檸檬のしずく

@aiko92

第1話

人 物

稲垣春恵(68) 芸術大学学生


村上茜(18)  芸術大学学生・春恵の孫


酒井洋樹(19) 芸術大学学生


村上康子(45) 春恵の娘・茜の母


村上清(47)  茜の父


○創造芸術大学・門

   門柱に『創造芸術大学』

   稲垣春恵(68)と村上茜(18)が緊張した顔つきで入っていく。


○同・事務棟前

   平成26年合格発表の掲示板。その前に二十人程の人がいる。茜が写真学科   の掲示板に目を走らせている。番号を見つけ、

茜「あった!」

   茜、隣で祈るように胸の前で手を合わせて目をつぶっている春恵に、

茜「おばあちゃん、あった!」

春恵「そう。良かったね!」

茜「おばあちゃんは?」

春恵「私?私はきっとないわよ。あるわけがないじゃない」

茜「見てないの?見なきゃわかんないじゃん。えっと美術学科の……126だよね」

茜、春恵の手を引いて場所を移動し掲示板に目を走らせ、番号を見つける。

茜「あ、あった!あったよ。すごいじゃん」

春恵「え?本当?」

茜「ほら、あそこ」

春恵「あら、ホント。信じられない」

茜「おばあちゃん、おめでとう」

春恵「えっえっ、あ、ありがとう」

茜「おばあちゃん頑張ってたもんね」

春恵「まぁ驚いた。心臓に悪いわ」

   戸惑いながら喜ぶ春恵と飛び上がりながら喜ぶ茜。


○稲垣、村上家・門(朝)

   表札『稲垣・村上』


○同・敷地内(朝) 

   百坪程の敷地に家が二軒建っている。古い方の家(稲垣家)から春恵が大き   なカバンを持って出てきて、新しい方の家(村上家)のチャイムを鳴らして   玄関を開ける。

春恵「おはよう。茜いる?」

   村上康子(45)が出てきて、

康子「もう出かけたわよ」

春恵「あ、そう……」

   康子が春恵の大きな荷物に気が付き、

康子「茜に持ってもらおうと思ったの?」

春恵「そういうわけじゃないんだけど」

康子「駅まで私が一緒に行こうか?」

春恵「いいわよ。あなたもパートがあるんで

しょ?」

康子「そうだけど、急げば平気」

春恵「そうね、でも何とかするわ、よいしょ」

康子「大丈夫?気を付けてね」

   見送る康子。新緑が芽生えた明るい庭を抜けて春恵が門を出ていく。


○創造芸術大学・外観(朝)

○同・門(朝)

   学生たちが続々と入っていく。その中に混じる春恵。立ち止まってカバンを   持ち替え、

春恵「はぁ。やっぱり一度に持ってくるんじ

ゃなかったわ」


○同・キャンパス(朝)

   春恵、歩いていると植込みにビオラが美しく咲いているのに気付く。しゃが   み込んでしばらく見とれる。やおらカバンに手を入れ、

酒井の声「大丈夫ですか?」

   春恵が振り返ると、酒井洋樹(19)が心配そうに覗きこんでいる。驚いて酒井の顔をじっと見つめる春恵。

酒井「……大丈夫ですか?」

春恵「え?あ、大丈夫?です」

酒井「どこか具合でも悪いんじゃ……」

春恵「いいえ」

   カバンからデジカメを出して、

春恵「この花、かわいいから撮ろうと思って」

酒井「なんだ」

   ホッとして笑う酒井の笑顔をじっと見つめる春恵。

酒井「えっと、なにか?」

春恵「あぁごめんなさい。何でもないんです」

   デジカメで何枚かビオラを撮る春恵。

酒井「パンジーですね」

春恵「これはビオラです。パンジーより小さくてワラワラ咲いてるでしょ?」

酒井「ワラワラ……ですか。面白いですね」

   デジカメをカバンにしまう春恵。

酒井「荷物持ちましょうか?」

春恵「えぇ?ありがとう、助かります」

   酒井が荷物を持って、

酒井「何学科ですか?」

春恵「美術学科です」

   並んで歩く二人。

酒井「先生は美術学科で何を教えてらっしゃるんですか?」

春恵「え?あ、あの実は私、学生なんです」

酒井「え!あ、そうなんですか失礼しました」

春恵「そうですよね。私もこの春入学してみて、場違いだったかなと思ってるんです」

酒井「そんなことないです。ここの学生はそんな固定概念は薄いんです。そのうち分かります」

春恵「何学科ですか?」

酒井「僕は映画学科です。二年生」

春恵「私は美術学科の絵画コース一年生。稲垣春恵です」

酒井「酒井洋樹です。監督コースです」

春恵「へえ、監督になるんですか?」

酒井「えぇ、まぁ出来たらですけど」

春恵「すごいわ~」

酒井「そんなことないです。稲垣さんこそすごいです」

春恵「え?」

酒井「入試を突破したっていうことは、きっと絵の実力があるってことですよね。見てみたいな」

春恵「そんな、たいしたことないんですよ」

   春恵、照れ笑いする。


○稲垣家・仏間(夜)

   春恵が仏壇の前に座っている。仏壇には稲垣広康(享年71)と下川恭子   (享年67)の遺影。お鈴を鳴らして合掌し、

春恵「今日、あなたに似た青年に会ったのよ」

   思い出して微笑む春恵。思いついたようにアルバムを出してきて開く。若い   頃の広康。

春恵「あら、そうでもないかしら……」

   アルバムを少しめくると、茜が赤ちゃんの時の写真。愛おしそうに眺める。


○創造芸術大学・キャンパス(朝)

   キャンパス内を歩く茜。植込みのビオラを見つけて素早くカメラを構えて数   枚撮る。

   酒井が通りかかって茜を見て微笑む。


○同・教室

   茜が国文学の講義を受けている。

   遅れてそっと入ってきた酒井に目が釘付けになり、講義中も落ち着かず何度   も盗み見る。

教授「……なので、次回の講義までにこの本

を買ってくること、今日はここまで」

   茜、ハッと気が付く。

茜「(つぶやくように)え?何を?」

   焦って辺りを見回す。三十人程の学生が席を立って出ていく。

学生A「おい、ボッチャリ、飯、行かね?」

   酒井が振り返り、

酒井「悪い、今日バイト。本屋に寄ってくか

ら時間ないわ」

学生A「さっきの本?ついでに俺のもお願い」

   茜、酒井を見つめる。

学生B「あ、じゃあ俺のも」

酒井「え~、もうしょうがねえな。貸しだぞ」

   酒井が茜の視線を感じて、

酒井「何?君も?」

茜「あっあの、そんな、自分で買います」

酒井「あそ」

   酒井が教室を出ていく、慌てて追いかける茜。


○本屋店内

   酒井が本を探している。その後ろを茜が付いてくる。酒井が目的の本を見つけて手に取ると、すかさず茜がやってきて本を確認する。

   酒井、茜に気が付き、

酒井「何だ、君も来たんだ。頼んでも良かっ

たのに、貸しって言ったのが悪かった?」

茜「い、いえ、そんなんじゃないです」

酒井「はい」

   酒井が茜の手に本を乗せる。梶井基次郎の『檸檬』。

茜「……ありがとうございます」

   眩しい笑顔で笑いかけ、レジへ向かう酒井を憧れの目で見送る茜。


○村上家・外観(夕)


○同・茜の部屋(夕)

   棚にカメラが数台置いてあり、本棚には写真関係の本が並んでいる。茜が部   屋着に着替えている。チャイムの音に反応して部屋を嬉しそうに出ていく。


○同・リビング(夕)

   ソファに春恵が座っていて、康子がお茶を入れている。

康子「少しは慣れた?」

春恵「まあね。でもさすがに若い頃の様には

いかないわ」

   茜が入ってくる。

春恵「あ、茜、悪いけどまたプリントお願い

できる?」

茜「了解」

   春恵が茜にSDカードを渡す。

春恵「どう?大学は楽しい?」

茜「うん。毎日いろんなことがあって楽しい、おばあちゃんは?」

春恵「う~ん。何だか戸惑うことが多いけど、何とかなってる」

茜「ねぇ。おばあちゃんも携帯持てば?何かあったら私がすぐ行けるし」

康子「そうね。その方が私も安心」

春恵「もう機械はたくさんよ。デジカメが出来るようになるのだって大変だったでしょ?それでなくても、今覚える事が沢山あって携帯まで頭が回らない」

康子「そう。じゃおいおいね」

   美味しそうにお茶を飲む春恵。


○稲垣家・アトリエ(夜)

   熱心に自画像を描いている春恵。

   机に画材が並んでいる。壁には花や風景の絵が飾ってある。

茜の声「おばあちゃん」

   茜が入ってくる。

茜「写真できたよ。あと筑前煮も持ってきた」

春恵「ありがとう」

茜「おばあちゃんも、あそこのビオラ撮って

たね。私も撮ったんだよ」

春恵「そうなの。あのビオラ綺麗よね」

   茜、春恵の絵を見て、

茜「自画像?」

春恵「うん」

茜「へぇ、珍しいね、人物描くなんて」

春恵「やっぱり、自分の得意な絵ばかり描いてちゃ成長しないかな?と思って」

茜「すごい!前向き。その調子その調子」

春恵「うふふ。茜こそ、何か良いことないの?素敵な男子を見つけたとか」

茜「え?うーん」

春恵「あ、いるの?」

茜「まだ、あだ名しか知らないけど」

春恵「うん」

茜「ボッチャリっていうの」

春恵「太ってるの?」

茜「ポッチャリじゃなくて、ボッチャリ。太ってないよ」

春恵「お坊ちゃまなのかしら?」

茜「さぁ。でもね。なんていうか……かっこいいんだよね」

   茜の夢見がちな顔。


○村上家・リビング(夜)

   スーツ姿の村上清(47)が入ってきて、

清「ただいま」

康子「お帰りなさい」

清「茜は?」

康子「おばあちゃんのところ」

清「最近、ますます仲良くなったな」

康子「そうね。ちょうどいい監視役がいて、

 私は安心だわ」

   笑いあう二人。


○稲垣家・アトリエ(夜)

   春恵が興奮気味に茜の話を聞いている。

春恵「青春ねぇ。羨ましいわ。あんな小っちゃかった茜がねぇ……」

茜「あはは、そうだよねぇ」

春恵「恋には悩みが付きものなの。何かあったら、相談するのよ」

茜「うん。おばあちゃんも大学で分からないことがあったら私に聞いて」

春恵「頼もしいわ。ありがとう」

   春恵が村上家の方を見て、

春恵「あら?清さんが帰ったみたいよ。帰りなさい」

茜「ねぇ今日はこっちで晩ごはん食べても良い?」

春恵「ダメよ」

茜「何で?」

春恵「けじめよ。茜は村上家の娘なんだから」

茜「おばあちゃんだって家族じゃない」

春恵「家族3人の団欒が大切なのよ。ほらほら帰って。お父さん待ってるから」

   茜をせかすように出す春恵。

茜「また、明日ね」

春恵「うん」

   春恵、手を振って見送る。


○同・キッチン(夜)

   春恵がタッパから筑前煮を皿に分けて電子レンジに入れてスイッチを押す。

料理をする寂しげな後ろ姿。


○創造芸術大学・図書館棟・外観

   

○同・図書館・ロビー

   春恵が大きな荷物を持って入ってくると、出てくる酒井を見つける。

春恵「あら、こんにちは。えっと……」

酒井「酒井です」

春恵「あ、そうでした。ごめんなさい。この間はありがとうございました」

酒井「稲垣さん、ちょっとした噂になってますね。美術学科に68歳のおばあさんが入ったって」

春恵「(つぶやくように)おばあさん……」

酒井「あっと、僕じゃなくて噂です」

春恵「ふふ、本当の事ですから。でも、みんな好意的で毎日楽しいんです。酒井君が言った通りでした」

酒井「ね?そうだったでしょう?それにしてもまた大きな荷物ですね」

春恵「これ、入試で描いた絵なんです」

酒井「お、良かったら見せて下さい」

春恵「良いけど、時間は?」

酒井「休講になっちゃって暇つぶしに映画を見てきたんです」

春恵「映画?」

   ベンチに移動する二人。

酒井「DVDを貸し出してて、この中で見れるんです」

春恵「そうなんですか。何を見たんですか?」

酒井「『キューポラのある町』です」

春恵「随分昔の」

酒井「えぇ昔の名作も見ておかないといけないかなぁと思って」

春恵「吉永小百合ですよね」

酒井「そうそう。綺麗ですよね。今もだけど」

春恵「私、吉永小百合と同じ年なんですよ」

酒井「へぇそうなんですか。稲垣さんも負けてませんよ」

   赤くなる春恵。

   カバンから絵を取り出して、

春恵「これなんです」

   美しい風景画を酒井に見せる。

酒井「あぁやっぱり、この遠近感さすがです。これはどこですか?」

春恵「スイスです」

酒井「水の質感もすごく良いですね。僕は好きです」

春恵「そう?ありがとうございます」

   少し恥ずかしそうにする春恵。

春恵「でも、人物画が苦手で……今頑張って自画像描いてるんですけどなかなか……」

酒井「稲垣さんは何で大学に入ったんですか?」

春恵「え?」

酒井「苦労して大学に入らなくても趣味で絵を描いても良かったんじゃないですか?」

春恵「そうですよね……何でかしら?……あ、孫だわ……」

酒井「お孫さん?」

春恵「えぇ、私ね、4年前に姉と夫が相次いで亡くして落ち込んで何もできなくなってしまって」

酒井「……」

春恵「好きな絵だけは細々と描き続けてたら、孫娘が一緒に大学に行かない?って誘ってくれたんです」

酒井「へぇ……お孫さんですか」

春恵「そう、写真学科の一年生。可愛いんですよ。うふふ」

酒井「あははは、稲垣さんのお孫さんならきっとかわいいでしょうね」

春恵「あ、信用してませんね」

酒井「親ばかならぬ。ババばかですよね」

春恵「もう。いいです」

酒井「あ、怒っちゃいました?でも、優しい子ですね。いいな仲良く同じ大学って」

春恵「あ、でもこれは内緒でお願いします」

酒井「何で?」

春恵「孫と約束したんです。大学では家族っていうことを隠しておこうねって」

酒井「あぁ、なんとなくわかります」

春恵「孫にばれたら怒られちゃう。宜しくお願いします」

酒井「了解です」

   笑いあう二人。


○稲垣家・アトリエ(夜)

   春恵が酒井に褒められた絵を取り出し、嬉しそうに眺めて物思いにふける。


○美容室

   春恵が鏡の前に座って雑誌を見ている。吉永小百合の写真に手が止まる。

美容師「お待たせしました。今日はどのよう

になさいますか?」

春恵「えっと、あのこんな感じにできます?」

   美容師、雑誌を覗き込みにっこり笑い、

美容師「かしこまりました」


○創造芸術大学・キャンパス

   雑誌の吉永小百合の髪形と服装を真似た春恵が颯爽と歩いて、ビオラの植込   みの付近に来る。辺りを見回すが酒井の姿はない。


○同・図書館・ロビー(夕)

   春恵がやってきて、辺りを見回すがやっぱり酒井の姿はなく、肩を落とす。


○駅前・道(夕)

   春恵が疲れた様子で歩いている。


○創造芸術大学・内

   茜が写真スタジオで商品写真の実習をしている。

   酒井が映画史の講義を受けている。

   春恵がデッサンの実習をしている。

   国文学の講義で酒井が茜の隣に座り、茜が緊張しながら会釈する。

   酒井と茜、お互いを意識している様子。

○稲垣家・村上家の庭

   初夏の草花とてんとう虫。


○稲垣家・アトリエ(夕)

   春恵、自画像が完成して筆を置き深呼吸をする。なかなかの出来栄え。


○村上家・リビング(夕)

   康子が食べやすく切った桃を持ってきてテーブルに置く。

茜「うわっ美味しそう」

   茜が手慣れた様子でカメラを構えて桃を撮る。ついでに康子も撮る。康子は   撮られ慣れているので、シャッターの直前にピースを出して笑う。

茜「あぁ!自然な感じが良かったのに~」

茜、桃を頬張って、

茜「う~ん。美味しい!」

   康子も桃を美味しそうに食べる。

康子「おばあちゃん、来ないのかしら?」

茜「ねぇ。最近おばあちゃんお洒落になったと思わない?」

康子「そう?」

茜「そうだよ。性格も明るくなった」

康子「まあね。おじいちゃんが亡くなった時の落ち込みようったらなかったもんね」

茜「うんあの時は本当にどうなるかと思った」

康子「そうね。元気になって、良かった」

   チャイムが鳴る。

茜「あ、きた!」

   春恵が入ってくる。

春恵「遅くなっちゃったわね」

康子「この桃、美味しいわよ」

春恵「ありがとう。(ソファに座りながら)ようやく自画像が完成したの」

茜「そうなの?あとで見せてね」

春恵「うん(桃を食べて)うん、おいしい」

   茜、桃を食べる春恵を撮る。


○創造芸術大学・キャンパス

   敷地内で酒井が仲間と共に映画を撮影している。春恵が通りかかり、汗を拭   いながら一生懸命に作業する姿をしばらく眺めて、去っていく。

   入れ違うように茜が通りかかって酒井を遠くからカメラで撮影して、嬉しそ   うに笑う。


○同・教室

   英語の講義を受けている春恵。懸命に黒板の英語を書き写している。頭をひ   ねったり、ため息をついたりしている。

     ×  ×  ×

   講義が終わって教室を出ていく学生たち。暗い顔の春恵に、

女子学生「稲垣さん。悪いけどノート貸してくれませんか?」

春恵「え?良いけど、なんで?」

女子学生「寝坊しちゃって……」

   春恵がノートを出す。

女子学生「すみません。助かります。すぐ返しますからちょっと待っててください」

   女子学生がタブレット端末でノートを撮る。春恵、それを見て驚き、

春恵「まぁ、そんなこともできるのね」

女子学生「ありがとうございました」

春恵「どういたしまして」

   あっけにとられている。


○同・キャンパス(夕)

   夕立が降りそうな黒い雲。

   春恵が重い足取りで歩いている。

酒井の声「稲垣さん」

   春恵が振り向くと酒井が眩しい笑顔で向かってきている。

酒井「どうしました?元気ないみたいです」

春恵「英語が難しくて。きっとついていけなくなって落ちこぼれるわ」

酒井「大丈夫。単位さえ取れればいいんです」

春恵「取れなかったら、どうしよう」

酒井「試験前の講義でどこが出るか教えてくれるからそこさえちゃんと勉強しておけば大丈夫ですよ」

春恵「そうなんですか(胸をなでおろすが、すぐに心配になり)あぁでも……」

酒井「大丈夫ですって」

   酒井の優しい笑顔につられて笑う春恵。

   大粒の雨が降ってくる。

酒井「あ、とうとう降ってきましたね」

   雨宿りするために急いで移動する。

   酒井が春恵の肩のあたりに軽く手を置いて支えるようにして歩く。意識する春恵。

   激しく降る雨。

   春恵、雨を拭いている酒井を愛おしそうに見つめる。酒井と目があって、思   わずそらしてしまう。

春恵「昼間、映画を撮ってましたね」

酒井「はい実習で。おかげで昼食べ損ねちゃって、腹ペコです」

   春恵がカバンからパンを出して、

春恵「昼に食べきれなかったパン。食べます?あ、食べかけじゃないですよ」

酒井「良いんですか?ありがとうございます」

   パンをガツガツ食べる酒井。

春恵「(酒井を笑顔で見ながら)すごい食欲。酒井君は何が好きなんですか?」

酒井「何でも食べます。あ、アイスクリーム。いつも冷蔵庫に入ってます。良いことがあるとちょっと高いの買ったりして」

春恵「うふふ。そう」

   雨が小降りになる。

酒井「小降りになりましたね。僕、バイトあるから行きますね。良かったらこれ使ってください。パンのお礼」

   青い折り畳み傘を差し出す酒井。

春恵「酒井君は?」

酒井「僕はチャリンコですから」

春恵「ありがとう」

酒井「いえ。ごちそう様でした、気を付けて」

   酒井、走り去る。


○駅前・道(夕)

   春恵、酒井の青い傘をさして歩く。

茜の声「おばあちゃん」

   春恵が振り返ると茜が走ってきて、

茜「入れて」

   相合傘で歩く二人。

茜「この傘どうしたの?」

春恵「うふふ。ちょっと気になる男の子が貸してくれたの」

茜「えぇ!おばあちゃんにそんな人がいるの?だからか、最近お洒落になったのは」

春恵「そんなんじゃないわよ。それより、その後ボッチャリ君とはどうなの?」

茜「この前、みんなで一緒にご飯に行ったよ」

春恵「そう良かったわね」

茜「それでね、その帰り道でお付き合いしてほしいって言われた」

春恵「あらまぁ。すごいじゃない」

茜「うん!」

春恵「どんな人?」

茜「そうだなぁ。気が利く人。誰に対しても同じように優しい」

   春恵うなずく。

茜「あ、でも家があまりお金持ちじゃないみたいで、バイトを結構やってるみたい」

春恵「そう」

茜「でね、ボッチャリの由来が分かったよ。ボロいチャリンコに乗ってるからなんだって」

春恵「まぁ」

茜「でもね。全然気にしてないみたいで、笑って言ってた」

春恵「あはっ、きっといい人よ」

茜「だよね」

   二人で笑う。

○電車内

   座席は埋まっているが立っている人は十人位の比較的すいた車内で春恵が    立っている。酒井が入ってくる。

酒井「あ、こんにちは」

春恵「こんにちは」

   電車が動きだし揺れる。春恵がふらつくとすかさず酒井が支える。

酒井「おっと」

春恵「すみません」

   春恵、恥ずかしそうにうつむき、手すりに摑まる。並んで立つ二人。

   ×  ×  ×

   車窓を見る酒井の横顔をちらちらとみている春恵。

春恵「今日は自転車じゃないんですか?」

酒井「あ、はい。長野の実家から来ました」

春恵「何かあったんですか?」

酒井「昨日、母の命日だったんで……母は僕が三歳の時に亡くなったんですけど、命日にみんなで母に一年の報告をするんです」

春恵「……(感心したように大きくうなずく)」

酒井「今は兄も東京に出て来ていて、わざわざ行くのもどうかと思うんですけど、子供のころからの習慣というか、やめるタイミングが見つからないというか」

春恵「素敵です。良いお父様なんですね」

酒井「いやぁ。そんな」

春恵「お母様もきっと……」

酒井「あれ?あ、稲垣さん降りなきゃ」

   酒井が春恵の手首を掴んで電車を降りる。

春恵「え?は、はい」


○駅ホーム

   電車のドアが閉まり、走り出す。

   酒井が春恵の手首を掴んでいる。

酒井「危なかった~」

   春恵、酒井に摑まれた手首を驚きの目で見ている。気付いた酒井が手を離    し、

酒井「あ、すみません痛かったですか?」

春恵「いえ、そんなことないです……」

   高鳴る心を落ち着かせようと手を胸に置く春恵。


○創造芸術大学・美術学科棟前

   春恵が女子学生とおしゃべりしながら出てきて、手を振って別れる。

   向こうに茜を見つけて声をかけようとするが、隣にいる人が酒井だと気が付   き物陰に隠れる。しばらく様子を見ていると、男子学生が酒井の事を『ボッ   チャリ』と呼んで近付く。

春恵「!」

   春恵、立ち尽くす。

   仲良さそうに話す茜と酒井。

春恵「……」

○稲垣家・仏間(夜)

   仏壇の前に座る春恵。

春恵「……(ため息)」


○稲垣家・リビング

   窓を開け放った陽の当たるテーブルで美術雑誌を見ている春恵。

   庭からお洒落をした茜が声をかける。

茜「おばあちゃん。これどう?」

   浮かれ気味にくるりと回って見せる。

春恵「いつもの通りかわいいわよ」

   春恵、すぐに雑誌に目を戻す。

茜「ねえ初デートなんだからちゃんと見てよ」

   春恵の手が止まり、茜を見る。

春恵「……胸元が開きすぎじゃない?」

茜「え?あ、そうかな?わかった。あ、そうそ。これ、ボッチャリ先輩」

   茜が酒井の写真を春恵に見せる。

茜「ちょっとおじいちゃんに似てない?」

春恵「え?(狼狽して)に、似てないわよ」

茜「それ、おばあちゃんにあげる。特別ね」

春恵「ありがとう」

   茜、春恵の複雑な表情に気付かず立ち去る。春恵、写真をじっと見る。


○映画館前

   酒井が待っている所へ茜が来る。胸元が開いていない服に着替えている。

   笑いあって映画館の中に入ってく。


○稲垣家・アトリエ

   春恵がイーゼルの前に座り、酒井の写真を手に取る。


○お台場

   茜が酒井をカメラで撮る。酒井もスマホでツーショットを撮り、二人で確認   して笑いあう。


○稲垣家・アトリエ

   酒井の顔を描く春恵。


○お台場

   海辺を散策しながら、酒井が茜の手を握る。茜はにかんで嬉しそうに笑う。


○稲垣家、村上家・庭(夕)

   春恵が庭に出てきてしゃがみこむ。


○同・前の通り(夕)

   茜と酒井が仲良く歩いてくる。


○同・庭(夕)

   春恵が庭に生えている青じその葉を摘み取っている。


○同・門・外(夕)

   茜と酒井が立ち止まり、繋いでいた手を離し軽く手を振って別れ、茜が門を   入っていく。

○同・庭(夕)

   誰もいない庭を茜が軽い足取りで通過する。


○稲垣家・キッチン(夕)

   春恵が夕飯の支度をしているところへ茜が入ってくる。

茜「ただいま!」

春恵「お帰り。どう?楽しかった?」

茜「うん!おばあちゃんにお土産!」

   カバンから小さな袋を出して春恵に渡す。春恵が中身を取り出すと紫色のブ   レスレット。

春恵「ありがとう」

茜「おばあちゃん、紫色好きでしょ?ボッチ

ャリ先輩と選んだの。じゃあね」

   ハイテンションの茜を見送る春恵。


○同・アトリエ(夜)

   酒井の絵をぼんやりと眺める春恵。

○創造芸術大学・学食

   学生で混みあっている。

   春恵が女子学生達と昼食を食べている。

   茜と酒井が連れ立って入ってくる。

   春恵は二人に気付き、それとなく見つからないように身を低くして、二人の   様子を盗み見る。

女子学生「どうかしました?」

春恵「え?ううん。なんでもない」

   食事に戻る。

   ×  ×  ×

酒井の声「あれ?稲垣さん?」

   春恵が顔を上げるとトレーを持った酒井が立っている。その後ろに茜。

酒井「こんにちは」

春恵「あ、こんにちは」

   茜が春恵に気が付き驚いている。

   酒井が春恵の腕の紫のブレスレットに気が付く。

酒井「あれ?そのブレスレット……」

   酒井、茜に振り返って、

酒井「この前買ってたやつと同じだ……(思

い出したように)あ、あぁ!そうなの?」

   酒井、春恵と茜を交互に見る。

   春恵、バツが悪そうにしている。

   茜、驚いている。


○コーヒーショップ

   春恵と茜と酒井がお茶している。

   酒井が茜に、

酒井「何で教えてくれなかったの?」

茜「だって、おばあちゃんと約束してたし、

おばあちゃんがいつの間にか有名人にな

っててなんとなく言い出せなくて」

酒井「でも、稲垣さんが茜ちゃんのおばあち

ゃんで僕は嬉しいです」

春恵「言った通りだったでしょ?」

酒井「え?」

春恵「うちの孫はかわいいって」

酒井「あぁ!(茜を笑顔で見て)そうですね」

   茜、目をぱちくりさせて、

茜「やだ、そんな事言ってたの?」

   しきりに照れる茜と酒井。そんな二人を優しく見守るように笑う春恵。

茜「それよりおばあちゃんと先輩が知り合い

だったなんて。びっくりした」

酒井「それほどの知り合いじゃないよ。(春恵に)ですよねぇ」

春恵「え?あまぁそうよ。報告するほどでは」

茜「あ、三人で写真撮ろうよ」

酒井「お、良いね」

   店の人に頼んで3ショット写真を撮る。


○稲垣家・アトリエ(夜)

   春恵が窓から村上家を見ている。

   楽しそうに食卓を囲んでいる茜と康子と清。茜の話で盛り上がっている様    子。

   春恵、イーゼルにかかっている布をはずす。酒井の顔。じっと見つめる。

○稲垣家、村上家・庭

   夏の草花。蝉の鳴き声。


○村上家・リビング

   春恵と康子がスイカを食べている。

春恵「茜は?」

康子「デートだって。夏休みだからって羽目

を外すようなことしないといいけど」

春恵「あの二人は大丈夫よ」

康子「どんな子なの?」

春恵「誠実そうな良い子よ。お母さんが3つの時に亡くなって、それなりに苦労してると思う」

康子「そう」

春恵「ごちそう様」

康子「もう食べないの?」

春恵「うん。最近食欲がなくて、夏バテかな?」

康子「茜も心配してたわよ。何だか最近元気がないって」

春恵「大丈夫。何でもないの」

康子「熱中症も心配だし、そろそろ携帯持てば?」

春恵「(力なく笑って)そうね、考えとく」


○携帯ショップ前(夕)

   春恵が店の前でウロウロしている。入るかどうか迷っている。

茜の声「あれ?おばあちゃん」

   振り返ると茜が立っている。

春恵「茜。お帰り。早かったね」

茜「先輩、バイト忙しいんだよね。ホントは

もっと一緒にいたいんだけど」

春恵「会えない時に相手の事を考えるのも良いものよ」

茜「そうかな?」

春恵「そうよ、今頃休憩中かな?とか何食べたかな?とか」

茜「あ、それ、この前の青い傘の人の事?」

春恵「ち、違うわよ。絶対違うから!」

茜「やだぁムキになっちゃって。あはは」

春恵「……」

茜「で、おばあちゃんついに携帯買うの?」

春恵「え?あ。う……ん。でも難しそうだし」

茜「私が一緒に見てあげるよ」

春恵「そう?」

   ×  ×  ×

   春恵と茜が店内の窓口でスマホを購入し、出てくる。

茜「これでお母さんも安心すると思うよ。1

番に私の番号を登録しておいたからね」

春恵「ありがとう、助かったわ」

茜「じゃ帰ろっか」

春恵「あ、私は買い物して帰るわ」

茜「そう。じゃ先帰るね」

春恵「気を付けてね」

茜「おばあちゃんもね」

   手を振って別れる二人。


○稲垣家・玄関・中(夕)

   春恵がスーパーの袋を持って入ってくる。玄関にピンクのサンダルがある。

○同・ダイニング(夕)

   テーブルの上に金平ごぼうの皿が置いてある。袋をテーブルの上に置き、

春恵「茜?来てるの?」

   何かを思いついたようにハッとする。

   急いでアトリエへ向かう。


○同・アトリエ(夕)

   勢いよく春恵が入ってくる。

春恵「!」

   茜がスケッチブックを持って、酒井の肖像画の前で立ちすくんでいる。

   目を大きく見開いたままゆっくり春恵の方に顔を向ける。

春恵「これは違うの、あ、あのね……」

   茜がスケッチブックを床に落とし、逃げるように出ていく。

春恵「ちょっと待って……」

   床のスケッチブックには酒井の顔のデッサンが様々な角度で描かれている。

春恵「……(手で口を押さえて震えている)」


○村上家・ダイニング(夜)

   茜と康子と清が食卓を囲んでいる。

清「この金平うまい」

康子「でしょう?だからおばあちゃんにもお

すそ分けしたのよ」

茜「……(暗い顔で稲垣家の方を見る)」

康子「あら茜、食欲ないの?デートで何か食

べてきたの?」

清「デ、デート?!」

茜「もう、お母さん、おしゃべり」

清「どんなやつだ?」

康子「おばあちゃんから聞いたけど、良い人みたいよ。小さい頃お母さんを亡くして、苦労してるみたいだって」

茜「え?」

康子「あら。知らなかった?」

茜「(あいまいな感じで)ううん」

清「茜。学生の本分は勉強だからな」

茜「(上の空で)うん」

康子「茜?」

茜「ごちそう様」

   茜ダイニングを出ていく。康子と清が心配そうに見送る。

清「男に騙されたりしてないだろうな」

康子「考えすぎよ。おばあちゃんが付いてる

から大丈夫」

清「そうか?……ま、そうだな」


○稲垣家・ダイニング(夜)

   春恵が一人で夕食を食べている。

   箸を止めて、ため息をつく。


○村上家・茜の部屋(夜)

   ベッドに仰向けになって天井を見つめる茜。


○『丼食人(どんぶりしょくにん)』店前

   茜が従業員出入り口で待っている。

   酒井が出てきて、

酒井「お待たせ。どこ行こっか。何食べたい?」

   二人、歩き出す。

茜「あのさ、ひろ君のお母さん、ひろ君が小

さい時に亡くなったの?」

酒井「うん。あ、言ってなかったっけ?」

茜「知らなかったよ。なんでおばあちゃんの方が先に知ってるの?」

酒井「それはたまたま……大したことじゃ」

茜「大したことだよ」

酒井「そんな怒ること?」

茜「そうだよ」

酒井「えぇ?」

茜「……もう、なんで分かんないの?」

酒井「別に隠そうとしてたわけじゃないし…」

茜「そうかもしれないけど……、やっぱり今日は帰る」

   茜、走って行ってしまう。

酒井「えぇ!ちょっと茜、待ってよ。えぇ?」

   酒井、混乱したまま茜を見送る。


○稲垣家、村上家・敷地内(朝)

   稲垣家から春恵が出てきて、村上家のチャイムを鳴らしドアを開ける。

春恵「おはよう。茜いる?」

康子「もう出かけたわよ」

春恵「あ、そう(肩を落とす)」

康子「今日から新学期ね。大学も新学期っていうんだっけ?」

春恵「ここのところ茜とすれ違ってあまり会

えないけど、元気?」

康子「うん。まあね。でも何か変なのよね。

思い当たることある?」

春恵「え?……な、ないけど」

康子「そう、思い過ごしなのかな?」

   春恵、康子と目を合わせられない。

   

○創造芸術大学・写真学科棟前

   春恵がウロウロして学生の出入りを見ている。茜の姿が見つからない。しば   らくして諦めて立ち去る。


○稲垣家、村上家・敷地内(朝)

   茜が村上家から出てくる。待ち構えていたかのように春恵が出てきて、

春恵「茜。おはよう。あ、あのね……」

   茜、逃げるように立ち去る。

   がっくりと肩を落とす春恵。


○稲垣家・ダイニング

   春恵、手紙を書いている。


○創造芸術大学・キャンパス

   春恵が歩いている。

酒井の声「稲垣さん」

   振り返ると、酒井が走ってきている。

酒井「あぁ良かった。会いたかったんですよ」

春恵「久しぶり。私も会いたかったの。これ」

   青い折り畳み傘を酒井に渡す。

春恵「返しそびれてしまってごめんなさい」

酒井「全然。それより茜ちゃんと連絡が取れ

ないんですけど、どうしてますか?」

春恵「え?そうなの?」

酒井「僕の母親が亡くなっている事を稲垣さ

ん方が先に知っていることが気に入らな

いみたいなんですけど、訳分かんなくて」

春恵「……」

酒井「そんなことで?でしょう?」

春恵「え、ま、まぁそうね」

酒井「あ、いた(遠くの茜に向かって)茜!」

   春恵、酒井の視線を追う。

   茜がこちらに気付く。

   茜、声の方を向くと春恵と酒井がいる。

   酒井が手を振りながら茜の方に向かってくる。

   春恵、酒井が茜に話しかけ二人で去っていくのを見ている。

   茜、春恵を気にしながらも酒井と去る。

   二人を見送って一人で歩き出す春恵。


○同・同・ベンチ

   茜と酒井が並んで座っている。

茜「おばあちゃんはね私の一番の理解者なの」

酒井「うん」

茜「私が写真をやりたいって言った時、両親は良い顔しなかったけど、おばあちゃんは喜んで応援してくれた」

酒井「うん」

茜「ひろ君、おばあちゃんのこと、好き?」

酒井「当たり前だろ。茜のおばあちゃんなんだから」

茜「私のおばあちゃんじゃなかったら?好き?」

酒井「あぁ。まぁ好きっていうより、尊敬って感じかな」

茜「そう……」

   茜が酒井のカバンからはみ出している青い折り畳み傘を見つける。

茜「これ……」

酒井「あぁ。おばあちゃんに貸してたんだけ

ど、さっき返してもらったんだ」

茜「!」


○創造芸術大学・美術学科・廊下

   春恵が廊下を歩いていると、女子学生数人が声をかけてきて、

女子学生A「稲垣さん、たまには一緒にカラ

オケ行きませんか?」

春恵「え?私は……」

男子学生A「稲垣さんがカラオケ?俺も行く」

女子学生B「私も」

男子学生B「僕も行きます」

   周囲にいた学生たちが集まり出す。

春恵「ち、ちょっと私は……どうしましょう」

   困惑している春恵。


○カラオケボックス(夜)

   春恵が緊張気味に『いつでも夢を』を歌っている。大勢の学生が春恵の歌を   盛り上げて、春恵も段々楽しくなってきて乗ってくる。


○村上家・茜の部屋(夜)

   机の上にある手紙を茜が取り上げて、中身を見る。『茜へ、あまり話せない   けど元気ですか?たぶん誤解していることがあると思います。一度じっくり   話し合いたいです。春恵』

   部屋に飾ってある3ショット(春恵、茜、酒井)写真を手に取って見る茜。


○稲垣家・アトリエ(夜)

   誰もいない薄暗い中、茜が入ってくる。

   イーゼルにかかった白い布を外す。

茜「!」

   酒井の肖像画に大きくバツ印。   


○創造芸術大学・全景(夕)


○同・写真学科・スタジオ(夕)

   茜がモデルを使った撮影の実習中。


○同・キャンパス(夕)

   植込みの所で待つ春恵の所に、酒井がやってくる。

酒井「待ちました?」

春恵「ううん。今来たところ、ごめんなさい

ね。呼び出しちゃったりして」

酒井「全然。何かありました?」

春恵「うん、まぁ、ここではなんだから行き

ましょう。自転車なのよね?」

酒井「はい」

   二人で自転車置き場に行き酒井が自転車の鍵を外していると、よろけて自転   車を倒してしまう。

春恵「大丈夫?」

   春恵が酒井を起こそうと腕を持つ。

春恵「あら?熱があるの?」

酒井「少し。すみません。今朝はそれほどで

もなかったんですけど、だんだんひどくなってきちゃって」

   春恵、酒井の額に手を当て、

春恵「まぁ、すごい熱。茜を呼びましょう」

酒井「今日は、実習で遅くなるって言ってたし、電話しても気が付かないと思います」

春恵「でも、連絡しないと」

   春恵、スマホを取り出す。

酒井「いいです。僕は一人で大丈夫ですから」

春恵「大丈夫じゃないわ」

   春恵、1番の登録番号の茜に電話をかけるが、留守電に切り替わってしま    い、残念そうな顔。発信音の後、

春恵「茜、おばあちゃん。酒井君がすごい熱

なの。タクシーで送るから茜も後で来て」

   春恵が電話を切り、具合の悪そうな酒井を心配顔で見る。

○タクシー車内(夕)

   後部座席に春恵と酒井が座っている。

   酒井は具合悪そうに眼をつぶって、ぐったりしている。春恵はスマホで電話   をかけるが留守電に切り替わりがっかりして電話を切り、酒井を心配そうに   見る。

春恵「……」

   酒井の膝の上の手を握ろうと手を伸ばすが、やっぱりやめる。


○酒井の部屋(夕)

   春恵が酒井をベッドに寝かせる。

酒井「すみません。ありがとうございました」

   春恵、散らかっているDVDや服などを手早くまとめる。

春恵「何か作るわね。冷蔵庫に何がある?」冷蔵庫を覗くと調味料ぐらいしか入ってない。

春恵「あら、何もない」

酒井「もう大丈夫です。寝てればよくなりま

すから」

春恵「大丈夫じゃないわよ。ちょっと買い物してくるわね」

酒井「でも……」

春恵「ちゃんと食べないと。人は食べたもので出来てるのよ」

   春恵が玄関を出ていく。


○創造芸術大学・写真学科・中(夜)

   茜がスタジオから出てくる。携帯を見ると、春恵からの着信履歴が十回近く   並んでいる。留守番電話を聞くと表情が驚きに変わり、走り去る。


○酒井の部屋(夜)

   酒井ベッドで眠っている。

   春恵がレモネードの材料をお盆に載せてベッド脇のテーブルに持ってくる。   酒井の寝顔を見つめる春恵。酒井の汗をタオルでそっと拭いてあげると、酒   井が目覚めてしまう。

春恵「あ、起こしちゃった?」

酒井「初めてかも」

春恵「え?」

酒井「病気の時にこんなに優しくされるの」

春恵「そう」

酒井「ずっと父と兄の三人暮らしだったから」

   酒井、安心した様子で目をつぶる。

春恵「レモネード作るわね」

   春恵、レモネードを丁寧に作り始める。


○スーパー前(夜)

   茜が袋を下げて足早に出てくる。


○酒井の部屋(夜)

   寝ている酒井の横でレモネードを作る春恵。レモンの雫が酒井の口元に飛ん   でしまう。ハッとする春恵。

   酒井は眠ったまま。

春恵「……」

   春恵は酒井の口元に飛んだ雫を静かに指先で拭う。その指先を見つめる。

春恵「……」

   ゆっくりとためらいながら指先を自分の口元に近付ける。

   静かに眠る酒井。


○夜道(夜)

   一人、トボトボと歩く春恵。公園を見つけて入っていく。茜が春恵を見かけ   るが先を急ぐ。


○酒井の部屋(夜)

   茜が入ってきて、レモネードに気付く。

茜「……おばあちゃん……」

   酒井が目覚める。

酒井「あぁ、茜、来てくれたの?」

茜「おばあちゃんが作ってくれたの?」

酒井「うん。そうみたい」

茜「飲んでみて。おばあちゃんのレモネード、

美味しくて元気が出るんだから」

   酒井一口飲んで、

酒井「うん。美味い」

茜「でしょ?……あ、アイス買ってきたんだ。

冷蔵庫に入れておくね」

酒井「サンキュ。切らしてたんだ」

   茜が冷凍室を開けると、すでにアイスが入っている。

茜「あれ?あるよ」

酒井「え?」

茜「……おばあちゃん……」


○公園(夜)

   ブランコに座ってため息をつく春恵。歩いてくる茜に気付いて、

春恵「茜」

茜「レモネードありがとう」

春恵「(優しく微笑んで)大丈夫そう?」

茜「うん」

   茜、隣のブランコに座る。

茜「……ごめんね。おばあちゃん」

春恵「ごめんって、何?」

茜「私、いままでおばあちゃんに悪いことし

てたよね」

春恵「嫌だ。何にも悪いことなんてしてないわよ」

   茜、春恵をじっと見る。

春恵、茜の視線に気づくが慌てて視線をそらして下を向く。

茜「おばあちゃん、(涙声になって)私、どうしたらいい?」

春恵「え?まぁ、どうしたの?」

茜「私、おばあちゃんが元気になって本当に良かったって思ってた。おばあちゃんが大好き。でも、ヒロ君も大好きなの」

春恵「……茜」

茜「せっかく元気になったのに、私のせいで

悲しませちゃうのは嫌。もう、私どうしたらいいんだろう。もうわかんない」

  泣きじゃくる茜を見て、涙を流す春恵。立ち上がって茜を胸に抱きながら、

春恵「ごめんね。茜をこんなに悩ませることになるなんて思ってもみなかった」

   茜、春恵に抱きついて号泣。

春恵「おばあちゃんは茜の幸せが一番大事なのよ。酒井君も茜の事が好きよ」

茜「でも、おばあちゃんが」

春恵「私は大丈夫。茜がこんなに思いやりのある子に育って本当にうれしい」

   茜の頭を優しくなでる春恵。

茜「おばあちゃんごめんね」

春恵「謝る必要なんてないの」

茜「うん」

茜、春恵の胸で泣きじゃくる。

春恵「……」

   茜の頭を優しくなでる春恵。


○稲垣家・外観

    

○同・寝室

   春恵がベッドで寝ている。枕元に体温計が置いてある。

   茜が入口の扉を少し開け、

茜「おばあちゃん。入って良い?」

春恵「茜?どうぞ」

茜「ひろ君もいるんだけど」

春恵「いいわよ」

   茜と酒井が入ってくる。

酒井「いかがですか?」

春恵「だいぶ良くなったわ。心配かけてごめ

んなさい」

酒井「いえ……」

春恵「(微笑んで)……あそうだ、風邪が治ったらカラオケ行かない?」

茜・酒井「え?」

茜「おばあちゃん行ったことあるの?」

春恵「この前、美術学科の友達と。おばあちゃん結構上手いのよ」

酒井「自分で上手いという人に限ってそうでもないんですよ」

春恵「本当に上手なのよ。もう」

   笑う三人。

茜「分かった。じゃ今度確かめに行こう。だから早く元気になってね」

春恵「覚悟しておいてね」

茜「はいはい」

   茜と酒井が安心したように笑いあう。

   春恵、チェストの上の広康の写真に目が留まり、ふっと微笑む。

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檸檬のしずく @aiko92

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