四 花と獣 (4)

『馬鹿じゃあないのか』


 東雲が単身、南海へ向かうと言い出したとき、華雨は男のぼんくら頭をどついて吐き捨てた。東雲の細腕はろくに刀を扱えぬ。馬に乗るのだって下手くそで、箏姫ひとりうまく担げやしない。そのような男が単身南海に乗り込んで何ができるのかと。華雨は東雲がいかに考えなしかを挙げ連ね、何度も止めたが、東雲は言うことを聞かなかった。

 東雲という男は昔からそうだった。肝心なところでひとの話をまるで聞かぬ。東雲がこう、と決めたら、誰が何と言おうと、こう、なのだった。


『死にたいのか。この木偶が』

『そんなわけがなかろう。おまえこそ、馬鹿か』


 当時、南海は西と東の争いには一切関わらぬと公言してはばからなかった。

 南の龍と呼ばれた網代一族である。かつて西の将軍が恭順を唱え、領内に無断で踏み入ったことがあったが、これは首だけが丁重に西へと送り返された。南とはそのような場所だ。東雲が南へ行く、と決めたとき、であるから近臣たちは声を揃えてやめよと叫んだ。近頃はまともだと思っていたが、やはり東雲様はくるいの君だ、気がふれておられる、と陰で日向で悪口が飛び交った。

 東雲は素知らぬ顔で、荷造りを始めた。


『どうしても行くんか』

『おう』

『なら、わたしがひとりで――』

『はな。南海の王と会うのは俺だ』


 有無を言わせぬ口調で東雲は断じた。こういうとき、東雲の翠の眸は、常の穏やかさがすっと抜け、強靭な鋼の色合いに変わる。よく研いだひとふりの刀のようだった。思わず黙り込んでしまうと、皺の寄った華雨の眉間を東雲がつつく。


『そう案ずるでない。もしものときは、おまえがどうにかするだろ。はな』

『どうにかってなんだよ』

『どうにかさ。いつもそうしてきたじゃないか』


 胸を張ってのたもう東雲に呆れ返って、華雨はわらった。


『知るか。馬鹿、しののめ。龍に食われて、しんじまえ』

『ふふん。そのときは仲良く海の藻屑じゃ』

『勝手に藻でもあぶくにでもなれ。馬鹿やろう』


 言いながら、それもよいな、と思った。

 南の海で東雲と馬鹿馬鹿しく死ぬのも一興だ。


『はな』

『なんだよ』

『博打をやるぞ、はなと俺の運試しだ。もしも俺が生きて帝になったら、おまえに何でも好きなものをくれてやる。どうだ?』

『ようし、乗った!』


 差し出された手のひらにこぶしを打ち付け、華雨は言った。幼い頃、まだ少年だった東雲の肩越しに仰いだ金色の月のことを思い出す。きらきらと輝くあのひかりは未だ、華雨の瞼裏に焼き付いている。

 ――はながおらんと、俺も面白うないでな。

 そう悪い遊びみたいにささめく東雲の声。

 今も昔も変わらず、ふたりで馬鹿をやっているのがおかしかった。


『東都を落とせば、東廻りの航路が開けるぞ。いかがか、南海の王』


 東雲の天職は、ともしたら博打打なのやもしれん。無事、南海の王と対面を果たした東雲は、不可能と思われた同盟を成立させ、これが西方の情勢を大きく変えることとなる。東雲の大博打はたぶんこのあたりから始まったにちがいなかった。


 *


「早い」


 本陣で、撤退する西軍を見据えていた百川千丞が呟いた。

 はじめこそ、追い立てた迂回軍の憔悴ぶりに勢いづいていた百川であったが、高揚が冷めてくると、戦慣れした者などは何やらおかしい、と首を捻った。戦場を駆る兵には、独特の獣くさい熱がある。どこがどうおかしいとは言えないが、その熱が希薄に思えたのだった。


「これは」


 千丞の落ち窪んだ目がかっ、と見開き、軍配を上げる。

 千丞が深追いはやめよ、と命を飛ばしたそのとき、華雨は本陣西側の岩山にいた。霧が覆っているせいであちらからは見通せないが、華雨からは百川本陣の旗がちらほらと見える。と同時に、撤退する兵を追って、一本道の奥深くまで侵入している百川兵の姿も見渡せた。


(これは、勝ちだな)


 下る前から、すでに華雨は確信していた。知らず、笑みが乗る。はるか下方、見渡す崖は絶壁とも呼べる斜面だ。ゆえ、ゴジョをはじめ、万葉山をさんざ荒らした山賊どもを連れてきた。どうだ、と尋ねれば、こりゃあ血が騒ぎまするな、と華雨と同じことを口にした。

 馬の腹をぐんと蹴る。


「続け」


 華雨は言った。




 さながら一陣の風であった。岩山から下り立った西軍だ。


「回り込まれた」


 千丞は確信した。

 撤退を命じたそのすぐあとに、森林とは反対の岩山から馬の足音が轟いたためだ。おののく兵らを蹴散らし下り立った一軍は、側面から本陣を直接攻めた。見る間に近づく馬に、千丞も腰を上げざるを得なくなった。


(鵜飼め)


 舌打ちする。ふもとの霧が晴れると、正面軍が思ったよりまばらだったことに気付く。森林からの迂回を含めた陣形は、敗走を装った迂回軍を追わせ、瓦山の一本道の深くへ百川の本隊をおびき出す鵜飼の陽動策であった。西軍の狙いはむしろ、岩山からの本陣側面の直接攻撃にあったと言えよう。迂回軍の進みがやたらに遅々としていたのは、百川側の目をこちらに引き寄せる役目もあったにちがいない。


(鵜飼め!)


 もう一度、千丞は唸った。

 まんまと鵜飼の策に乗せられた己が情けなかった。


 千丞は、五十半ばで百川の棟梁となった晩器である。

 戦場で馬を駆れば、めっぽう強かったが、それ以外はさしたる才もなかった。その千丞に東方帝が衣を下賜した。二十年以上前、鞠ノ井への行啓のさなかのことで、当時はまだ皇太子の身分だった。名を、かなえ。『瓦』の地に一泊した。

 『瓦』は山がちで、東都の華やかさとは無縁の田舎である。それでも、精一杯のもてなしをしようと、力自慢の男どもを集めて相撲をした。勝ったのが千丞だった。泥くさい男たちの取っ組み合いを、鼎は御簾内から物静かに眺め、勝敗がつくと千丞を呼んで衣を与えた。たいした腕っぷしじゃ、と凪いだ眸を細めて呟く。何やら清げな香がかゆらいで、よい生まれの方とはこうもちがうものなのか、と驚いた。

 そのたった一度きりだった。

 東方帝自身も、覚えてはいまい。

 されど、その一度が千丞には、生涯一度である。

 下賜された衣は美しかった。このために買った螺鈿細工の衣桁にかけ、大事な日にだけ外へ出す。鼎の即位が決まったと聞いた日には、皆で酒を飲んで祝った。あの衣は今も、屋敷の奥間にかけてある。


(己を賭すには、十分の理由であろ)


 向かってくる馬は何十頭といたが、そのうちのひとつが狂馬だった。目を剥き、泡をまき散らしながら、総崩れになった兵をなぎ倒し、本陣へ疾駆している。


「馬を」


 恐れを抱いた側近が、脱出をほのめかす。

 しかし、千丞は太刀を取った。何ゆえか、その狂った武者の顔を拝みたくなった。単騎で攻め入るなど阿呆のすることだ。ゆえにこそ、見てみたくなった。千丞も、歴戦の猛者である。その血が騒いだ。あるいは、己の死期を悟ったのやもしれない。


「百川千丞か!」


 陣幕が、だん、と落ちる。

 現れたのは、獣だった。髪も衣も血に染まり、齢も顔つきもよう見えぬ。されど、獣だ。獣がおれの喉を食い破りに来たのだと千丞は思った。武者の刀がごう、と唸って千丞の首を奪わんとする。数多の戦地をくぐり抜けた愛太刀でそれを受けた。華雨は舌打ちすると、馬を乗り捨て、さらに刀を薙ぎ払う。そのとき別の方向から、何かが華雨の肩を貫いた。


(矢か)


 一瞬動きを止めたが、次には引き抜き、千丞を守ろうと刀を振りかぶった兵の目玉を突く。矢傷、刀傷のたぐいは身体のそこかしこにある。されど、まだ動ける。まだ、走れる。それが肝要だった。


「名を聞こう」

「華雨だ」

「なんだ、女か」

「ちがう、獣さ。この国の頂に立つ男の獣さ、覚えておけ。名を東雲!」


 千丞と華雨、双方の刀が閃く。


(はしって、はしって、はしって、)

(はしって、)

(息の根がとまるまでわたしは)

(死なん!)


 千丞の太刀が、ずん、と腹を破る。

 肉で刀が止まった。それでよい。それでよかった。

 華雨は千丞の首をぶった斬った。

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