」


それから忠興は秀次を手招きする。


「与三郎、おぬし、幼少の頃より殿と学問をいたしておったであろう。それ、鎌倉の何某とか、歌詠みが通うてきておったではないか」

「は…はぁ」


秀次は一礼すると、膝でにじって藤木の前に来た。


「おぬしが読み上げよ」


国明は相変わらず不機嫌そうに藤木の手元の文を見ている。


「失礼つかまつります」


秀次は恭しく藤木の手から文を受け取った。一つ咳払いをして、それから重々しく読み上げる。


「え~、『なにとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて』…でござりまする」

「…何それ?」

「何じゃあ?」


藤木と忠興が同時に言った。


「意味わからないんだけど」

「わけがわからぬわ」


また二人、はもった。


「はぁ…」


秀次が何故か困り果てた顔をする。その時、いきなり国明が藤木の前に置かれた芹を掴んで立ち上がった。和紙で包んだみずみずしい芹をずいっと秀次に突き出す。


「これは後でおれが食う。下げておけ」

「は…しかし、殿…」

「下げよ」


ぴりぴりとした怒気に秀次は黙って芹を受け取った。忠興がぽかんと国明を見る。


「殿、たかが芹じゃが、御渡り様へというて小和賀殿がよこしたものを、勝手をしては具合が悪かろうに」

「どうせ榎本の庄に入ってから摘んだ芹だ。当主のおれが勝手をして何が悪い」


むすっと言い捨て、国明は足音も荒く部屋を出て行った。藤木も忠興も呆気にとられている。しばらくすると、庭のほうから馬の駆け去る音がした。


「あれって…怒ってたの?」

「さっ左様存知まする」


庭を指差す藤木に秀次は首を竦める。今度は忠興が芹を指差した。


「なんで芹に怒るんじゃ?」

「そっそれは…」


言いにくそうに秀次が口ごもる。藤木がマジマジと秀次の手元を見つめる。


「この葉っぱ?」

「いかにも…」


はっきりしない秀次に二人同時にきれた。


「秀次っ」

「ええいっ、わかるように言わぬかっ」

「でありますからっ」


観念したように秀次は目をつぶって一気に言った。


「小和賀様の文にかかれておるのは身分違いのかなわぬ恋の歌でござりまする」

「「はぁっ?」」


藤木も忠興も目をぱちくりさせる。秀次はもごもごと説明した。


「その…西行法師の歌でござりまして、卑しい身分でありながら皇后に恋をした男の逸話にちなんでおりまして、でありまするから、芹を毎朝摘んだのでござります、その男はっ」


藤木と忠興は今度は互いに顔を見合わせる。それからまた秀次に視線を移した。


「身分違いの恋じゃあ?」

「はぁ、小和賀様ご自身を男になぞらえられておるかと…」

「僕、皇后様なんだ」

「おそらくは…」


藤木と忠興はまた呆気にとられた。


「で、殿はいずこへいかれたのじゃ」

「…芹を摘みに行かれたのではないかと…」

「何で国明が芹摘みに行くのさ」

「…負けず嫌いなお方でござりますれば…」


藤木と忠興は顔を見合わせ、ため息をついた。


「阿呆じゃのぅ、殿は…」

「うん、僕もそう思うよ…」


やれやれと藤木は膝前にあるもう一つの贈り物、扇をとりあげ広げてみた。なにやら絵が描いてある。秀次がいささか引きつり気味に言った。


「この歌の故事を絵にしたものかと存知まする」

「なんだか、小和賀の殿様って、徹底した人だね…」


やってられない、と藤木は手にした扇で額を押さえた。焚き染めた香がふわっと漂う。


いい香りだし、もったいないからこの扇、使わせてもらおう。


そう思って扇いでみた。扇ぐたびにふわふわと甘い香りが漂う。ポケットに入れた土産の鈴がころん、と音を立てた。






朝食を終え、しばらくたっても国明の帰ってくる気配はなかった。


どこまで行ったんだか。


藤木は食後に、鎌倉土産の菓子を白湯と一緒に運ばせていた。黒塗りの高杯にのせられた菓子をつまみながら、藤木の口元に自然と笑みが浮かぶ。


あんなにムキになっちゃって…


小和賀の殿様のたわむれに、本気で怒って芹まで摘みにいってしまった。あれが恋の歌だったからなのだろう、自惚れでなく、藤木にはそれがよくわかった。そして、そんな国明の気持ちがいやではない。むしろ、嬉しいと感じている。

ポケットの中の鈴がまたころん、と鳴った。藤木はポケットの上から鈴に触る。反対側のポケットには、スマホとミルクキャンディが入っていた。国明のために一つだけ残していたミルクキャンディ、気まずくなって渡す機会を逸していたが、今日、渡してみようか。芹を摘んできてくれたお礼に、と言って今日、渡してみようか。藤木は反対側のポケットからミルクキャンディを取り出した。


喜ぶかな、国明…


射し込む日の光を反射して、キャンディの包み紙がキラッと光る。キャンディを取り出したときはみ出したスマホが、ことりと音をたてて床に落ちた。


えっ…


ぐらっと視界が歪む。足元がなくなる浮遊感、周囲の音が消える。


また…


藤木がハッと体を強張らせた瞬間、真っ白な光に全身が包まれた。







ふっと意識が戻ってくる。三度目だ。流石に藤木は、冷静に周りを見回すようになっていた。足に冷たい床の感覚がある。二度目に帰ってきたときよりも感覚が鮮明だ。消毒液の匂いがする。病院だ。誰かの病室、目の前にベッドがある。夢で見たのとおなじ部屋だ。


そうじゃない、最初に戻ってきた時がこの部屋だったんだ…


だったらここは佐見の病室だ。藤木はベッドに歩み寄った。そこにはやはり佐見がいた。薄青い病院のパジャマを着て、点滴の管を腕に差した佐見が静かに眠っている。今は誰もいない。静かだ。点滴の落ちる音と、廊下を行き来する人の話し声だけが時折響いてくる。藤木はじっと佐見を見つめた。ひたひたと胸に切ないものが押し寄せてくる。


「佐見…」


藤木は想い人の名を呼んだ。佐見は目を閉じている。


「佐見…佐見…」


出来ないとわかっていても、藤木は佐見に触れたいと思った。佐見の温もりを、佐見がちゃんとそこにいるという証を感じたかった。


「ねぇ、佐見…」


胸が痛い。


「佐見…ねぇ、目を開けて、佐見…」


そして僕を見て、僕の名を呼んで、藤、と。


祈るように藤木は呼びかけた。もし今、佐見が目を開けてくれたら、自分を見つけてくれたら、このまま元の世界に戻れるような気がする。


「佐見、佐見、目を覚ましてよ、佐見」


佐見は眠ったままだ。点滴の音だけが静かに響くシンとした部屋。


「佐見、佐見ってば」


藤木はたまらなくなった。思わず佐見の肩に手を伸ばす。


え…?


すり抜けるかと思っていた手が、佐見の肩に触れて止まった。いや、触れたのではない。布の感触も何もない。薄い柔らかい膜に遮られたような感覚だ。ただ、薄膜を通して佐見の体温だけが掌に伝わってきた。藤木は息を飲んだ。手の平を佐見の体に添って動かしてみる。やはり薄い膜に遮られていて、パジャマに皺一つつけることも出来ない。直接触れられるわけではないのだ。それでも、佐見の温もりだけは伝わってくる。


「あぁ…」


藤木は震えた。この手は確かに、佐見の温もりを感じている。


「さ…み…」


肩を揺すろうと藤木は触れる手に力をこめた。だが、藤木がどんなに手を動かそうと、佐見の体は揺れもしないし、シーツに皺一つつかない。全てが薄膜に遮られている。藤木の体はまだこの世界に帰ってきていないのだ。


「あ…あぁぁ…」


藤木は呻いた。胸の中がぐちゃぐちゃだ。佐見の温もりを自分は確かに感じている。だが佐見は?佐見は何も感じていない。藤木が何をしても、元の世界には微塵の変化も起こらないのだ。


僕はここにいるのに、君に触れているのにっ。


叫びだしたかった。体中が張り裂けそうだ。


「佐見っ」


めちゃくちゃに佐見の肩を揺すった。だが、佐見は微動だにしない。パジャマにもシーツにも皺一つつかない。点滴のチューブが揺れることもない。


「さみ…」


藤木の喉から嗚咽が漏れた。ぱたぱたと涙が落ちる。しかし、その涙がシーツに染みを作ることはないのだ。


「佐見、佐見、お願いだから…」


何故佐見は目覚めない、何故僕を見つけてくれない、何故僕は帰れないんだ…


「う…あぁ…」


藤木は佐見の体にとりすがった。


「目を覚ましてよ、佐見、佐見、佐見っ」


ここに温もりが確かにあるのに。


「さみっ」


藤木の叫びと同時に再び世界が歪んだ。


「さ…」


意識が遠くなる。白い光が炸裂する。


いやだっ…


突然、感覚が戻ってきた。暖かい春の風と馬の嘶き、犬達の咆える声。


「…あぁ…」


藤木は再び自分が鎌倉時代に戻っていた。ここは館の自分の部屋、目の前には忠興の土産の菓子と白湯がある。


「あぁ…」


藤木は涙に濡れた顔を覆った。また新たな涙があふれてくる。


「佐見…」


藤木は想い人の名を呟いた。たった今まで、その温もりを感じていたのに。


「佐見…さみ…」

「そんなに佐見のところへ帰りたいのか」


突然、鋭い声が部屋に響いた。藤木はぎくりと体を強張らせる。はっと見上げると、部屋の入り口に国明が立っていた。摘んできた芹を左手に握り締めている。帰ってきたばかりなのだ。真っ青な顔で国明は藤木を凝視していた。その険しい雰囲気に藤木は怯んだ。


「国明…」


声を絞り出すように名前を呼んだが、国明は何も言わない。目に剣呑な光が宿っている。藤木は呆然と国明を見詰め返した。


「くにあ…」

「佐見がいいのか、藤」


藤木はひゅっと息を詰めた。


「そんなに佐見がいいか」


思わず体が後ずさる。怯えを滲ませた藤木の態度に国明の表情が変わった。荒い足取りで藤木に近づくとその肩を掴んだ。ばらばらと芹が足元に散らばる。


「藤」

「やだっ」


咄嗟に藤木は身をよじった。恐怖に心臓を鷲掴みにされ、体が本能的に国明から逃れようとする。国明の腕に力が込められた。


「離せ」

「藤っ」


藤木は必死でもがく。だがどんなに暴れても国明の力は弛まない。


「嫌だっ」


藤木は腕を突っ張って抵抗した。国明が怖い。国明は簡単に藤木を押さえ込んでくる。


「離せ…はな…」

「藤、おれはっ」

「嫌だ、佐見っ佐見…」


藤木が佐見の名前を口にした瞬間、国明の体から殺気が迸った。ぐいっと顎をつかまれ仰のかされる。


「あ…」


眼前に漆黒の瞳があった。黒い炎が噴き上がっているようだ。藤木はカタカタと体が震えるのを止めることができなかった。すさまじい怒気だ。


「佐見には渡さぬ」


怒りに満ちた声が降ってきた。藤木は震えたまま国明を見上げる。顎を掴んだ手に力が込められる。藤木の顔が痛みに歪んだ。


「渡さぬ」


次の瞬間、噛みつくように唇を塞がれた。


「んっ…」


国明は無理やり藤木の歯列を割ると舌を差し込んでくる。


「…んんっ…うっ…」


息を塞がれ滅茶苦茶に舌をなぶられる。藤木は必死で国明の肩に両手を突っ張った。


「むぅ…ぐっ…」


突然、唇が離れた。どん、と床に突き倒される。


「いたっ」


床に転がされ藤木は背中をしたたかに打った。国明はすっくと立って床に倒れた藤木を見下ろしている。二人とも息が荒い。藤木は顔を上げて国明を睨み上げた。射殺すような視線が返ってくる。国明は威圧的な声で一言宣言した。


「今後、この部屋を出ることまかりならぬ」

「なっ…」


まるで家臣に命令するような口調に藤木は目を見開いた。国明はくるっと踵を返すと部屋を出て行く。のろのろと体をおこし、藤木は床に座り込んだ。


「国明…」


呆然と国明の出て行った先を見詰める。ポケットからころん、と音をたて、土鈴が転がり落ちた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る