聖女の祈り石

矢口慧

第1話

 聖女が一つ、パンを盗んだ。

 救国の英雄が殺され、骸が火にかけられた夜のことだった。

 餓えていたのではない。誰かに施すのでもない。盗む為だけに、盗んだ。


 彼と、同じ地獄に落ちる為に。


 罪人は、骨まで灰にされる。虫や草、獣の糧になってしまえば、その穢れた魂が地に蔓延って魔物になると信じられていた。

 宿るものを失った魂は、深い地の底にある地獄に落ちて、永劫、もがき苦しむことになる。

 どんなに小さな罪でも、犯せば必ず地獄に落ちる。

 それを神に祈り、赦しを請い、浄めることが出来るのは、一度も罪を犯したことのない聖人のみ。それが彼等の信じる教会の教えだ。

 聖女は教えに従って、生まれてから何一つ、罪と呼ばれる罪を犯したことはなかった。聖女の代わりに、従者がその責を負った。

 その頃、魔王と魔族の軍勢が大陸を席巻し、神の威にすら翳りを生じさせるほどに世が荒んでいた。

 信仰は人の心も命も守らない。教会に引き取られた時、未だ少年だった従者は、聖女を守る為に盗み、奪い、殺し、青年となる頃に、聖女と共に魔王を斃して英雄となった。

 そして昨夜、殺された。

 早朝、死体は広場に引き出され、一日をかけて焼き尽くされた。

 勝利の後、救国の英雄は王都に入り、聖女は教会に戻り、互いに国を見守りながら生きて行く筈だった。

 彼の名誉の為、公表は出来ない大罪によって、王子の手で処刑されたのだと言う。

 求婚を受けていたのにと姫は嘆き、その悲恋は人の口を通じて瞬く間に広がった。

 英雄は、姫の求婚を断って命を落としたに違いない、口さがない者たちの噂の形で、聖女がその死を知ったのは全てが終わった夕刻のことだ。

 聖女の祈りならば、どんな罪でも雪げた筈だ、その機会を与えることすらしないとは、英雄の魂が天に昇っては拙い理由があるに違いない。誰かがそう言った。

 英雄の為に、祈ることすら出来なかった。

 祈りは罪を祓い、魂を神の御許へと導く。

 聖女の祈りは殊更強く、あらゆる病や傷を癒し、死の恐怖さえも取り除くことが出来た。

 正確には、彼女は生来、自身の如何なる病も傷も瞬時に癒す力を具えていた。他者のそれを我が身に移し、癒す奇跡を行えた。

 英雄が魔王と対峙した際、死すらも阻んだ彼女の力と、あらゆる苦痛に耐え抜いた英雄の信念とが、勝利を導いたというのに、最期に彼を救えなかった。

 聖女は、生まれて初めて、一人で教会の外に出た。

 巡礼の衣装を被って広場に足を向け、何も残されていない刑場を確かめてから貧民窟に赴き、施しの為のパンを一つ、懐に入れたのだ。

 貧しい者の幾日ぶりかの食事かも知れない、幼い子供の命を繋いだかもしれないパンを、祈りに組んだ両手に握りしめ、聖女は神に祈る。

 他者の為に、祈り続けて続けて来た聖女は、生まれて初めて、己の為に祈った。


――どうか、どうか私の罪を、決してお赦しにならないで下さい。


 生まれて初めて、赦しを請わない祈りだった。


――どうか、彼と同じ場所へとお送りください。


 何故、そうしようと思ったのか、聖女にも解らない。ただ、もう二度と、誰かの為に祈りたくはない、そう感じただけだ。もう、己の為に。己の為だけに。

 聖女はその日から、祈り続けた。

 彼女の罪の証であるパンは聖女の祈りを受けて手の中で乾涸び、石のように固くなっていった。



 ほどなく。国は、他国の侵略を受けた。

 未だ魔物の残党蔓延る広大な土地の権利を、大国が主張を始めたのだ。

 自国の復興を優先し、ほとんど手つかずで放置された大地に業を煮やし、魔王を倒した英雄の居ない小国など怖るるに足らずと見て、いつ、どの国が兵を挙げてもおかしくはなかった。

 敵国は大きく、軍は何倍もの規模を誇る。抗することすら愚かに思えた。命さえあれば良いと、大国に下ろうとする空気を変えたのは、聖女だった。

 聖女は言った。

 魔王を滅した神の奇跡は、何度でもこの国を守るでしょう。この国には、まだ私が居ます。

 そう、聖女は、奇跡の技を施した。王子に、指揮官に、戦に出るあらゆる者たちに、彼女の祝福を与えた。

 戦端が開けば、一日で踏み潰されるような軍だが、聖女の加護に、勝利を疑うものはいなかった。

 国民は、全員、王都へと避難した。

 まるで恭順に迎え入れるかのように小競り合いさえない進軍、寸前まで大国の油断を誘ってから攻勢を開始するように指示をして、聖女は塔に籠もった。

 戦はたった一度、たった一日で終わった。小国の軍に死者は一人も出なかった。

 矢で射ろうとも、剣で切り裂こうとも、投石に首が折れ、熱した油を浴びせようと、瞬く間に傷は塞がり、何度でも立ち上がってくる。

 神の奇跡を後ろ盾に傷を負うことも死ぬこともなく、意気高揚と立ち向かってくる兵士の姿は元より、神の怒りを被ることを何よりも怖れた敵国の軍は、総崩れとなって敗走して行った。

 翌日。聖女の籠もる塔の扉が開かれた。


 中には、誰も、いなかった。

 石が、一つだけ落ちていた。


 床も壁も天井も、飛散して赤い、聖女だったもので汚れ、肉も骨も、形あるものとしては、欠片たりとて残っていなかった。

 千の矢を受け、万の刃に裂かれ、投石に砕かれ、油に焼かれ、数百の兵士の死を傷を一時に、一身に受け、何ものの糧になることもなく、たった一つの罪だけ遺して、彼女は骸も残さず磨り潰された。

 聖女は。真摯な祈りの末、生きながらにして神に召されたのだという触れが国中を走り、戦勝の歓喜に一滴の悲しみを滴らせた。



 死なない軍に恐れを生して、小国を侵略するものはその後、現れなかった。

 不滅の王国と渾名された小国は、そのまま栄華を極めるかに思えた。

 しかし。世継ぎの王子は狩りの最中に落馬して首を折り、同じ神を崇める隣国に嫁いだ姫は、お産の床がそのまま死の床となった。

 姫の遺した息子が呼び戻され、失意の老王の地位を継いだ。

 幼王の宰相は嫁ぎ先から従ってきた臣下が務め、隣国の指針に倣った政に、王は操り人形となった。

 そんな風に、小国は、緩やかに時代に呑まれて消えて行った。

 今も。

 嘗て彼の国であったとされる場所に建つ聖堂には、『聖女の祈り石』が、黄金の装飾の施された玻璃の円筒に納められている。

 握りしめた五指の跡が残る、灰色で小さな、ただの石だそうだ。

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聖女の祈り石 矢口慧 @hari-hokuto

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