時渡り風

イーヨ

第1話 呪いの刀

三月の末、早春の海は穏やかに凪いでいた。午前八時、海岸沿いの道を白いジャージの一団がランニングしていた。肩から腕にかけて太い青の一本線がはいった白ジャージの胸には同じ青で「秀峰」の刺繍がある。秀峰学園高等部男子テニス部だ。総勢五十人ほどだろうか、4月に進級する新三年と新二年のテニス部員が春の合宿で鎌倉に程近い海辺のこの街へ来ていた。鎌倉に近いといっても、小洒落たレストランやアンティークショップ街があるわけでも、由比が浜だの江ノ島だのという観光地に近いわけでもない。ひなびた海辺の、要するにただの田舎町だ。インターハイ常連校にして上位の成績を残す強豪、秀峰高等部のテニス部が何故そんなところで合宿かというと、ひとえに顧問の趣味だとしかいいようがない。


「秀峰学園、青春ーっ。」


が口癖の顧問教師猿渡厚夫は三十五歳、ベテランの域に入ったこの男は四角顔に太い眉と大きな目、顎には針金のような髭をはやしている。身長180センチと大柄でがっちりとしており、テニス部というより柔道部顧問です、と言ったほうが納得できる容姿だ。だがこれが案外ロマンティストで、人気のない海辺を生徒と一緒にランニングすることに憧れを感じるような男だった。どうやら昭和の青春テレビドラマに感化されたらしい。結果、部員達は朝夕、海岸沿いの道を走り、砂浜でストレッチをしたあとまた宿まで走って帰る。砂まみれになるうえ靴に砂が入ると部員達には至極不評なのだが青春一直線な彼には通じない。


「あの楠の木の祠まで全力疾走ーっ」


最後尾を走る顧問、猿渡の声が響いた。


「ウィーッスッ。」


また砂浜におりるのか~、と些かげんなりした様子で秀峰学園高等部の新三年生と新二年生はダッシュした。





巨大な楠だった。 樹齢何年になるのか、幹まわりは大人二人が両手を広げたよりも大きい。楠の根元には古びた人の背丈ほどの祠があり、そこから下の砂浜に降りる小道があった。


「ったく、勘弁して欲しいッスよ~」


小道をぼやきながら登ってきたのは秀峰学園新二年生、上城真也である。短髪を逆立てた長身のイケメンだ。テニス部の次代を担う中核の一人で女子にモテる部員の常に上位ランクに位置している。結構マイペースタイプで、ストレッチ後、顧問の全力疾走の声をガン無視してのんびり坂を上がってきたのだ。上城はスニーカーに入った砂が気持ち悪いらしく、もぞもぞ足を振った。


「朝から砂まみれってのもなぁ、しかも毎日」

「先生の趣味だからね」


上城の 背中にくすっ、と笑う声がした。


「それで済ませるんすかぁ~、藤木先輩~」


情けない声で上城が振り返ると、さらりとした明るい髪と茶色がかった瞳を持つ藤木涼介が微笑んでいた。朝日をうけてすらりとした肢体がほんのり輝いているように見える。


うっわ、相変わらず…


その美青年ぶりに上城は思わず見愡れた。少年期をぬけたというのに、この先輩はますます綺麗になっていく。けして女顔ではない、どこから見ても男なのだが、顔立ちが整っているだけでなく纏う空気が綺麗なのだ。それでいて、上城がふっ飛ばされるほどのスマッシュを打つ膂力があるのだからタチが悪い。新三年生のレギュラートップクラスである藤木は女子の人気は言わずもがな、男子からの告白も多いと聞く。サラサラとした長めの髪を耳の後ろまで斜めに流した白皙の美青年に微笑まれたら、そう、この先輩は常に穏やかな微笑みを浮かべているのだ、これじゃ告白もされるよなぁ、とわずかの間、上城はぽぅっとした。と、いきなりそのスネが蹴っ飛ばされた。


「いってぇっ」

「ボケッとしてねぇでとっとと行け、タコ」


藤木の後ろから上ってきた、やはり四月から二年になる堂本三彦だ。一見骨ばった体つきに見えるがなかなかのパワーの持ち主で、なによりその三白眼が試合相手をビビらせると有名だ。こちらも藤木ばりにサラサラした茶色がかった髪を斜めに流しているのだが、似たような髪質と髪型でここまで違うのか、というくらい剣呑とした雰囲気を醸し出している。堂本は藤木に憧れて同じ髪型にしたのかもしれないが、もしそうだったら大失敗だと言わざるをえない。この堂本、何かというと上城と喧嘩するのだが、案の定、今回も上城が食って掛かった。


「ぬぁ~にぃ~っ、別にボケっとなんぞしてねぇだろうが」

「じゃあ何でこんなとこで突っ立ってんだ、あぁ?後ろつかえてんだよ、後ろが」

「横通れ、クソが」

「なんだとこのタコ」


ド突きあおうとするところへ藤木がにっこりと割って入った。


「ごめんね、堂本」

「あうぇっ」


藤木に微笑まれて堂本が慌てる。


「こんなとこで立ち止まっちゃダメだよね」

「あ、いや、先輩じゃなくってですね、このタコが…」

「誰がタコだ、誰が」


せっかく止めたのに再びド突きあいをはじめる。その横に立って藤木は二人を微笑ましい気持ちで眺めた。藤木はいわゆる「美青年」なせいか、こうやって誰かとド突き合うという経験がない。だからすぐ取っ組み合いになるが後腐れのないこの二人のことが少し羨ましい。こんなことを言うと贅沢だと決めつけられてしまうので黙っているが、藤木涼介自身は線が細くて女性的な自分の容姿があまり好きではないのだ。だからこそ筋トレに励んでパワーをつけるようにしている。

と、ド突き合っていた二人の体が祠にぶつかって派手に音を立てた。


「うわっ」

「わっ、てめぇ、気をつけろ」


年代物の木の扉はだいぶ傷んでいたのだろう、留め金が少し外れて開いていた。


「壊すな、阿呆」

「てめぇのせいだろーがっ」


言葉は乱暴だが、明らかに焦りだした二人に苦笑しつつ、藤木は扉を元の位置に据え付けてみた。がたつくが、なんとかなりそうだ。きっちりはめ込んでふと足下をみるとなにかが落ちている。拾い上げたそれは古びた鞘にはいった小刀だった。


「ふ…藤木先輩…」


後輩二人が気まずそうな声をかけてくるのに気付いて藤木は祠の前から立ち上がった。


「あ、大丈夫、扉はちゃんとはまったから」

「すっすいません」


にこり、とすると上城と堂本が小さくなって頭を下げた。そこへ顧問の声がかぶさった。


「なーにをしとるかーっ、宿までまた全力疾走ーっ」

「藤木にそこの二年~~、さぼってるってずるい~~」

「だからって中丸、お前まで止まらない」


顧問の後ろから三年の立石と中丸が顔を出す。小柄で茶色がかった癖っ毛にくるりとした目の大きなの中丸と短髪に面長で穏やかな風貌の立石はダブルスを組む仲良しコンビだ。


「へへ~んだ。相変わらず口煩い副部長~っ」

「中丸っ」


はたこうとする立石をひらりと躱して中丸はダッシュした。


「おっさき~」

「待て、中丸っ」

「あ~、先って、ずるいっスよ、中丸せんぱ~いっ」


ワイワイ騒ぎながら部員達は走りはじめる。一緒に走り出そうとした藤木はふと足を止めた。新部長の佐見国明が砂浜から上がってくる。

佐見は全てが藤木の真逆だ。髪は黒黒としており癖のある毛先が跳ねている。銀縁の眼鏡をかけた切れ長の涼しい目元は鋭い光をたたえていて、シャープな顔のラインや引き締まった細身の体躯と相まって全体的に切れ味のいい刃物を連想させる。身長は179センチで175センチの藤木よりわずかに高い。あまり喋らない上感情を表に出さないので表情に乏しく常に仏頂面なのだが、そこがクールで素敵だと女子にもてまくっている。ただ本人は恋愛ごとに関心がなくモテているという自覚もない。鈍いというのもあるが、気軽に話しかけられる雰囲気ではないので皆、遠巻きにしながら互いを牽制しあっているせいだと藤木は思っている。実際、気軽に佐見と話をするのは副部長の立石やダブルスの中丸、藤木くらいなもので、同じ三年生でも佐見と会話する時にはどこか背筋をピンと伸ばしてる。クラスでも一目置かれていて、敬語こそ使われていないが雰囲気は「主君」である。かといって一人浮いているわけではなくきちんと人間関係を築いているのだからそこが凄いと常々藤木は感心していた。常に男子にかまわれる自分とは大違いだ。藤木は坂道をのぼってくる姿に目を和らげた。佐見はランニングでも何でも最後尾につく。さりげなく部員に目を配っているのだ。


ホントは気持ちが優しいんだよね、佐見は


足を止めてこっちを見ている藤木に気付いた佐見は不思議そうな顔をした。首をかしげ眼鏡を人差し指で押し上げる。藤木はにこっと笑いかけた。


「佐見、一緒にいこ」


藤木の子供っぽい仕種に佐見は苦笑した。明るい髪の美青年は時折ひどく幼い表情をする。


「行くぞ、藤」


中学から一緒の佐見は藤木のことを「藤」と呼ぶ。そんな風に藤木を呼ぶのは佐見だけだ。それが嬉しい。二人は並んで走りはじめた。


好きだなぁ…


切ない想いが藤木の胸に満ちてくる。ちらと横目で見る佐見は相変わらずの仏頂面だ。だがそれは彼が不器用なだけで本当は誰よりも仲間おもいの熱血漢なのを藤木は知っている。藤木はそんな佐見が好きだった。けれどそれは告げられない、告げてはいけない。中学の頃から友人として側にいたからこそ、絶対に知られてはならない恋心だ。


「一緒に走れるのもあと一年なんだよね」


藤木は小さく呟いた。高校を卒業してしまえば進路はそれぞれで接点はなくなる。インターハイ常勝ですでに海外遠征で結果を残している佐見はもしかしたら大学進学ではなくプロの道へ進むかもしれない。そうなればもう完全に縁は切れてしまうだろう。


「…ん?」


小さくもれた藤木の呟きに佐見が顔を向けた。


「…なんでもない」


こうやって佐見の隣を走れるのも…


「藤木~、佐見~、おっそ~い」


前を走る中丸が振り向いて叫んだ。痛みを振払うように藤木は中丸に手を上げ合図を返すといたずらっぽい笑みを佐見に向ける。


「のんびり走ってると朝御飯貰っちゃうよ、佐見部長」

「馬鹿、何言ってる」


高くなった朝日を受けて春の海がきらきらと輝いていた。





「あ、しまった」


朝食のテーブルで藤木が声を上げた。


「何?藤木」

「どーしたんスか、先輩」


中丸と上城が同時に藤木の手元を覗き込む。藤木はジャージのポケットから手を出した。


「…なんスか、それ」


テーブルに置かれたのは、古い木の鞘にはいった小刀だ。


「ほら、上城と堂本が扉壊したでしょ。あの祠でね」

「わ~~~っ、先輩っ」

「なぁにぃっ、何を壊しただとぉっ」


ぬっと顔を突き出してきた顧問の猿渡に上城と堂本は青ざめた。


「あの、いや、そのコイツが」

「てめぇ、ぶつかったのはてめぇだろーがっ」

「お前が押したんだよっ」

「……壊したんだな、お前ら」


ゴツい猿渡の地を這うような声に二人は縮こまる。急いで藤木がとりなした。


「あ、大丈夫です。すぐに扉は嵌め込むことができましたから。でも…」


藤木は眉を寄せた。


「その時、足下に落ちてきたこれ、中に返そうと思っていたのにうっかり持ってきてしまって…」

「ふ~む」


猿渡はテーブルの上の小刀を手に取った。柄の部分を含め長さ二十五センチほどの刀だ。


「脇差しにしては小さすぎるな。実用向きというより神事か何かに使う奴か?」


よくポケットから落ちなかったな、と鞘をはらおうとした時だ。


「いかーーん、抜いたらいかんーっ」


宿のオヤジが血相をかえてとんできた。


「あの祠の刀だろ。それを抜いたら呪われるぞっ」

「「「えええええ~~~っ」」」


食堂の温度が一挙に下がった。







「今をさること八百年前、時の鎌倉殿は源実朝。三浦半島からこの辺りまでは東国の豪族、三浦一族が勢力を誇っていてな、ここらは三浦の傍系、榎本一族の支配する土地よ」


朝食そっちのけで秀峰テニス部員達は宿のオヤジの話に固唾を飲んでいた。


「やはり三浦一族にして源平合戦の英雄、和田義盛とその一族が北条に屈した三浦の本家に裏切られ全滅した悲劇は有名な話」

「おい、和田なんとかってなんだっけか」

「うるせぇ、オレが知るか。だまって聞け、タコ」


こそこそ罵りあう上城と堂本にオヤジがむむ~っと唸った。


「コラ、高校生、日本史の勉強が足らんっ」

「すっすいません」


何故か顧問の猿渡が身を縮める。


「ねーねー、で、その呪いの刀って何なのさー」


しびれを切らした中丸がせっついた。


「だからな、ここら一帯を治めていたその榎本一族ってのは和田の殿様に加勢して滅びたんだよ。三浦本家と北条によってな」


うんうんと真剣な面持ちで頷く高校生達に宿のオヤジは気を良くしたのか声が熱を帯びる。


「あの祠の近くに榎本の館があったらしいんだが、ここいらまで攻め込まれて結局、一族郎党全滅したんだそうだ。で、その小刀はな、榎本の最後の当主が自害した小刀だって昔っから言い伝えられてて」


ごくり、と高校生達が喉を鳴らす。


「呪の小刀ってんで、昔から祠に大事に祭られてたんだよ。祠を建て替えるときだって、粗相のないよう気をつけてな。絶対に刀を抜いちゃいかん、抜いたら呪われるって言い伝えられてたからな。ところが」


オヤジが声を潜めた。


「戦争が終わったばかりの頃、血の気の多い若いのがな、そんな呪いなんて迷信だ、馬鹿馬鹿しい、オレがそれを証明してやる、とかなんとかぬかして、鶏をさばくのにわざわざその小刀を祠の中から取ってきた」


食堂の中はいつしかシンとして、皆真剣に聞き入っている。


「鶏をつぶすとこなんてアンタら学生さんは知らんだろ。都会じゃなぁ、お目にかかることはないからなぁ。肉ってのはきちんと血抜きをしなきゃ臭くなる。まぁ、木の枝に逆さにつるして血抜きするんだよ。その時も、近所の連中が集まってシメた鶏を木に吊るしとったんだそうだ。そこへ若いのがその小刀を持ってきた」


テーブルの上の小刀を指差され、全員がひっと息をつめた。


「皆がやめろと言うのを聞かず、その若いのは鞘をはらった。その刀はキラキラ光を反射するくらい光ってたそうだ。言い伝えがほんとなら八百年間、手入れも何もしていない小刀だ。もし言い伝え通りじゃなくったって少なくとも何十年もの間、ずっと祠の中にあったわけで、普通だったら錆びているはずなんだよ。刀なんてモンは手入れしないと錆びるんだよ。だから 皆、キラキラ光を反射するその小刀に不吉なものを感じたんだな。必死で若いのを止めた。大人しく小刀を祠に戻してこいって。だがそれがいけなかったんだろうなぁ。意地になっちまったらしいよ、その若いのは。引っ込みがつかな くなった。皆臆病だ、とかなんとか言いながら、刀を一振りしたんだそうだ」


オヤジが刀を振る真似をすると、うわっと中丸が藤木の腕にしがみついた。他の部員達も思わず体を引く。


「斬るつもりはなかったらしい。実際のとこ、自分でも薄気味悪く感じたその若いのは、斬る真似だけして刀をおさめるつもりだったらしいんだ。ところが…」


オヤジが息をついだ。全員、硬直している。


「すぱっと切れて鶏の首が落ちた。パッと血が飛び散ったんだそうだ。ぎょっとして皆が刀をみると、若いのの服や手には返り血がついてるっていうのに、その小刀の刃には僅かな血のりすらついていなかったそうだ」


うぃいいいっ、と皆、青ざめる。


「戦後の食糧難だっていうのに、気味悪くてその鶏を食べるやつはいなかったそうだ。そして、小刀を持ち出したその若いのは…」


オヤジはずいっと膝をすすめ、声を落とした。


「一週間後に血を吐いて死んだ…」


ガタガタガターン、とけたたましい音を立てて、上城と堂本が椅子から転げ落ちた。ひい~っと中丸が藤木にしがみつく。わ~、きゃあ~っ、と食堂は悲鳴で大騒ぎだ。


「まぁ、そういうわけだから」


ニヤリ、とオヤジがイタズラッぽい顔をした。


「飯が終わったらその小刀、祠にかえしておくこった。ちゃんと謝ってくりゃ、祟りもないだろうよ。鞘から抜いたわけじゃないしなぁ」


カラカラとオヤジは笑い、なにやら文庫本のようなものをテーブルの上においた。おそるおそる藤木がそれを手に取ってみると『教育委員会監修、郷土の歴史と文化』と銘打ってある。


「ここらの地元史だよ。歴史の勉強勉強」


冗談なのかなんなのか、よくわからないことを言いながら、オヤジは水屋ににひっこんでいった。小刀はまだテーブルの上にある。


「ふ…ふじきぃ~」


中丸が情けない声をあげた。上城と堂本はすっかり青ざめている。


「お…おれら、祟られないっすかね、先輩…」

「…鞘から抜いてはいないし大丈夫だと思うけど…」


さすがに藤木の口元もひきつった。


「先生、朝食終わったらこれ、返しに行ってきてもいいですか?練習時間にはちょっとくいこみますけど、でも…」

「いいい行って来い、ソッコー返して来いっ」


一も二もなく了承された。


一緒に行くという部員達を、練習があるじゃない、と笑っていなして、藤木は小刀をジャージのポケットにいれた。好奇心で「教育委員会監修、郷土の歴史と文 化」も借りてきた。ちょっと分厚い文庫本サイズのその本には、背表紙に穴を開けて黒いヒモがとおしてあり、青インクのボールペンがくくりつけてある。なんだかなぁ…、と藤木はボールペンを本にはさみこんだ。


メモすることでもあるんだろうか、郷土の歴史…


藤木は本を反対側のポケットに突っ込んだ。

宿をでたところに人影があった。白いジャージの上下が門柱にもたれて立っている。


「…佐見?」


佐見国明だった。藤木の心臓がとくんとはねる。


「さみ…練習は…」

「オレも一緒に行く」


それだけ言うと佐見は先に立って歩き始めた。藤木はぽかんと立ったままだ。佐見が振り向いた。


「行くぞ、藤」


はっと藤木は慌てて佐見の後をおった。横に並んで歩く。ちらと窺い見る佐見の顔はいつもと変わらない。


ちょっとは心配してくれたのかな…


藤木は緩みそうになる口元を押さえた。





海からの風は肌寒かったが陽射しはすっかり春で、道ばたに植えられた菜の花の蕾もほころんでいた。並んで歩きながら、藤木は借りてきた本を開いていた。


「えーっと、鎌倉時代初期、この辺りは東国の豪族、三浦一族の傍流、榎本一族が支配していた。榎本一族は水軍をつかさどっており…うわ、鎌倉時代だって。あの祠って鎌倉時代からあるってわけ?」

「定期的に建て替えていたと言っていたな」

「上の祠は建て替えられてるけど基礎の石積み部分は鎌倉時代のものなんだって」


佐見が本を覗き込んできた。触れ合いそうになった頬に藤木は慌てた。乱れた動悸を誤魔化すように本をめくると、家系図らしきものが書いてある。


「あ、佐見、見て、君と同じ名前、国明ってほら、榎本国明だって」

「………」


佐見が嫌そうに顔をしかめたのが可笑しくて藤木は肩を揺らした。実は佐見が「国明」という名をあまり好きではないというのを知っている。祖父が名付けたそうだが時代がかった名前で嫌なのだそうだ。だから藤木は時々そのことをからかう。


「何だっけ、あの頃の格好って大河ドラマとかでやってる、狩衣?あれ、結構佐見、似合うかも?うわ、想像しちゃった」

「テニスウェアだろうが狩衣だろうがいい男は何でも似合うもんだ」

「自分で言ってるよ、国明殿は」


本人が自覚しているのかどうか、普段仏頂面であまりしゃべらない佐見は藤木と二人きりの時には案外とくだけたことを言う。自分には心を許してくれている、そう思えて藤木は嬉しかった。だがそれは、自分の佐見への想いを封印しなければならないということなのだ。友人としての信頼を裏切るわけにはいかない。そう思い知る度に甘い痺れと痛みが藤木 の心を引き裂く。

高い空でピーと鳶が鳴いた。潮騒が耳をなでる。穏やかな春の陽をうけて二人はゆっくりと歩いていた。


練習があるのに…


藤木は佐見を横目でうかがう。佐見は急ぐふうもない。二人きりで歩く、そのささやかな幸せを藤木は噛みしめた。


ずっとこの道が続けばいいのに…


楠の巨木がみえてきた。もう祠まですぐだ。


「あ~、もう片道おしまい。残念、せっかく佐見と二人きりのデートなのにね」


もったいないな、と本音を軽口に紛らわせ藤木は笑った。ふと、佐見の足が止まる。


「藤…」


固い声だ。藤木は戸惑った。


「佐見?」


首をかしげて佐見を下から覗き込もうとする。佐見が藤木の腕を掴んだ。


「藤、話が…」


引き寄せられた拍子に、藤木のポケットから小刀が滑り落ちた。地面に落ちて小刀が跳ね鞘がずれる。


「わ~っ」


藤木が焦って手をのばした。


キン


石に当たったのか澄んだ音が響き鞘がはねとぶ。


「さっ佐見、鞘がっ」


藤木が柄を掴んだ時には小刀はすでに抜き身となっていた。


「抜け…たね…」

「…そ…そうだな…」


二人は顔を見合わせた。小刀の刃がキラリと光をはなつ。古ぼけた鞘や柄に不釣り合いな程、その刃には一点の曇りもない。


「た…祟られるかな…僕達…」

「…そんなわけないだろう」


楠の葉の合間から陽が射した。小刀の刃の光が増す。


「え…これって…」


陽射しの反射ではない。小刀の刃自体が光を放っているのだ。 突然、目も眩むような閃光が走った。衝撃が藤木の体をおそう。


「佐見っ」


自分に手を伸ばす佐見が見える。だがそれは真っ白い光に掻き消え、藤木の意識は闇に沈んだ。






波の音がする。頬に当たるざらざらとした感触、目をあけるとそれは砂だった。


「いった~」


頭をさすりながら藤木は起き上がった。顔についた砂が気持ち悪い。


あれ…何だっけ…


手の平で顔の砂をはたく。


なんで僕…


どうやら自分は気を失っていたらしい。まだ少しクラクラする。


えっと、佐見と祠へ歩いてて、佐見が腕つかんでくるからびっくりして、佐見、話があるって真面目な顔するから、あ、それっていつものことか、でも佐見があんなに引っ張るから鞘がぬけちゃって、鞘が…


「鞘、抜けたーっ」


思わず叫んだ藤木は自分の手を見た。しっかりと「呪いの小刀」を握っている、しかも抜き身で。


「やっぱり鞘、抜けてるよ…」


そういえば気が遠くなる前、小刀から妙な光が出たんだった。


「た…祟り?」


それからハタと気付いた。佐見はどうしただろう。


「佐見、佐見?」


藤木は周りを見回した。誰もいない。


「佐見っ」


藤木は独り、見知らぬ砂浜にいた。大きな楠も祠もない。人家も道路もなくただ松林が続いている。


「何?え?…佐見?佐見」


佐見の名を呼ぶが返事はない。辺りに響くのは波の音だけだ。見知らぬ砂浜に自分は独り、どっと不安が押し寄せてきた。


「佐見、ねぇ佐見、どこ?佐見ーっ」


よろけながら藤木は立ち上がり佐見を探した。砂浜に人影はない。延々と続く松林、いくら佐見の名を呼んでも聞こえるのは林を抜ける風の音と波の音ばかり。


「どこだよ、佐見。っつかここ、どこ…」


泣きそうになりながら藤木は松の根元に座り込んだ。松林の切れたところに祠がある。その先はただの草原だ。


「ここ、どこさ…」


いったい何があったのだろう。何故気を失ったのかもわからないのに、目覚めると全く知らない場所にいる。


もしかして誘拐…?


自分と佐見は誰かに連れ去られたのだろうか。そして自分だけ置き去りにされて佐見が人質になっているとか。

ぐるぐると嫌な想像ばかりがわいてきて胸が潰れそうになる。ぶんぶんと藤木は頭を振った。理屈にあわない。馬鹿な考えだ。


でも…


ごそり、とポケットの中身に手がふれた。


「あっ」


スマホをジャージの内ポケットに入れていたのだ。そういえば、宿から借りてきた本の裏表紙に住所と電話番号のスタンプが押してあった。 連絡がとれる。藤木は本を膝にのせると裏表紙を見ながら番号をおした。


「…え?」


再ダイヤルしてみる。


「…何…?」


スマホからは何の音もしなかった。藤木は登録してある番号にかけてみる。結果は同じだった。どこへかけてもつながらないどころか全くスマホから音がしない。


「っつか、圏外ーーっ」


画面右上のアンテナがない。一本もたってない。


「圏外って、マジ…」


山の中じゃあるまいし、圏外っていったいここはどこなのだ。


「こ…壊れたわけじゃないよね…」


電源は入る。待受け画面には3月29日9:23がちゃんと表示された。バッテリー残量表示がフルなのにちょっと安心する。


「って、ええ?9時23分ーっ?」


朝食が終わってゆっくりブラブラ歩いていたから祠についたのは9時20分くらいのはずだ。ということは気を失ってからほとんど時間はたっていない。なのに何故自分は見知らぬ砂浜に一人ぼっちでいるのだ。しかも圏外。

混乱しながらも藤木はスマホをあれこれいじった。アドレス帳も開くしカレンダーや設定画面にも異常はない。だがネットに繋がらない。当然だがスマホゲームを立ち上げてもセーブデータを読み込まない。そしてなにより電話をかけられない。 藤木は途方に暮れた。佐見がいない、電話はかけられない、ネットにも繋がらない。もう一度周囲を見回した。全く人家は見当たらない。


「あ、そうだ、地図、この本に地図がのってたはず」


電話番号をみるために膝にのせていた本を藤木は本をめくった。ここがどこかはわからないが、地図からなら圏外になりそうな地域がわかるかもしれない。せめて地形がわかれば…


「鎌倉時代の衣服と住居、じゃなくて地図地図…あったっ」


藤木は本を掴んで身を乗り出した。


「周辺地図、鎌倉時代初期…」


がくーっ、と藤木は肩を落とす。 そうだった、この本は「郷土の歴史と文化」だった。


「現在の地形との比較図くらいのせてよ…」


ったく、教育委員会、ツメが甘いよ、役立たず、と見当違いな八つ当たりをつぶやく。もし現在の地図が載っていたとしても、地図読みが得意とかサバイバル知識が豊富というわけではない藤木に現在位置を割り出せるかといえば甚だ心もとないのだが、なかばパニックをおこしている藤木はそのことに気付いていない。

しかたなく、しかし多少の希望を持って藤木は鎌倉時代の地図をながめた。


「この周辺の地形はほとんどかわっていません。海神を祭っていた榎本一族は館の近くに祠を建て…え~、海神の祠ってあのボロ祠のこと?」


海神が聞けば祟りそうな暴言を吐きながら藤木は顔をあげた。目の前にも祠がある。しかしそれは留め金の細工も見事な、白木造りのなかなかに立派なもので、小刀を拾った楠の根元の祠とは比べ物にならない。第一この白木造りの祠の周囲は草原で、楠の大木も道路もないではないか。やはりこれは本に書いてある『榎本一族の祠』ではないだろう。 藤木は居ても立ってもいられなくなった。とにかく誰か通行人でも何でもつかまえるか、人家を見つけて警察に連絡してもらうしかない。自分達に何が起こったのか、姿の見えない佐見のことも心配だ。 藤木は立ち上がると白木の祠の正面まで歩いた。祠が立派で手入れされているということは、誰かがここへマメに通っているということだ。その証拠に草むらに細く道 らしき筋がついている。祠へお参りにくるための小道だろうと見当をつけそれをたどろうとした、その時、ドドッドドッっと地面が鳴った。


「ななな何っ」


音のするほ うに顔を上げた藤木はそのままあんぐりと口を開けて固まった。やってきたのは若い男だった。正確には若い男が馬を駆ってやってきた。茶色い、栗毛の馬だ。騎乗している若者は 歴史資料集でみかける絵巻物のような衣装を身につけている。鎌倉時代の武士、とかなんとかいう資料だ。思わず藤木は手元の本を見た。丁度鎌倉時代の武士の服装、とかいう図解のページだ。


「おりえぼし…あの頭にかぶってるの、折烏帽子っていうのか」


人間、びっくりしすぎると妙に冷静にどうでもいいことを確かめるものらしい。藤木は図解と目の前の若者を交互に見比べた。若者が来ているのは直垂というらしい。くすんだ緑地によくわからないが黒で模様が染め抜いてある。


「直垂と狩衣、違いわっかんなーい」


袴をはき、頭に折烏帽子、腰に太刀まではいている。年の頃は藤木と同じか少し上のようだが、眼光が異様に鋭い。若者は藤木の前まで馬をすすめじっと見下ろしてきた。


「えっと、あのぅ」


おそらく何かの撮影か祭りでもあるのだろう。とにかく人に会えたのはラッキーだ。ほっとした藤木は馬上の若者に話しかけた。


「すみません。ちょっと電話お借りしたいんですけど、なんかここ、圏外でスマホ使えなくて。どこか電話できるとことか、それか交番とかありませんか」


若者は答えない。じっと藤木を見つめている。


なんだよ、返事くらいしろよ


黙ったままじろじろ見られて正直気分はよくない。だが藤木はもう一度繰り返した。


「あの、ちょっと道に迷っちゃって、ここ、どこですか。警察とか交番とかあれば助かるんですけど、一緒にいた友達がみあたらなくて…」


若者が口を開いて何か言った。


はい?


何と言ったのかわからない。


日本語?っつかすごい訛り


もう一度若者が口を開いた。やはりわからない。なんだか「ぐぁ」とか「にぁ」とか「ん」だとかがやたらと耳障りな訛りだ。


「え…えーと、あの~」


神奈川県にこんな訛りってあったっけ?


若者が馬から降りて近づいてきた。藤木の手を指差し何やら言っている。


「え?こ…これ?これのこと?」


藤木は本と一緒に小刀を握ったままだったことを思い出した。鞘が見当たらなかったので仕方なく持っていたのだが、確かに抜き身の刃物を持ち歩いていたら思いっきり怪しい。


「あ、違うんです。これは祠に返そうとしたら落として鞘が抜けてしまって、それで持ってただけで」


状況を説明しようとした藤木は思わず若者の顔をうかがった。訛っているというよりこれはもう…


「その、僕の言ってること、わかります…?」


小首をかしげて上目遣いでおずおずと尋ねる。


っつか外国人なわけ?アジアのどこかの国の人なわけ?


最近、海外からの観光客や留学生が日本の着物とか歴史衣装を着るイベントがはやっている。この若者もそういう類なのかもしれない。だいたい、神奈川であんな訛りのきつい言葉、聞いたことが無い。藤木は困り果てた。せっかく人に会えたというのに言葉が通じないなんて。英語なら通じるだろうか。一応日常会話的なレベルならなんとかなるし試してみよう、そう口を開こうとすると、若者の目が和らいだ。口元にふっと笑みを浮かべる。


あれ…


藤木はマジマジと若者の顔を見た。若者もじっと藤木を見返す。端正な面ざしに意志の強そうな切れ長の目、折烏帽子にまとめられているが、少しくせのある漆黒の髪の毛…


「さっ佐見ーっ」


藤木は思わず叫んでいた。それはまさしく佐見国明だった。


「佐見、眼鏡してないからわかんなかったじゃない。しかもその格好、何、どうしたの。何やってんの佐見」


藤木は佐見の腕を掴んで揺さぶった。とうの佐見は驚いたように目を見開いている。


「もう、からかわないでよ。心配したんだからね。いったい何がどうしたのかちゃんと説明してよ。だいたい、僕一人置いてきぼりってひどいじゃない」


ほっとするやらハラがたつやらで藤木が捲し立てていると、突然佐見がハッと周りを見回した。藤木もつられて辺りを見る。草むらから数人の男達が現れた。それを見た藤木はまたあんぐりと口を開けた。


なっなんで鎧着てんのっ


しかも汚い。大河ドラマの野盗だってもう少しマシな格好をしている。男達は下卑た笑いを浮かべると、藤木を指差して何やらわめいた。


げっ、僕を見てる?しかも…


「く…臭い…」


三メートル程離れているにもかかわらず、男達が動くと体臭が漂ってくる。


これってお風呂に入ってない臭いだよ…


藤木はたまらず鼻を押さえた。佐見が何やら大声で呼ばわった。そして藤木を背に庇うように立つ。藤木はすっかり混乱した。


「ね…ねぇ、佐見、いったい何なの?君、この人達知ってるの?って、君も結構汗臭いんだけど…」


間の抜けたことを口走っていると男達が刀を抜いた。佐見もすらりと抜刀する。


「佐見っ」


思わず悲鳴のような声をあげた。刀を抜くとか何なのだ。しかもギラリと光を反射するそれはとてもイミテーションには見えない。佐見が祠の影に隠れろというように藤木に向かって顎をしゃくった。それと同時に男達が切り掛かってくる。佐見の太刀が男の首をなぎはらった。


えっ…


藤木は息を飲んだ。


斬…斬れてる…


本当に男は斬られていた。首から鮮血が噴き出し、藤木の足下に目を剥いた男の首が転がる。映画の特撮でもマジックショーでもない、本当に人の首が落ちた。そして殺したのは佐見国明、藤木の好きな同級生。驚愕のあまり声もでなかった。がたがたと震えながら目の前で起こっていることをただ眺める。二人目の男が鎧の隙間に刃を突き立てられて悶絶していた。佐見が鮮やかな手並みで太刀を引き抜き、怯んだ三人目の男の太ももを切り落とす。悲鳴と怒号、血煙があがる。


これは夢、悪い夢だ


藤木は恐怖で金縛りにあったように突っ立っていた。足下に転がっているのは本当の死体、地面にシミをつくっているのは本物の血、鉄臭い匂いが鼻をつく。そして殺したのは佐見、もうワケがわからない。がくがくと膝が震える。 佐見が四人目を切り伏せた時、最後の男が藤木のほうへ向きを変えた。男の歪んだ顔が眼前にせまる。蒼白になったまま藤木は動くことができない。男が刀を振り上げた。


殺されるっ


ひっと藤木が息をつめるのと、男が断末魔の絶叫をあげるのは同時だった。背を割られた男が崩れ折れる。血しぶきの向こうにすさまじい殺気をまとった佐見が立っていた。 むせるような血臭、血塗れの太刀を振る佐見、足下の血溜り。藤木の意識はそこで途切れた。




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