第十四節 かけがえのない時間 前

 翌日、水曜日。授業が終わった後、レグルスはマルコと話しながら、練習棟へと向かった。


「で、ロイ先輩に手紙を書いたってわけか」

「うん」


 レグルスはグリーゼから聞いた人物解釈の話を文章にまとめ、ロイに渡すことにした。


「口で言ってうまく伝わらなかったら嫌だし」

「だな。で、問題は、カスのほうか」

「カ、カスって」

「最初にカスって言ったのはシュルマ先輩だろ」

「そうだけどさ……」


 レグルスにも、それがフランツを指しているのだとわかってしまうのが悲しいところであった。




 今日の練習を行うレッスンルームに着くと、意外にもイレーナ以外の三人が揃っていた。集合時刻まではあと五分ある。


「あ、あの、ロイ先輩。これ……今すぐ読んでもらってもいいですか?」


 レグルスが懐から封筒を出し、ロイに手渡すと、ロイはなんとも複雑な表情を浮かべた。


「読むのは構わないが、少年愛に興味はないぞ」

「ぶっ」


 噴き出したのはマルコだ。シュルマも口角を引きつらせている。


「ち、違います! 演技プランとカノープスの解釈についての相談で、口で伝えられる自信がなかったから、紙に書いたんです」

「……すまん」


 ロイは真面目な顔で手紙を読み始めた。黒く凛々しい眉が、だんだんと寄っていく。


「レグルス、僕にはないのかい? ラブレターは」

「は? あるわけないでしょ」


 フランツにシュルマが鋭く毒づく。


「い、いや! その、フランツ先輩のは、考え中です」


 ロイとフランツが意欲を取り戻すには、彼らにもチャンスがあると思わせなければならない。そのためなら、フランツの望み通り、彼に合ったサジェの解釈や演技プランを考える必要はあるかもしれない。


 とはいえ、正直なところ、フランツがオーディションに受かる可能性は万に一つもないと、レグルスは思っている。彼のような態度の者が、努力を重ねるユアンにかなうはずもない。それに、第二学年と第三学年にもルーナ・アステラの実力者はいる。ティターニア学園には、一学年につき四十人の生徒がいるのだから。


「ああっ、遅れてごめんなさい!」


 集合時刻から五分ほど遅れて、イレーナがやってきた。息を切らして、大きな荷物を背負って。


「昨日、マルコくんが倒れたって聞いて……食堂の方に頼んで、滋養のあるスムージーを作ってもらったのだけど、思ったより時間がかかってしまって。本当にごめんなさい」


 イレーナは鞄を下ろすと、ボトルを六つ取り出した。その姿を見たシュルマはばつの悪そうな顔をした。


「魔女印の健康スムージーよ。疲れにはてきめんに効くのよ。そのぶん味はすごいけど」


 毒々しさすら感じる鮮やかな緑色に、レグルスは戦慄した。


(あ、あれ……グランマの激マズドリンクだ!)


 イレーナが持ってきたスムージーは、レグルスの家の――エミリオが村で営んでいる薬屋の商品だった。もともとは祖母が、締め切りに追われるクラリッサのために作ったと聞いた。幼い頃、クラリッサから一口わけてもらったことがあったが、即座に後悔したのを忘れるはずもない。なぜこの学園の食堂で手に入るのだろう――という疑問より、逃げなければ、という思いが先行した。


「……あざっす」


 だがほかの班員たちは、イレーナの意外な気遣いに感心したらしい。まず、マルコがボトルを受け取り、続いてシュルマ、ロイと受け取り、フランツの手にはイレーナが強引に押しつけた。


「お、おれは遠慮しておきます」

「まあ、レグルスくん。そう言わずに」


 イレーナはスムージー入りのボトルを手に、じりじりと詰め寄ってくる。レグルスはじりじりと後ずさる。


「いえ、あの、本当に……」

「ゲーッ! なんだこりゃあ!」


 マルコの悲鳴がレッスンルームじゅうに響き渡った。


「味はすごいけど、本当によく効くのよ」


 イレーナはわずかに顔をしかめつつも、スムージーをごくごくと飲み下してみせた。


「やれやれ」


 フランツもスムージーを躊躇いなく口にした。三年生の飲みっぷりは、明らかに飲み慣れている者のそれだった。


「ぬう……」


 シュルマがレグルスを見ながら首を振る。諦めて飲め、という殊だろう。ここで班長の厚意をにしては、班員の心をひとつにするという目標が遠ざかってしまう。


「はい、レグルスくん」

「……ぬうぅっ!」


 覚悟を決めて、イレーナからスムージーを受け取った。


(グランマ、なんでこの味のまま商品化しちゃったんだよ……!)


 口をつけると、家の庭園で鮮やかな緑のスムージーを手にした祖母が、レグルスを手招きしている幻が見えた。




 班員全員がイレーナの差し入れを飲み終えると、早速、今日の練習が始まった。

 すぐに、ロイの武踊が変わった。


「ロイくん、とってもよかったわ!」


 軽やかさを捨て、一挙手一投足を重く強く見せている。彼のアステラ・ブレードが大振りな曲剣であることも手伝い、圧倒的に迫力が増した。デネボラとも、流行のカノープスとも違う、彼の強みを活かした独特の動きだった。


「へえ。よほど、レグルスのラブレターが効いたらしい」


 フランツのを無視し、ロイはブレードを握りしめる手を見つめた。


「演じるのは、俺自身……」


 手応えを感じたのだろう、ロイの黒い瞳が輝いている。


「フィオーレ・アステラのナイドルは軽やかな舞を得意とする人が多いけれど、ロイくんは荒々しいくらいの方が格好いいし、似合ってるわね。その方がいいと思うわ」

「……ありがとうございます」


 イレーナの率直な賞賛を、ロイは素直に受け止めた。

 イレーナに恐ろしい一面があるのは確かだが、彼女はとにかく根が誠実なのだろう。スムージーを持ってきたのも、マルコを気遣ってのこと。シュルマがレグルスとマルコのためについた嘘を信じているのだ。


――あとは、フランツだ。


 出番を待っている彼の顔は、ひどく苦み走っている。自分と同じ側に立っていたはずのロイが晴れ晴れとした顔で武踊を楽しんでいるのを見て、いったい何を思ったのだろう。


「あなたね」


 フランツの様子を見かねてか、イレーナが声をかけた。


「先日も言ったけれど、あなたの成績が悪いのは、試験に過ぎないと思っているからよ。舞台に立つことを楽しめない者が、観客を楽しませられるはずないわ。手抜きでも試験に合格できるくらいの実力があるなら、卒業の舞台くらい頑張ってみたらどうなの」

「あなたのようなさいえんには、持たざる者の気持ちなんてわからないだろう?」

「ええ、わからないわ。才能の有無にかかわらずね。ティターニア学園の生徒でありながら、ほかの生徒たちの夢を道連れにしようとするそのねじくれた性根が」


 フランツは俯き、沈黙した。


「態度を改めないのなら、非協力的な班員のせいで練習ができないと先生方に報告させてもらいます。班員の変更は認められないのは原則だけど……」

「ま、待ってください!」


 レグルスは慌てて声をあげた。


「イレーナさん、先生たちに話すのは、曜日の練習が終わってからにしてください。お願いします」


 バービッジやグリーゼが助言してくれたのは、レグルスたちに現状を改善する意志があるからだ。だが、フランツとの協力を諦めたとしたら――ユアンの推測通り、イレーナの課題が班員との協力にあるのなら、その報告はほかでもないイレーナに不利に働くかもしれない。班長なのに班員をまとめられないのか、と。


「フランツさんのきれいなアステラを……珍しい真っ白なルーナ・アステラを活かせる演出を、地曜日までに考えてきますから」


 フランツの眉がぴくりと動いた。だが、すぐに人を食った態度に戻って、レグルスを嘲る。


「君みたいな落ちこぼれが僕の演技プランを考えるって言うのかい?」

「……っ」


 いくら劣等生の自覚があっても、フランツの物言いは気に障る。唇を噛んでこらえると、代わりにマルコがフランツに舌打ちをする。彼の柄の悪さに救われてしまうとは。


「レグルスくん、何か考えがあるのね?」


 イレーナの問いに頷く。


「わかったわ。一生懸命な人の意見を無視するつもりはないから、やってみて」

「……はい」


        ◇ ◇ ◇


 ふう曜日、金曜日の練習は、不気味なくらい静かに行われた。

 レグルスはフランツの武踊やアステラを徹底的に観察し、フランツの魅力を最大限引き出すにはどうしたらいいかを必死に考えて、アイデアをノートに書いていった。しくも、かつてデネボラがレグルスにしてくれたのと同じことを、今度はレグルスがほかの人にしている。


 マルコはもとより、レグルスの熱心さに打たれたイレーナも積極的に意見をくれた。ロイは武踊だけでなく発声についてもシュルマに助言を求め、シュルマも苛立ちを露わにすることはなくなり、ナイドル候補生たちとも打ち解けてきた。


 第十班を包む空気は軽くなり、息もしやすくなった。頑ななのは、もはやフランツひとりだけ。


 今のフランツに、言葉は届きそうにない。レグルスの声が聞こえてすらいないのかもしれない。それでも、フランツも本心ではまだナイドルとして輝くことを望んでいると――彼のに、彼が抱いていたはずの夢に、賭けると決めた。


 そのためにレグルスは、凍りついたフランツの心を再び動かせるだけの実力を持つ生徒に、協力を仰ぐことにした。

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