第十一章 そして紡がれる英雄譚(1)
*
助けなくては、助けなくては。
大切なものを守るために。
大切なものを奪われないために。
助けなくては、助けなくては。
これ以上傷つけさせないために。
これ以上辛い思いをさせないために。
助けなくては、助けなくては。
助け……あれ? 俺はなにを助けたかったんだっけ?
わからない、思い出せない。
助ける、助ける、助ける?
助けるって、なんだ?
思い出せない。
なにか大事なことがあった気がする。だけど思い出せない。
思い出さなければいけないことがあった気がする。だけど思い出せない。
思い出せない、思い出せない、思い出せない。
……ああ、それにしても。腹が、減った。
*
体を揺さぶられる感覚に目を開けると、心配そうに覗き込む姫乃の顔が見えた。
「鹿倉……?」
色々な違和感を覚えながらも、姫乃の名前を呼ぶと彼女の表情が和らぐ。なんだかよくわからないが、喜咲が目を覚ましたことで安心したらしい。
喜咲は頭を押さえながら上体を起こす。
意識がまだボウとしている。頭が痛い。どこか眠りすぎた時の感覚に似ていた。
一体自分の身になにがあったのだろうか。意識がはっきりしてくるにつれて体のあちこちに痛みが走り、喜咲は顔をしかめる。
状況を確認しようと周りを見回し、喜咲は絶句してしまう。
炎が上がり、歪な鉄の塔が無数に床から生えていた。床は抉れ、ありとあらゆるものが破壊されている。
「こ、れは…………」
まるで爆撃にでもあったかのような惨状に、喜咲は混乱してしまう。
「……トモ君の中の『暴食』が目覚めたの」
苦虫を噛み潰したような顔で姫乃が告げる。それだけで説明としては十分だった。
意識を失う前になにがあったのか。そしてなにがあって自分が意識を失ったのか。理解して、思い出す。
なにげなく見上げてみれば、そこには夜空に紛れてわかりづらいが、黒い繭のようなものが浮かんでいる。そしてそこから黒い線が伸びるごとに、破壊音と細かい振動が伝わってくる。
きっとあれが智貴――いや、彼の抱える暴食なのだろう。
「私はどのくらい気を失っていたの?」
「三十分……ううん、多分、二十分ってところだと思う」
つまりあの暴食は、そんな短時間でこれほどの破壊をもたらしたのだ。
こうして今、自分が生きているのが不思議なぐらいである。と、そこまで考えて、二人ほどメンツが足りないことに思い至る。
「それより目が覚めたなら早く逃げよう。このままここにいたら私たちも死んじゃうよ」
「待って。遠藤とエルミールは? 二人はどうしたの」
姫乃は答える代わりに、喜咲の後ろを一瞥してから視線を逸らした。
嫌な予感を覚えて、喜咲はふらつく足で立ち上がる。そして姫乃が視線を向けたあたりに向かって駆けだす。
「喜咲ちゃん!」
制止するように姫乃が喜咲の名前を呼ぶが、喜咲は止まらない。
天井から落ちてきたと思しき鉄の柱。それを迂回して回り込んでみれば、そこに座り込む誠二の姿があった。
「遠藤……!」
見知った顔を見つけて、喜咲は安堵した。しかし直ぐに彼の様子がおかしいことに気付いて、その表情を曇らせる。
瓦礫と壁の隙間に入り込んでうずくまり、膝を抱えて何事かを呟き続けている。その瞳は焦点が定まっておらず、目の前にいる喜咲を映していない。
「僕のせいじゃない、僕は悪くない。彼女が勝手にやったんだ。僕は巻き込まれただけ、悪くない。僕は悪くない。絶対に悪くない。悪くない、悪くない、悪くない。僕のせいじゃない、僕のせいなんかじゃない。僕のせいじゃ――――」
壊れた玩具のように、似たような言葉をただひたすらに繰り返す。
尋常でない誠二の様子に、喜咲は思わず後ずさった。そして踵が硬質な物にぶつかった。
瓦礫の類だろうか。喜咲は反射的に振り返って、そして息をのむ。
そこにエルミールだったものが転がっていた。
おそらく、誠二を瓦礫から庇って自分がその被害に遭ったのだろう。腰から下がなくなっている。
しかし断面から溢れているのは血や内臓、骨の類ではない。
色彩様々なコードに、鈍く輝く金属製のフレーム。そして血によく似た、赤い油。
左腕も二の腕部分の服と肌が裂け、その下にある黒い人工筋肉が露出している。
それは人によく似た、しかし人ではないもの。機械でできた人形だった。
「――ジ、ジジジ」
思いもよらないエルミールの正体に喜咲が目を丸くしていると、エルミールの口から奇妙な音が漏れだす。
音は次第に大きくなっていき、やがて意味のある音となって響きだす。
「システムエルミールの再起動を確認。自己診断プログラム起動……ボディ損傷率七十六,八パーセント。PI異常なし。メインジェネレータ……応答なし。サブジェネレータ稼働率八十一パーセント。電源を予備に切り替えます。通常起動……不可。限定起動へ移行……不可。緊急限定起動へ移行……可能。プログラムを終了し、システムを再起動します」
直後、輝きを失っていたエルミールの瞳に光が灯る。
「う、あ。あ……喜咲様? 誠二様も……ああ、これはお見苦しいところを見せてしまったようで、申し訳ありません」
目を覚ますなり、エルミールが自身の惨状を見て謝罪した。
痛みや苦痛を伴わないその言動はあまりに非現実的で、喜咲は動揺から息をのむ。
「そ、そんなこと……ないわ。それよりその体は?」
「見ての通り機械製です。一応魂は生物由来のモノですが、諸事情により元の体が使えなくなったため、こちらの体を使わせて頂いてます」
なんと言っていいかわからない。喜咲がエルフであることを隠していたように、エルミールにも事情があるのだろう。
それだけのことと言えば、それだけのことだ。
だが、やはりなにを言っていいのかわからない。
喜咲が戸惑っていると、遅れて姫乃がやってくる。
姫乃はエルミールに意識がある事に気付くと、一瞬驚いてから、安堵したように胸を撫で下ろした。
「エル、よかった。気が付いたんだね」
「これは姫乃様……そちらも無事回復できたのですね。よかったですわ」
エルミールたちの会話を聞いて、喜咲は目覚めた時に覚えた違和感の正体に気付く。いや、正確には思い出した。
「そうよ、鹿倉。アナタはなんで無事なの? 銃で撃たれたはずじゃ……」
「それを説明するとものすごく長くなるから割愛すると、私は不死身の超生命体なのだわさ……と言っても、流石に魔王の断片には負けるけど」
「不死身ですって? そんな話聞かされてないわよ?」
「だって言ってないし?」
悪びれることなく言ってのける姫乃。喜咲は思わず胡散臭い瞳を彼女に向けるが、姫乃はまるで慣れていると言わんばかりに笑顔でそれを受け流す。
「喜咲様、お気持ちはわかりますがここはこらえてください。彼女の身元は私が保証しますわ」
「アナタ……いえ、アナタたちは鹿倉のことを知っていたの?」
「ええ。ですが、彼女の正体はある意味智貴様よりも秘匿する必要がある物でしたので。理事長と協議し、黙っていることにしたのですわ」
「彼女のチームメンバーである私たちにさえ、隠す必要がある事なの?」
「申し訳ありませんがその通りです。ですがこれ以上の糾弾はまた後程でお願いしますわ。今はこの場から脱した方がいいかと。もう数時間もしない内に智貴様を起点にして再地獄変が起こると思われますので」
言われて気付く。智貴の暴食が目覚めたということは、地獄変が起こる可能性があるということだ。
見上げてみれば、智貴を覆う黒い繭がかすかに大きくなっている。おそらくはあれが一定以上の大きさになると地獄変が起こるのだろう。
「すでに智貴様の黒い柱門化はフェーズ4に入っています。後一時間もしない内にラストフェーズに突入しますわ。そうなれば周囲十キロは時空が歪み、喜咲様でも逃げだすことは困難になるでしょう」
喜咲はエルミールを見やって、それから誠二を一瞥する。二人とも自分一人で逃げ出すのは困難に見える。
「アナタや……ここの職員の人たちはどうするの?」
「どうもしませんわ。見ての通り動けませんし。こう見えても今の状態で三十キロほど重量もありますから、連れて逃げるのも大変かと。職員の方たちは……自業自得のような物ですし、諦めてもらうしかないでしょうね」
「私たちだけで逃げろって言うの!」
「ええ、そうですわ」
心からの絶叫をサラリと肯定されて、喜咲は言葉を失う。そんな喜咲の手を姫乃が取った。
「喜咲ちゃん……無理だよ。ここにいるみんなを助けてたら、とてもじゃないけど時間が足りないもの」
「だけど」
「ここにいたら喜咲ちゃんまで死んじゃうよ? 喜咲ちゃんはそれでいいの?」
いいわけなどない。喜咲にはやらなければならないことがあるのだ。こんなところで死んでなどいられない。しかし――――
「穂群は、どうなるの?」
ポツリと呟かれたその言葉に、姫乃の手が強張るのを、喜咲は感じた。
「……彼は十年経って、黒い柱門から元の人間へと戻りました。そのことを考えれば、また十年前後で意識を取り戻せるかと」
「黒い柱門になっている間は?」
「レポート通りであれば、その間の記憶はないようですわ。どれだけの被害を引き起こしても彼がそのことを覚えていないのは、不幸中の幸いと言うべきでしょうか」
ギリッ、と喜咲は奥歯を強く噛みしめる。
なにが不幸中の幸いだ。
十年間意識もなく記憶も残らない。そんなのは死んでいるのと同じではないか。
それに前回、確かに智貴は黒い柱門から人へと戻った。だが次もそうなる保証はどこにもないのだ。
それこそ人類が滅びてもそのままである可能性すらある。
気に入らない。例えそうするしかないのだとしても、やはり、気に入らない。
「私は、穂群を助けに来たのよ。それなのに連れてきた仲間を見捨てて、更に彼の命まで諦めろって言うの?」
「お気持ちはわかりますわ。ですがそれも命あってのこと。まずは生き延びることを優先してくださいませ。生きてさえいればその後でどうすることでもできます。ですので、どうかお願いいたします。どうかこの場を逃げ延びて、この危機を理事長に――――」
「ふざけないで!」
エルミールの言を遮って、喜咲が叫ぶ。そして未だ倒れて動けないエルミールを睨みつける。
「アナタに私の気持ちなんてわかるわけない! わかっていたら、間違ってもそんなこと言えるわけがない!」
智貴は暴食を発動させる前に、自分を渡さないと言った。つまり、彼は自分を守るために暴食の力を発動させたのだ。
彼は決して誰かを傷つけたかったわけではない。
そのつもりがあれば、もっと早くに暴食を解き放つこともできたのだ。それをしなかったのは、彼が傷つけるのを厭(いと)ったからだ。
自分たちだけではない、悠馬やここの職員さえも、彼は傷つけるのを嫌がったのだ。
そんな彼を見捨てて逃げる? 死んだも同然の状態になるというのに?
そんなこと、できるわけがない。許容できるわけがない。
例え神が許したとしても、自分が許さない。
「私は、私は穂群を助ける。どうやってかなんてわからない。それでも絶対に、アイツを助ける……!」
それ以外など考えられない。
智貴は自分に報いてくれた。ならば今度は自分が彼に報いる番だ。
「無理だよ」
しかしそんな意思を嘲笑するように後ろから声が聞こえてくる。喜咲の手を握っていた小さな手に力が込められた。
「トモ君を助けるにはあの黒い繭から引きずり出して、正気に戻さなきゃならない。でも暴食の力は、分解と吸収。あの黒い光に触れれば、それだけであらゆる物を分解してしまう。多分、初が用意した対魔王用弾丸も暴食の前じゃ役に立たない。もしあの暴食に対抗できるとしたら、それは」
姫乃はそこで言葉を切ると、喜咲に向けていた瞳を逸らす。
「それは多分、永久機ぐらい」
絞り出すようにそう言ってから、キッと睨むように喜咲を見た。
「そこまでしてもトモ君を助けられるとは限らない。ううん、それでも助けられる可能性の方が低いぐらいなんだよ。どうあがいても喜咲ちゃんが返り討ちにあって死ぬ確率の方が高い。トモ君はそんなこと望んでないんじゃないの?」
望んではいないだろう。
彼は口が悪いし、性格も悪い。必要があればあらゆる手段を用いて、相手を叩きのめす。食い意地も張っているし、基本的に自分のためにしか動かない人間だ。だが、決して彼は自分から誰かを傷つけようとはしない。彼が攻撃をする時は常に先に誰かに攻撃された時。もしくは誰かが目の前で傷つけられようとしている時だ。
多少やり過ぎている所はあっても、彼は常に専守防衛に努めてきた。それはきっと、彼が意味もなく他者を傷つけることをよしとしなかったからだろう。
だから彼は望まないに違いない。彼を助けようとして喜咲が傷つくことなど。
「だから諦めるしか――――」
「嫌よ。諦められない」
それでも喜咲は、姫乃の言葉を拒絶した。
「私は穂群智貴を助けたい。助けなくちゃいけない」
「なんで、そこまでトモ君を助けようとするの……?」
「正直に言えば、理由なんてよくわからないわ。でも少なくとも、ここで救われてもいいぐらいのことを私にしてくれた。逆にアナタの方はどうなの? 鹿倉、アナタは穂群がここで黒い柱門になってもいいの? 黒い柱門になってしまえば、前のようにお喋りすることも、じゃれあうこともできなくなるのよ?」
問い返されて、姫乃の表情が歪む。
「いいわけないよ。トモ君は魔王の断片で、私たちがいた世界を壊した……だけどトモ君はヒナちゃんを助けようとしてくれた。私でもどうにもできなかったことをどうにかしてくれようとした。ヒナちゃんや綾ちゃんを除けば、私が学園で一番信用してるのはトモ君だけだよ」
「なら」
「でももう嫌なの! 目の前で仲のいい人たちが傷ついていくのは! 仲間を失って仲のいい相手が傷つくのは!」
姫乃が叫ぶ。まるで幼子が駄々をこねるように、感情をむき出しにして。
初めて聞く姫乃の心からの叫びに、喜咲が動揺した面持ちを向ける。
「お願いだから逃げよう、喜咲ちゃん。ここで逃げればそれが一番誰も傷つかない。もしもここで喜咲ちゃんがトモ君を助けようとして、逆に返り討ちに合えば、トモ君が悲しむ。もしもその後トモ君が目覚めても、自分のせいで喜咲ちゃんを死なせたとわかったら、絶対に悲しむ。私はそれが嫌なの……」
悲しげに伏せられる姫乃の顔。喜咲はそんな彼女に声をかけようとして、しかしなんて言えばいいのかわからず口を閉じる。
考えたこともなかった。
助けられなかったらどうなるか。助けようとされた側がどう思うか。
確かに命がけで助けようとする話は美しく、聞く者の心を打つだろう。だが、助けようとされた側がそれを嬉しく思うかはまた別の問題だ。ましてや助けた側が無事でないなら罪悪感や悲しみを覚えてもおかしくはない。
ならば、やはりここは逃げるしかないのだろうか。
喜咲は歯噛みして拳を握り締める。
しばし沈黙が四人の間を支配した。
だがいつまでもそうしているわけにはいかない。こうしている間にもタイムリミットはじわじわと近づいてきているのだ。
救うにしろ逃げるにしろ、早く結論を出さなければならない。
そう思って喜咲は顔を上げ、喜咲は眉を顰めた。
「……なんの音?」
時々響く破壊音に紛れて、なにかが近づいてくる音が聞こえてくる。
音のする方に顔を向け、そこにいた人物の顔を見て目を見開いた。
そこにいたのはボロボロになった草薙悠馬だった。
左腕は肘から下が異様なまでにはれ上がり、右足も引きずり、ねじれた鉄パイプを杖代わりにして歩いている。
「……けて…………たす………………か、たす…………だれか……」
その表情は虚ろで、誠二のように意識がはっきりしていないようだった。
彼はどこかに向かって歩いているようだが、特に目的地があるわけではないのかもしれない。そう思わせるほどに、憔悴し、やつれていた。
変わり果てた彼の姿に、姫乃も驚いた表情を浮かべていると、不意に悠馬の杖が床に開いた穴にはまってしまう。
杖を抜くことができず、悠馬はバランスを崩して倒れ込む。
だがそれでも悠馬は止まることなく、這いずるようにして前に進む。
「誰か、お願い、だ……助けて、くれ……」
そう言って腕を伸ばす様に、ついさっきまであった絶対強者と呼ぶべき迫力はない。
そこにいるのは助けを求めることしかできない、どうしようもないほどの弱者。立ちはだかる運命に敗れ、半分諦めながらも救済を求める者だ。
気付けば、姫乃の手を振りほどいていた。そして喜咲は膝をつき、力尽き床に落ちようとしていた悠馬の手を取っていた。
そこで喜咲の存在をやっと知覚して、悠馬の瞳に光が戻る。
「き、みは……神、宮? なん、で。どう、して……?」
戸惑うような悠馬の声。握った彼の手もそんな動揺を示すように震えている。
いや、震えている理由はそれだけではない。
「……鹿倉、やっぱり私は諦められないわ」
「喜咲ちゃん?」
悠馬が震えているのは動揺だけが原因ではない。むしろ動揺の成分はきっと少ない。
彼が震えているのはもっと単純に怯えているからだ。
この状況に恐怖し、怯えているからだ。
「誰かが目の前で助けを求めてる……そんな誰かの手を振り払ってまで、私には諦めることなんてできない」
見捨てることは簡単だろう。誰かが苦しんでいても見なかった振りをすればいい。
だが喜咲の最終的な目的は、エルフと言う種族そのものの救済だ。目の前の一人も救えないのに、そんな大掛かりな救済など果たせるわけがない。
だから喜咲は覚悟を決める。
「私は暴食を剥がして、この場にいる全員を救うわ」
それが無謀なことなどわかっている。
だがもうどうしようもない。それが必要なことなのだと、喜咲の心が訴えているのだ。
だから喜咲は立ち上がる。
悠馬やエルミール、そして智貴を助けるため、魔王の断片たる暴食に立ち向かうのだ。
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