工場の建屋から漏れる光がうっとうしい。

 駐車場までの道のりを、香織は全力で走った。うなじで切り揃えられた髪が揺れ、息も激しく乱れている。

 夜の帳が下りても、昼間の熱気は残っていた。香織の額に汗が吹き出す。だが、それをぬぐう余裕さえない。

 さらに、地の底からもくもくと湧き上がってくる青臭さが、香織の理性を奪い取ろうとしていた。かなり強い刺激臭だ。汗の流れ込んだ涙目と相俟って、あらゆるものが滲んで見える。

 そのおぼろげな視界に駐車場のフェンスが映った。あと一息というところだ。

 しかし――。

「ひっ!」

 香織は声を上げ、前屈みになりながら足を止めた。

 駐車場に一番近い建屋から、作業服の男たちがぞろぞろと歩み出てきたのだ。

 全員の目が、うつろに虚空を見つめていた。異口同音に何かをつぶやきながら、香織に向かって歩いてくる。力なく、だらだらとした歩調で……。

 男たちが道幅一杯に広がっているので、香織にはそれを突破する手立てがない。考えるまでもなく身を翻し、来た道を戻るように走った。

 幸いにも事務所方面に人影は見られなかった。車に乗ることは諦めるべきだろう。事務所の先の正門から脱出するしかない。

 ふと思いつき、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「誰か……誰でもいいから!」

 震える指でアドレスを開こうとした。しかし、焦るあまりに手を滑らせ、スマートフォンを道端に飛ばしてしまう。

 暗がりに呆然と立っていた従業員が、そのスマートフォンを踏み潰した。

 しかも香織の背後には、無表情の従業員たちが容赦なく押し迫っている。

「きゃあああ!」

 叫びながら、再び走り出した。

 ローヒールの靴が、アスファルトの上で単調なリズムを鳴らした。だが、乱れた呼吸はそれに同調できないほど苦しい独唱だった。

 ――お願い、もう誰も出てこないで!

 その切なる思いは、善良なる神には届かなかったようだ。

 事務所の外に、いくつもの人影が立ち塞がった。さらに、左右の建屋からも、残業や夜勤で忙しいはずの従業員たちが次々と出てくる。

 香織は包囲されていた。逃げ道はない。

 うつろな視線がぐるりと輪を描き、態勢を整えた。地の底から放たれる臭気が、獲物を襲えとざわめく。

 香織は一人一人の顔を見た。玉木や小池、青山の顔もあった。皆、関根と同じように、目の焦点が合っていない。

 なぜ自分が関根の呪いを受けなければならないのか、と香織は自問する。あの本を読んでいるところを見てしまったからか、それとも、関根の死体を発見したからか。もしかしたら、においを嗅いでしまったせいかもしれない。関根の失禁、地の底からの臭気――。

 香織の鼓動は、胸を内側から突き破るかのごとく激しく鳴った。理由を考えている余地は、もうない。自分を囲繞する体臭の輪が次第に小さくなってきているのだ。

「やめてください。工場長……青山さん。冗談……ですよね……」

 無駄と知りつつ、消え入るような声で哀訴した。無表情な狩人たちを見渡すが、誰も答えてはくれない。

 両目を閉じた。こうすれば、少なくとも現実を見ないで済む。

 しかし彼らの体臭は、隙間なく自分を取り囲んでいた。その源が、手を伸ばせば届く距離まで迫っている。

「皆さん、違うでしょう!」

 突然の声に香織は目を開き、自分を取り囲む従業員たちを見渡した。声に反応したのか、群れの動きが止まっている。

「その人は違いますよ」

 なじみのある声は、山野辺士郎のものに相違ない。

「士郎くん?」

 香織は山野辺の姿を捜す。

「まさか香織ちゃんが残業していたとはね」

 従業員たちの輪の外――スクラップ置き場の前に、山野辺は立っていた。

「士郎くん……これはどういうこと?」

 香織の声が、山野辺との間に立つ従業員たちを左右に分ける。

 作業服姿の山野辺が、まっすぐに香織を見ていた。香織の知らない冷めた視線だ。

「君がいたのは想定外だったけど、この場に居合わせて正常でいられるなんて、さらにびっくりだね。だから、みんな……いや、彼は勘違いをしたのか」

 平然とした表情の山野辺を、香織は凝視した。

「何を言っているの?」

「説明してあげよう。君が理解してくれると嬉しいね」

 山野辺はそう言うと、スクラップ置き場の端に立ててある巨大なドラム缶の前に移動した。そして、ドアをノックするように、ドラム缶の側面を軽く叩く。

「いい加減に出てきたらどうです?」

 ドラム缶に声をかける山野辺を、香織は懐疑の目で見た。

 だが、香織の意表を突いて、ドラム缶の陰から一人の男がおずおずと立ち上がる。

「有野部長――」

 香織は自分の上司の姿を認めた。

「自分に対する周りの異変に気づいて、逃げ出そうとしたんだね」

 作業帽を脱ぎ捨てた山野辺が、有野に冷淡な視線を浴びせた。

 青ざめた顔で周囲をせわしなく見ている有野は、どうやら逃げ道を探しているらしい。

「ぼくはね、関根さんのかたきを討とうと思ったんだよ」

 香織を見つめる山野辺が言った。

「じゃあこれは……全部あなたがやったことなの?」

 自分を取り囲む従業員たちを見ながら、香織は尋ねた。

「間接的に――かな」

 山野辺は肩をすくめた。

「関根さんの呪いじゃないの? だって、関根さん、呪いの本とかを読んでいたのよ」

「呪いの? ああ、あれね。あれはぼくの本だよ。関根さん、見たがっていたから貸してあげたけど、仕事中に読んではまずかったな。それに、あんなの読めるわけないのに」

「士郎くんの?」

 香織は愕然とした。彼女の中にあった山野辺の肖像が歪み始める。

「そう。呪文や儀式が必要だったんだ。あの日、資材置き場で儀式をこっそり執りおこなったときは、香織ちゃんに知られた、と思ってびっくりしたよ。本は持ってこなくて正解だったな。呪文を覚えておいてよかった」

「あの日……」

 ざわめく臭気を初めて感じ取った、あの昼休みを思い出した。

「ここにいる人たちは、多かれ少なかれ有野部長に恨みを抱いている。大勢の仲間たちの恨みを、有野部長に知ってほしくてね。そのために、魔道書の呪文を使って彼を呼ぶしかなかったんだ。ぼくのふる里で、彼は長い眠りについていた。その彼の協力が必要だったわけさ」

「彼?」

 香織は自分の足元を一瞥した。

「気づいていたのかい?」

 わずかに眉をひそめた山野辺が、首を傾げる。

「みんなその彼に操られている、っていうの? 定時で帰った弥生さんや……まさか、昼間の事故も?」

「そうだよ。彼がみんなの脳に探りを入れていたんだ。調子の悪くなった人もいたみたいだね」

 したり顔で、山野辺は香織を見た。

「だって、どうしてわたしだけが? 有野部長のことは、みんなと同じように感じていたのに」

 震えながら山野辺に問いかけた。

 有野はその隙を見計らっていたようだ。山野辺の背後に回り込んで、スクラップ置き場から逃げ出した。

 山野辺が「無駄なのに」とつぶやいたとき、地面が大きく揺れた。香織は足がもつれて転びそうになる。

 駐車場へと走る有野の目の前――資材置き場の建屋が、大音響とともに崩れ落ちた。地面にへたり込んだ有野は直撃を免れたものの、その周囲に巨大な破片が音を立てて転がった。粉塵が舞い上がり、有野の姿がかすむ。

 続けざまに、何かが爆発する音が聞こえた。衝撃が破壊を免れた建屋の窓ガラスを粉々に砕く。

 香織と従業員たちも、アスファルトの上に倒された。しかし、従業員たちは頭や腕を血に染めながら、平然と立ち上がった。

「くっ――」

 香織は肩の痛みに顔をしかめ、その場で上半身を起こした。

 外灯や建屋の照明が一斉に消えた。ところどころでスパークが飛び散り、立ち込める煙と埃とをフラッシュバックのように浮かび上がらせる。崩れ落ちた資材置き場の跡に、火の手が上がっていた。

 そして、小山のごとく巨大な影が、瓦礫を押し分けて地上に這い出てきた。

「いっ、いっ――」

 有野はへたり込んだままあとずさる。眼鏡を無くしていたが、それでも、蠢く巨大な怪物を認識しているようだった。

「あれが、異形の種族……」

 香織は臭気の根源とようやく対面できた。

 それは、芋虫のような生物だった。しかも、乗用車を押し潰せるほどの大きさだ。ゴム状の黒くて長い胴体はいくつもの節で区切られ、しなやかにくねっている。頭のあるべき部分には無数の触手がのたくり、イカのようにも見えた。

 醜悪な怪物は、強烈な臭気を放つとともに、空気が漏れるような不可思議な音を立てていた。音というよりは声であろう。言葉を発せられそうな器官は見当たらないが、ひそひそと囁いているのである。

「け……はいいえ……えぷ……んぐふ……ふる・ふうる……ぐはーん……ふたぐん……」

 それは事務所内で聞いた、あのつぶやきと同じ言葉だった。人を嘲るような抑揚のない調子で、詠唱が続く。

「有野部長、みんなの恨みを受けてやってください!」

 山野辺が声を上げると、従業員たちが有野に向かって歩き出した。

 立ち上がれないでいる有野は、蒼白の表情で振り返った。蠅を追い払うように、何度も大きく両手を振る。

「来るな……あっちへ行け! おい山野辺くん、なんとかしろ! あの化け物は何かのトリックか、え? お、おい!」

 有野は怪物と従業員たちとを交互に見ながら、身もだえするばかりだ。

「あなたは……みんなから恨まれていると自覚したことがありますか? ここで働く従業員たちから慕われている、だなんて、誰かに自慢していましたよね? 本当にそう思っていたのですか? そして、一人寂しく死んでいった関根さんに……関根さんに……何か言うことはありませんか? せ、関根さんに――」

 山野辺が声を詰まらせる。

「士郎くん」

 香織は見た。山野辺の頬に伝わる涙を。

「香織ちゃん……ぼくはね、関根さんを愛していたんだ。愛し合っていたんだよ」

「え――」

 言葉を失った。士郎に対する自分の思いをどこに収めればよいのか、わからない。

「病気になった関根さんを、なんとか支えようと必死だったんだよ。そして、いつしか関根さんとぼくは、職場の仲間以上の固い絆で結ばれた。ぼくたちは約束したんだ。二人で恨みを晴らそう……って。だけど、あと少しで準備が整いそうだったのに……そうすれば彼が来てくれるのに……みんな、あいつのせいで……」

 山野辺の表情が怒りに歪んだ。その冷たい横顔に、香織は慄然とする。

 ――士郎くんも普通の人とは違うんだ。

 それは脅威であり、また共感でもあった。

「さあみなさん、宴を楽しみましょう。無礼講です。有野部長が主役ですよ!」

 乾杯の音頭を取るように、山野辺が右手を上げた。

 誰も宴の席から離れられない。

 血まみれの従業員たちは、生ける屍そのものだった。その亡者のごとき軍勢を、異形の種族が触手でせき立てる。

 二人の従業員が、有野を羽交い締めにした。そして、ほかの何本もの手が、動きを封じられた犠牲者の体に伸びる。まるで無数の触手のように。

「何をするんだ……やめろ! 山野辺! おれを……誰だと思っているんだ! お、おれは、部長だぞ!」

 有野が絶叫する。

 紅蓮の炎に照らし出される舞台は、誰もが待ち望んでいた狂宴の幕開けを告げていた。

 強烈な臭気がざわめく。

 有野の作業服が強引に剝ぎ取られ、瞬く間に上半身は裸となった。部長の権威も尊厳もない。まさしく無礼講だ。

「いい……ひっひ……ひっひ……」

 有野は生きたまま腹を裂かれた。ぬらぬらとしたピンクの腸が引きずり出される。鮮血が飛び散り、炎に照らされたアスファルトをさらに赤く染めた。

 血と生肉のにおいが立ち込める。

「さあ、見てごらん」

 山野辺が香織に手を差し伸べた。

 見なくても、においだけでわかった。しかしそれは口にしない。山野辺の手に触れたかったのだ。

「士郎くん」

 山野辺に手を取られて、香織はその傍らに立つ。

 初めて触れた山野辺の手は、氷のように冷たかった。

 次々と引きずり出される自分の臓物を眺めながら、有野が笑っている。だがその顔さえ引き裂かれ、眼球もえぐり出された。もう、彼にはこの宴を最後まで見届けられない。せめて香織なみの嗅覚があれば、宴の芳香くらいは楽しめただろう。

 ふと、香織の中で何かが壊れた。

「においよ……においを感じたの。あの本のにおいが、わたしの嗅覚を解放してくれたの。だから、彼が来るのを、においで感じられたのよ。そして、やっと今……」

 言いながら、山野辺のにおいを感じていた。何も迷う必要はない。山野辺と同じ世界にいるのだから。

「におい……それで、あらかじめ精神的に身構えていられたんだね。彼の支配下に入らなかったわけだ。でも君は、新しい世界を感じることができるんだ。ようこそ、こちら側の世界へ!」

 香織の手を握りしめたまま、山野辺は微笑んだ。

 決して無機物ではない血肉のにおいに満たされて、香織は目を見開く。

「このにおいは……なんて素晴らしいのかしら。こんなの、初めてよ!」

 香織の防壁は解放されていた。

 幸福な宴の上に、ざわめく触手が覆いかぶさる。

                                   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼方からの臭気 岬士郎 @sironoji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ