第15話 拉致未遂

館へ戻った藤木は部屋の円座に座り込んだ。秀次が側を離れたがらなかったが、大丈夫だからと下がらせる。体が緊張で強ばっていた。


何がおこったんだ…


佐見が眠っていた。病院のベッドのようだった。心配そうな佐見のお母さんと立石。それに自分の家族がいたあの殺風景な部屋は何だろう。見たこともない部屋だった。


「かあさん…泣いてた…」


藤木は小さく呟いた。警官がいたということは、あそこは警察署の一室なのかもしれない。自分が行方知れずになってるからなんだろうか。そうなのだろう。だって自分はこんなところにいるのだから。


帰りたい。あのまま帰れたらよかった。そうしたらもう悩まなくてもいい…


『殿をおいてゆかれますな』


秀次の声が身を貫く。


『御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです』


聞きたくない。そんなこと、自分には関係ない。


『たんと土産を買うてまいりますからな。楽しみにしておられませよ』


だめだよ、忠興。僕は帰るんだ…


藤木は両手できつく自分を抱きしめた。身のうちを焼かれるような痛みが走る。所詮は国明も忠興も鎌倉人、藤木とは世界が違うのだ。


『藤』


国明の強い瞳が胸に蘇る。意志の強い、美しい黒曜石。


「違う、僕が好きなのは佐見国明だ」


藤木は必死で佐見を思い浮かべようとした。コートの中の佐見、テニスラケットを握り試合に挑む佐見、桜並木の下で振り向いた佐見。佐見も国明と同じように、意志の強い美しい黒い目をしていて…


『大丈夫だ、藤』


山桜の下で、満月の浜辺で、自分を見つめる熱を孕んだ強い眼差し。


「違うっ」


藤木の目から涙が一筋、頬を伝った。苦しい。胸がはりさけそうだ。


「…帰りたい…」


何かに訴えるよう、藤木は虚空に向かって呟く。


「…帰りたいんだ…僕は…」


藤木の呟きに答えるものはない。部屋の板敷きに春の日差しが優しい光を投げかけている。


「帰るんだ…」


何も考えたくない。ただ、自分の世界に帰ることだけを思っていたい。藤木は膝に顔を埋めた。

その時だった。館の入り口の方から大声で秀次を呼ぶ声がした。どたどたと足音が近づいてくる。


「何事ぞ、騒がしいっ」


控えの部屋から秀次が郎党を一喝した。藤木は驚いて顔を上げる。どうやら秀次は心配して控えの部屋に詰めていたらしい。


「那須殿、大変でござります」


秀次を呼びに来た郎党の声が慌てている。


「小和賀の御当主が、小和賀雅兼様がお見えになられました」

「なに、小和賀の御当主が?」

「おっ御渡り様にお目通り願いたいとの仰せで」


控えの部屋の会話が聞こえてくる。自分の名が出たことに藤木は疎ましさを感じた。今は誰にも会いたくない。見知らぬ来訪者相手に神様ごっこをやる気分には到底なれなかった。


「とにかく、客間にお通しせよ。くれぐれも粗相のないよう、丁重にもてなせ。おれもすぐに行く」


ばたばたと部屋を出ていく郎党の足音とともに、藤木の部屋の前に秀次が現れた。廊下でがばりと平伏する。


「イヤだよ」


秀次が口を開く前に藤木はぴしゃりと言った。


「誰にも会いたくない。一人にしてくれないかな」

「御渡り様…」


秀次が困り果てた顔を上げた。


「お気持ちは重々承知しておりまする。なれど、その…小和賀様は…榎本にとって大事の客でござりまして…」


藤木に遠慮しつつも秀次の様子に焦りがにじむ。藤木は不機嫌な声で答えた。


「誰?その何とかって人」


秀次があまりに困った顔をしているので、藤木も話を聞く気になったのだ。はっ、と秀次が礼を返して説明をはじめた。


「小和賀が当主、小和賀雅兼様とは、三浦党の重鎮にして学問の道でも名高きお方でござります。和歌や連歌もよくなされ、鎌倉殿の覚えも目出度きとか。お母上様が京の公家の出であられ、なんでも藤原の御血筋らしゅうござりますが、雅兼様ご自身も朝廷の方々と親交を結び、鎌倉殿と朝廷のよき仲介役であると聞き及んでおりまする」

「…ふーん…」


藤木は気のない返事をした。三浦の重鎮だの公家の血筋だの、自分には関係ない。だが、秀次は目をきらきらさせて説明を続けた。


「文武に優れるとは小和賀様のことかと存じまする。かといって、けして我らを見下すようなことはなく、殿のご婚儀を調えられし折りには、親しくお声をかけてくだされました」


国明の婚儀を進めているヤツってことじゃない…


藤木の胸がずしっと重くなる。ますます気鬱になり、藤木は黙ってあらぬ方に目をやった。秀次はやっと、自分の対応のまずさに気がついた。少し調子にのってしゃべりすぎたらしい。うろたえながらも秀次は何とか言葉を絞り出した。


「おっ御渡り様、ほんの一刻でよろしゅうござりまするから、目通りお許しくだされませ。小和賀様ほどの御方をないがしろにするわけには参りませぬ」


額を床にこすりつけ、秀次は藤木に懇願した。そっぽを向いていた藤木だったが、流石にこれにはまいった。ふぅっとため息を一つつくと、いささか投げやりにうなずく。


「いいよ、会うよ。でも、あんまり長い時間はイヤだから」

「はっははっ」


はじかれるように身を起こした秀次は、大急ぎで客間へ走っていく。藤木はその姿にため息をついた。本当は今、誰にも会いたくない。胸がざわめいて、自分でもどうしていいのかわからないのだ。だが、秀次が困るのも嫌だった。どんなときでも、彼は一生懸命気遣ってくれる。


せめて今は神様でいなきゃ…


今だけは家族や友達や、佐見のことを忘れて、榎本の神様にならなければいけない。藤木は目を閉じ息を整えると、小和賀なにがしの来室を待った。








藤木の部屋は日当たりのいい南向きの角にある。広い板の間の部屋を廊下が取り巻く形の造りで、藤木の部屋は南側と東側に廊下があった。東側の廊下にたつと、館の広い庭と門が見え、その先に浜へ続く松林が見渡せる。昼は板戸を開け放してあるので、藤木が座っている畳からも外の風景がよく見えた。

とんとん、と複数の足音がして、南側の廊下に秀次が平伏した。丁度藤木の正面下座にあたる。秀次は、藤木の座る畳に近い東側の廊下から声をかけるのが常だったので、南側に平伏されるとひどく遠くに感じた。


「御渡り様、小和賀が庄の当主、小和賀雅兼様にござります」


秀次はそう言い終わると、膝でにじって脇に体を寄せ、再び平伏した。一人の男が板戸の影から姿を現す。すでに座してこうべをたれており、膝でいざって正面まで移動すると、深くひれ伏した。


「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げ奉る」


よく通る落ち着いた声だ。


「某、三浦ノ党にて佐原にえにしを持ちまする、小和賀が庄当主、小和賀雅兼と申します」

「顔、上げていいよ」


藤木はいささか投げやりにそう言った。ここでは神様の藤木が顔をあげていいと言うまでは、皆ひれ伏したままなのだ。


「ははっ」


そういって面をあげた男は、年の頃三十三、四。切れ長な目元の涼しい美丈夫だった。

藤木は意外な面もちで雅兼を眺めた。ここへ来て以来、あまりみかけないタイプだ。どこにでもある灰緑色の直垂を着ているのに、すっきりとあか抜けている。鎌倉の文化人として将軍の側にあるというのは事実なのだろう。かといって弱々しさは微塵もなく、着物の上からでも鍛えられた体躯だということがわかる。板東武者の豪放さと洗練された知性を併せ持つ男だった。


へぇ、かっこいいんだ。


秀次が憧れるのも無理はない。藤木は先ほどの秀次の興奮ぶりに納得がいった。その雅兼は、面をあげた状態でじっと藤木を見つめている。


「…何?」


藤木が首を傾げると、どこか呆然としたていで雅兼が呟いた。


「なんと…かくもお美しいお方がおはしますとは…」


それから雅兼ははっと我に帰ったように赤面した。


「ごっご無礼つかまつりました」


もう一度、廊下にひれ伏す。訳がわからず、藤木は秀次に目をやると、秀次までなにやら赤くなっている。

本人が自覚していないだけなのだが、落ち込んでいる藤木の物憂げな様はそれはたおやかだった。白い肌と色の薄い髪や目の色にくわえ、すらりとした肢体は鎌倉人の持ち得ぬものだ。そのままでも人に美しいと思わせるに十分な藤木が、けぶるような瞳に憂いを湛えて見つめてくれば、この世のものならぬ尊き身が降臨したのだと感じ入るのも無理はない。案の定、雅兼は平伏したままぴくとも動かなかった。

だが、そんなこととは露とも知らない藤木は、首を捻りながら声をかけた。悪い感じの男ではないが、今は知らない人間と言葉を交わす気分ではない。さっさと義務を果たしてしまいたいのだ。


「いいよ、顔あげて中へ入って。そうでないと話せないでしょう?」

「はっ、もったいなきお言葉、いたみいりまする」


感極まった声で答えた雅兼は、平伏したまま部屋へにじり入った。


「小和賀様、どうぞそのまま、御前にお進み下され」


後ろから秀次が声をかけた。そして雅兼に続いて部屋へ入り、脇に控える。藤木の部屋は広い。雅兼は一度立ち上がると、藤木の正面近くまで進み出て再び平伏した。


「はじめまして。小和賀さん、でいいのかな」


藤木はにっこりしてやった。少し話をして喜ばせて、さっさと帰ってもらおう。そうでないと、自分の心が持ちそうにない。一人で気を静めたかった。


「畏れおおきこと、雅兼とお呼び下されませ」


雅兼は顔を上げた。興奮のため、頬がわずかに上気している。近くで見ると、目に力のあるいい男だ。藤木は微笑んだ。


「今日は国明も忠興もいないんだ。今朝、出かけちゃって」

「はっ、それがしも聞き及んでおりまする。三浦の本家にて、祝いの宴につかれるため先にご出立なされた由」


雅兼の答えに藤木は眉をひそめた。


祝いの宴とは何だろう。まさか、もう結婚式とか。


胸がざわめいた。そんな話は聞いていない。自分に一言もなく、国明は結婚するのだろうか。ずきん、と走った痛みに、藤木は顔をゆがめた。だが、雅兼の口から出た言葉は、思いも寄らないものだった。


「御渡り様が本家へ渡らせ給うとのこと、一族、喜びにたえませぬ。ましてこの雅兼、御渡り様を本家までお送り申し上げる大任の栄に浴し、感に堪えませぬ。小和賀の誉れと存じ奉り候」

「…え?」


今、この男はなんと言った。自分が本家へ行く?三浦に自分を連れて行くと言ったのか?


藤木は呆然と目の前の男を見つめた。雅兼は喜びも露わに祝いの言葉をつづっていく。


「榎本殿は本家にて御渡り様をお待ち申し上げるとか。三浦は少し遠うござりますゆえ、すぐの御出立がよいかと存じ上げ奉る」


藤木は言葉が出なかった。頭の中は真っ白だ。この館を、国明の側を離れるなど、考えたこともなかった。


国明…


その男は今、ここにはいない。いつも全身で藤木を守ろうとする、漆黒の瞳の男。藤木はただ、何も言えずに身を強ばらせるばかりだ。


「おっ恐れながら小和賀様に申し上げます」


その時、部屋の後方から声が上がった。雅兼が振り向く。


「那須殿?」


秀次だった。

そうだ、秀次がいる。秀次なら何か言ってくれるに違いない。

藤木は思わず体を浮かせた。秀次は両手を床につけ、しかし面はまっすぐ雅兼に向けて言上した。


「それがし、当主国明より留守のことを言いつかってござりますが、御渡り様が三浦へお渡りになるなど、一言も承ってはおりませぬ。何かの行き違いではないかと存じ上げまするが」


雅兼は怪訝な表情を浮かべ、秀次に体を向けた。


「聞いておらぬと?」

「ははっ、いかにも」


拳を床につけて一礼する秀次に、雅兼は首をひねった。


「はて、榎本殿の何故に言われなんだか…なれどわしはこの大任を果たさねばならぬ。御渡り様が三浦にお渡り給うに粗相があってはそれこそ神罰が下ろうぞ」

「しかし、当主不在の折、かような大事を某が一存で執り行うわけには参り申さぬ」


秀次は食い下がった。いかに相手が尊敬してやまぬ相手でも、藤木を渡すとなると話は別だ。秀次は膝を進めて平伏した。


「明日には当主国明が戻りまする。部屋を用意させますゆえ、それまでゆるりと御逗留下されませ」

「しかしなぁ、那須殿」


困惑を隠せない雅兼は、それでも穏やかに語りかけた。


「その国明殿が本家にて御渡り様を待っておられるのだぞ。日の暮れるまでに三浦へ着かねばならぬ。すぐにも出立せねば間に合わぬのだ」

「なれどっ」


秀次は必死だった。雅兼の様子に嘘は見えないが、それでも国明が藤木を手放すとは到底思えない。


「御渡り様は榎本の神でござります。当主国明がはっきりとそう申しました。それが、某に一言もなく三浦で御渡り様を迎えるなど、ありえませぬ」

「那須殿」


びしり、っと空気が張りつめた。穏やかだった雅兼の眼光が一転して鋭く秀次を射抜く。


「わしが虚言を弄しておると言われるか」


鋭い一喝に秀次は己の失言を悟った。小和賀雅兼は誇り高い板東武者だ。それを嘘つき呼ばわりしたも同然なのだから、怒るのは無理もない。秀次は真っ青になった。


「いっいえ、滅相もござりませぬ。ただ、某は…」

「御渡り様を無事に三浦へお迎えする、それが此度のわしの責務だ。那須殿、そなたの責務は滞りなく出立の準備をすることであろう。これ以上の言は許さぬ」

「はっ…ははっ…」


秀次は恐れ入って床に額をこすりつけた。


「那須殿」


凛とした声が響き渡った。


「三浦の名代としてそなたに命ずる。直ちに御渡り様が支度を整えられたし」


有無を言わさぬ強さだった。観念したように秀次は礼を返した。


「えっ…ちょっちょっと、秀次っ」


藤木は慌てた。頼みの秀次がここで折れては、このまま自分は本家行きだ。


「僕、そんなの聞いてないし、秀次っ」

「は…はぁ…」


きつく秀次の名を呼べば、おろおろと秀次は面を上げる。


「秀次ってば」

「御渡り様」


秀次が何か言おうとするのを雅兼が柔らかい声で遮った。


「ご案じ召されますな。小和賀家中でも特に屈強なものどもを引き連れて参りました。もとよりこの雅兼、命にかえても御身をお守り申し上げまする所存、道中何のご懸念も無用にござりますれば、心平らかに渡らい給え」


そーゆー問題じゃないのっ。


心の中で藤木は思わず悪態をついた。しかし、焦れば焦るほど言葉にならない。それは秀次も同じらしく、ただおろおろと狼狽えている。雅兼は優雅な仕草で藤木の正面に座り直すと、床に両手をついた。


「某が輿までご案内申し上げまする。ただその前に、国忠殿へ挨拶申し上げたく存じまする。病床につかれておられるのは承知しておりますが、なにとぞお許し願い奉る」


もう出立する体勢だ。藤木の背中に冷たい汗が流れる。秀次は秀次で、すっかり混乱しきっている。郎党達にいたっては、雅兼の命令どおり、出立の準備にかかろうとする者もでる始末だ。


万事休す


その時、穏やかな声がかかった。


「雅兼殿、お久しゅうござるなぁ」

「国忠殿」



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