指よ動け(1)

「今度は補助なしで、やってみるといい」


 しかし少年の二本目の線は、へなへなと腐った植物のように弱々しく、かすれていた。目論見が外れたのか、いや。


「それを使って、文字を書くんだ。これが文字表だ、これを真似して書きうつしてみなさい」


 いちども文字を書いたことがない者に教えるのは、骨が折れることかもしれない。魔女は彼が才能を持たないというより、自分が買いかぶりすぎていただけなのだと思った。なに、気長に待とう。魔女は少年が悪戦苦闘しているあいだに、狩りに使う矢の鏃を磨いていた。机はひとつしかなく、魔女は自分の書き物ができなかった。


 日が昇り、沈むまで少年は机にかじりついていた。思うように使えないペンを、しかし必死で握った。やる気だけは旺盛であるらしく、何を書いているかは判別できないながらも、カリカリとやる少年の尻尾は揺れている。


 そうして日が暮れてきたころに、魔女は少年をはだかにし、沸かした湯に布を浸して絞り、彼のからだをぬぐってやるのだった。顔辺りを拭くと、顔をぶるぶると振った。水気は苦手らしい。


 一か月過ぎ、さらにもうひと月が過ぎる。魔女は不安を募らせはじめる。まだ、すべての文字の区別がつかないようだった。放っておいて外へ狩りに出ている間に、案外さぼっているかもしれないと訝り、一日中彼のそばにいた。用を足しに出る以外、ずっと椅子に座って文字を書いている。これは教え方の問題だろうか、と今度は自分を疑い、聞かれた質問にのみ答えていたのを、今度は自分から教えてやるようにしたが、うまくいかない。魔女の心配から不満が生まれ、不満は苛立ちへと変容していく。


「まだここの形がうまく書けないのか」

「馬鹿、そうじゃないと何度言えばわかる!」


 もうまたひと月経ったあたりから、このような厳しい言葉を投げかけることが増えた。自分の書き物も、もう三か月ほどやっていない。彼に時間を割いて研究が進まないどころか、後退してしまう気すらして、よくない。狭い家に、ピリピリした空気が満ちる。


 事実、少年は楽しく書いていたのだ。しかしそれは、いわば落描きを楽しむ感覚に近かった。彼は学びたい意欲に対し、文字を覚えることが本当に近道なのかよくわからなかった。魔女にはじめ手引きされるときは尻尾が勝手に揺れてしまうほど嬉しかったものの、近頃は彼女の機嫌が悪いというのも感じ取っている。それが嫌で、お母さんを喜ばせたいという心から勉強にいそしもうと意気込んで初めても、最後には空想の通り描くことに意識が奪われてしまうのだった。少年は天性の話し言葉と、文字習得に対する愚鈍さをもって生まれたのである。


「ぼく、べんきょう、へた?」

「下手だ」


 数か月前は話し言葉が下手と言われて何とも思わなかった少年の心は、それで大分傷んだ。


「ちょっと休む、いい?」


 ついに少年はそう言った。


「好きにしな」


 投げやりに言う魔女の言葉を受けて、少年は、逃げるように家を出、森に行った。久しくまともに吸っていなかった、その柔らかい空気を肺に吸い込むと、気分が入れ替わったような感じがする。


 彼は太い木の幹に腰掛けた。


 ――僕はなんで勉強する? ここでお母さんとくらすのに、勉強はいる?


 そんな思いが少年の胸を去来する。


 ――森のみんな、しゃべる? 人の言葉、分かる?


 それでも少年は、命を拾ってもらった母親の期待に応えたい、という思いを無意識に持っていた。息詰まるような感覚があるが、その気持ちを自分で言い表す言葉をまだ、知らない。


 少年はしばらく、何も考えずにぼうっとしていた。森は落ち着く。空気は澄んでいて、なんでも包み込むような力がある。


 ――お母さんに言う。やめたいって、言う。


 彼の獣のにおいをかいだ狼が、いつの間にやら彼を睨みつけていた。少年はいまだ、それに気付かない……事実森は平等なのだ。全ての生き物に対して……。


 少年がはっとしたときには、もうひと足に飛びかかってこられるような距離に狼は、いた。本能的な恐れに、足が動かない、飛びかかってこられたとき少年は逃げるすべを知らず、たた顔を手で覆うだけだった。


 ずぶり、と。右手薬指の付け根に、牙の食い込む感覚がした。すぐにやって来たつきあげるような痛みに、彼は悲鳴を上げた。

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