言葉を学ぶこととは

 その後二週間、魔女は少年の教育に文字を使わなかった。ただ音を発音し、彼に真似をさせ続けた。


 少年は長い間耳が聞こえなかったことに加えて、獣としての力も相まって、音にとても敏感だった。二週間たたないうちに現代語のみならず、古典語の複雑な発音を完璧に身につけた。言葉覚えが早かったこともそうだが、生まれつきのセンスがあったのだ。


 魔女も少年の才能には瞠目した。当初の予定では一か月ほどみっちり発音について練習させようと思っていたのだが、すぐにでも話し言葉の文法を教えてやれそうだ。


 そのうちに、少年の体にもかなりの変化が訪れていた。彼の狐耳は魔女の手のひらほどの大きさに成長しており、ちょっとした箒の羽のような尻尾を床に垂らしている。


 小さく肩幅の狭い体つきに対して、彼の異形はあまりに不釣り合いだった。すぐに体も追いついて成長するだろうと魔女はもくろんでいた。厄介だな、とため息が出た。狩りの手間が増える。


 少年はよく食べた。腹を空かせていた初日など、リンゴを五個では飽き足らず、加えてパンふた切れを与えてやったほどだ。ところで、魔女は食事を要しない。そのため彼女にとって食べることは味覚を喜ばせる嗜好という印象しかなく、食物の貯蔵はごく少なかった。それで、鹿狩りをしたのだが、運動を何十年と渋っていたせいで翌日体中が痛んだ。だがそれを焼いて与えたときの少年の満面の笑みに、まんざらでもない気分になる。そうして少年はよく眠った。


 魔女が彼を飼い始めた理由は、自らの知識の糧になるだろう、という割り切りからだった。今でも自分にそう言い聞かせている。しかし二週間ほどで、少年の自分への笑い掛け方がどんどん柔らかくなってくるのを見て、むずがゆい思いがしていた。


 その日魔女は少年の起き抜けに、書きものの手を止めて言った。


「そろそろペンの持ち方を教えてやろうか」


 話し言葉に飽きていた頃合いだったので、寝ぼけて眼をこすっていた少年は途端に耳をぴんと張って喜んだ。


「やっと僕、書き物、できる?」

「その前に、文法だ。いくら発音がうまくても、それを言葉の決まりに沿って使わなければ意味がない。お前を打ち据えるために、スキの柄があるわけではないだろう?」


 彼は曖昧にうなずく。


「よくわかんない」

「誰にも教わらず、文字もないところからでも、人は言葉を学ぶことができる。だが、文字という道具を使えば、何倍も早く身に着けることができる。なんのために、スキはある?」

「たがやす?」

「そう。――言葉を学ぶに際して初めに知っておいてほしいことがある。傷つけるために道具を用いてはならないのと同じように、人を傷つけるために言葉を用いてはならない。その瞬間、私はお前を手放すだろう」


 食べてやる、とは言わなかった。実際、食べるつもりがだんだん薄れていたので、魔女の選択岐にはそう言い放つこと自体がなかった。魔女は無意識に少年を傷つけることを恐れたのである。


「よく分かっていなさそうだから、早速始めようか。まず、ペンの持ち方からだな――」


 少年を椅子に座らせ、組み立て式の台を立てると、いらなくなった革袋をそこに広げる。魔女は少年の背後から覆い被さるような姿勢をとる。少年の手を取って、ペンを握らせた。


「そうだ、その三本の指で持つんだ――」


 魔女は大きな耳から香る獣の匂いをかぎながら、教えた通り羽ペンを握る少年にささやきかける。耳は敏感なようで、近くでささやくと彼はくすぐったそうに体を揺さぶった。


 魔女の手が動き、細い腕が引っ張られる。少年は生まれて初めて、ペンで線を引いた。加減が分からなかったようで、革袋が少し痛んだが、立派な太い線を確かにいま引いた。

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