第八節 同室の理由

 保健室は、寮と教室塔をつなぐ道の途中にある。診察室と休息室、ジニーの私室の三部屋しかない、こぢんまりとした平屋だ。

 木製の洒落た家具と観葉植物が置かれた診察室には穏やかな雰囲気が漂っており、この部屋を訪れた生徒が居心地よく過ごせるよう工夫が凝らされているのがわかる。


「診察の間、レグルスくんはそちらのソファで待っていてくださいね」

「は、はい」


 ユアンが診察用の丸椅子に腰掛けたのを見届けて、レグルスは診察スペースの横にある付添人用のソファに座った。すごく、ふかふかだ。


「どれどれ……」


 ジニーはユアンの左目をじっと覗き込んだ。


「……大丈夫。もうすっかり治まっていますよ」


 ジニーの言葉にユアンは安堵の息をつき、すぐに眼帯を付け直した。


「学園内も、もう問題ありません。みんな、白昼夢を見た……くらいにしか思っていませんから。何が起こったかわかっているのは、事情を知っている教員たちとあなた自身、そしてレグルスくんだけです」


 ジニーの漆黒の目がレグルスを見る。思わず息を呑んだ。今、なにか、重大な使命を負わされた気がする。


「レグルスくん。あなたなら〝アステラ暴走症〟を知っていますよね?」

「へっ!? えっと、はい……」


 困った。確かに知っている。原典イコーナには、宵闇の王子クロノが〝アステラ暴走症〟を患っていたとある。とはいえ、アステラ暴走症について触れているストーリアは数が少なく、それほど重要視されている要素ではない。だからか、母からは噛み砕いた解説しか受けていない。


(母さんが言ってたのって……「ヒステリーを起こしたときにアステラをあたり構わずばらまいて、自分のしんどさを無理やり周囲にも押しつける、迷惑極まりない病気」……)


 レグルスは口をつぐんだ。口の悪い母から習ったとおりに言ったら、あまりにもユアンに失礼だ。だが、


「自分の都合で周りの人をおかしくする、最悪な病気だ」


 他でもないユアン自身がはっきりそう言ったので、レグルスはぎょっとした。


「まあまあ、ユアンくん。そう自虐せずに」

「自虐じゃない、事実です」


 ユアンの声には鋭い棘があった。ジニーは困り眉を作ってみせる。


「レグルスくん。暴走症の正式名称を知っていますか?」

「は、はい。〝アステラパシー〟です」


 ユアンが驚きのまなざしでレグルスを見た。


「やっぱり知っていましたか。よほどしっかり原典イコーナを読み込んでいるんですね。感心しましたよ」


 思わず口元が緩んだ。褒められて悪い気はしない。


「アステラ暴走症というのは、陽の民が月の民を迫害するためにつけた蔑称なんです。アステラパシーは、特に月の民に多かったそうですから」


 そこまでは、原典イコーナにも書いていなかった。ジニーが詳しいのはきっと、医学に明るいからだろう。


「ユアンくん」


 ジニーに呼ばれ、ユアンは姿勢を正した。


「古代――純血種しか存在していなかった時代、アステラパシーはそれほど珍しくありませんでした。周囲に、自分の気持ちがなんとなく伝わる……ただ、それだけのことです」


(周りの人に、自分の気持ちが伝わる……)


 ジニーの説明は、祖母が死んだ日のことを思い出させた。


         ◇ ◇ ◇


「今日はお別れ日和だね」


 三年前の夏だった。

 真新しい墓石の前で、父エミリオは快晴の空を見上げている。


「これだけ晴れてれば、グランマもまっすぐ次の生に向かえるね」


 レグルスの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、拭いたそばからまた流れてくる。

 祖母は生前、自分が死んだら家の裏庭に埋めてほしいと言っていた。それを拒否して、しっかりした集団墓地にしっかりとした墓を建てたのは、母クラリッサだ。


「家の裏に死体が埋まっているなんて気色悪いから嫌だ。庭で育てた花を供えてやるから我慢しろ」


 クラリッサは祖母にそう悪態をついていたが、レグルスは知っている。「土に還したら同じ墓には入れない」と言っていたのを。祖母は知ってか知らずか、親の意を汲まない娘に苦笑していた。

 当のクラリッサは今、墓石に縋って泣いている。


「おれ、もうグランマがいないなんて、信じられないよ……」


 近しい人の死。避けられない悲しみ。思い出に大穴が空いたような、強い喪失感。


「レグルス」


 呼ばれて父を見た。眼鏡越しでもわかるほど、エミリオの目は真っ赤だった。


「僕もだよ。でもレグルスもクラリッサも同じ気持ちだから、ほんの少し、救われてる」

「救われてる?」

「お義母さん……グランマにもう会えないことを耐えるのは辛いけれど、二人が同じ気持ちを分け合ってくれるから、悲しみの底までは沈まずにいられるんだ」

「……」

「レグルスにはまだ難しいかもしれないね。でも、僕はこう思ってる……」


         ◆ ◆ ◆


 あの時、エミリオはこう続けた。


「嬉しい気持ちも悲しい気持ちも、分け合った方がいい」


 ユアンがこちらを見た。


「グランマが死んだとき、悲しかった……でも、父さん母さんも同じ気持ちなんだってわかったら、少し息がしやすくなった。グランマといて楽しかったこと、面白かったこと、幸せだったこと、たくさん思い出せた」


 ジニーもじっとレグルスを見つめ、レグルスの言葉を待ってくれている。


「おれの悩みも、ユアンの悩みも、一緒に感じて考えてたら、なにかが違ってたのかもしれない」

「一緒に感じて、一緒に、考える……」


 ユアンは俯いた。彼の心の靄はまだ晴れていない。

 ジニーは少し険しい表情を作った。


「ユアンくん。あなたは自分のアステラを制御する術を身につけるため、このティターニア学園へやってきた。そうですね」

「はい」


 ハッと気づいた。ユアンはナイドルになるためではなく、アステラパシーを克服するためにティターニア学園に入学した――それなら、納得できる。〝地母神の加護〟で伝わってきた、ユアンの思い。


(なりたくない、ナイドルになんて……)


 自分のアステラが人を傷つけると思っているのに、人前でアステラを目覚めさせ、しかも披露しなければならないなんて、恐ろしかったに違いない。


(そういうことだったのか……)


 ジニーは説明を続ける。


「神は言葉を必要とせず、心ひとつあれば十分だった。しかし神のごときアステラは、混血が進んだ現代の人の器には収まりきらないほど強く、美しい……だから時折、あふれてしまうんです。あなたが左目に宿るアステラを操るには、どうしてもこの学園での修練が必要です。レグルスくんに協力してもらいなさい。ミアがあなたたち二人を同室にしたのは、ほとんどユアンくんのためですよ」

「えっ、でも学園長はユアンに教われって……」

「方便ですよ。レグルスくんがアステラパシーに対して極めて強い抵抗力を持っているとわかったから、二人を同室にしたんです」

「それなら、そうと教えてくれれば……」


 ユアンが不平を口にした。レグルスも同意見だ。どうしてそんな大事なことを先に伝えてくれないのだろう。


「レグルスくん、もしもユアンくんがアステラパシーだと知っていたら、ユアンくんを刺激しないように距離を置いたでしょう?」

「う……そうかも、しれません」

「ユアンくん、あなたはレグルスくんと距離を置いていましたよね。それでは、あなたのためにならない。あなたが真の意味で自立するには、人と関わらなければならないんです」

「……納得できません。それでは、彼に迷惑をかけてしまいます」

「えっ、ユアンが気にしてるのってそこなのか?」

「ほかに、何が?」

「学園が勝手すぎるとか、どうして細かいことを教えてくれないのか、とか」

「ナイドル志望でもない俺を入学させてくれた学園には感謝している」

「レグルスくん。あなたは正直なところ、何が何だかさっぱりわからないでしょう?」

「は、はい」

「私から言えるのは……あなたたちを守るために、あなたたちに秘密にしていることがある。それで引き下がってはくれませんか?」


 ユアンはレグルスを一瞥して言った。


「……彼が、それでいいなら」


 洗いざらい話してほしいのが本音だ。だが、ジニーは了解を求めているようでいて、そうではない。「これで納得しろ」と言っているのだ。


「これ以上聞いても、何も教えてくれないんですよね?」

「まあ、そうですね」


 食い下がってはみたものの、返答は予想通りだった。


「じゃあ、しょうがないです」

「お利口ですね。では、寮へ戻っていいですよ」


 二人は椅子から立ち上がり、「ありがとうございます」と、頭を下げた。


「お大事に」


 ジニーはやさしい声音でそう告げ、二人を見送る。

 だが、彼女の眼鏡には光が反射していて、その表情まではわからなかった。




 保健室を出て、のんびりと寮への帰り道を歩く。雨はもうすっかり止んでおり、茜色の夕空が眩しかった。


「迷惑をかけて、すまなかった」


 ユアンがレグルスの背中に声をかけた。


「おれは平気だよ。誰も気がついてないんなら、ユアンももう気にするなよ」

「……また君に迷惑をかけるかもしれない」

「迷惑、かけていいよ」


 レグルスは、振り向かずに答えた。


「誰にも迷惑をかけずに生きられる人はいない。だから周りの人に感謝しなさいって、グランマに言われた」

「……そんな風に、考えても、いいのか」

「そもそもおれさあ、学園のせいで大迷惑だったし。半年も入学遅らされたのに、理由は教えてもらえないし。それにくらべたら今日のことなんて、迷惑のうちにも入らないよ。だから気に病むなって」

「……レグルス」


 思わず、振り返った。

――今、名前を呼ばれた?


「ありがとう」


 ユアンの笑顔を、初めて見た。

 つぼみがほころぶような、つつましくやさしい笑みだった。

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