愛無き愛児~Before The Storm~

「やっぱり、こういう時は慈姑か」

 大手町駅から三田線で神保町へ向かい、樹木書店に向かう途中にあったカレー屋でカレーライスを腹に入れる。

 樹木書店では、カウンターで幸也が古書に値札を貼っていた。

「どうもおじさん、慈姑いる?」

 三月が店に入っても顔も上げずに作業していた幸也は、やはり顔を上げずに答える。

「今日はいない」

「ほかの古本屋でも見に行ってるの?」

 いくら慈姑といえ、一日中ずっと店の奥で本を読んでいるわけではないのは三月も承知している。そういう時は決まってほかの古書店を覗きにいっているということも三月は知っていた。

「さあな。朝起きたらもう姿がなかったから、あれは今日は帰らないかもしれん」

 会話がなくとも、行動からパターンを推測できる。幸也と慈姑はそういう関係だ。ほんのわずかなリズムの違いからさえ、幸也は慈姑の行動を予測している。そしてそれがほとんど的中するのが、この親子の信頼の証左である。

「なーんだ。慈姑に話したいことあったんだけどなー」

「日本妖怪愛護協会」

 幸也が独り言のように呟く。三月ははっとして幸也の表情を窺おうとするが、幸也はいつも通りの仏頂面で値札を貼る作業に集中している。

「庄内書房の礼子にも声がかかったそうだ。あいつは断ったと言っていたが」

「待って、おじさん、どこまで知ってるんですか?」

 三月はあくまで事件の相談は慈姑だけに話している。店の奥のスペースと幸也がいるこの店内は壁で隔てられ、遮音性は高い。立ち聞きしていたというのは幸也の性格上からも考えにくいし、慈姑が幸也に喋ったというのもありえない。

「神保町の古本屋の間では、その日本妖怪愛護協会は公然の秘密だ。妖怪、民俗学、文化人類学――そうした資料を扱う店は多い。礼子ほどじゃないにしても、妖怪が好きって輩は結構な数いるし、客にも多い。そうなれば今の妖怪騒ぎには敏感になるし、その機関から声がかかる連中も店側客側含めて出てくる。礼子は慈姑がそこに顔を出すべきだと言いにきたんだが、ろくな会話にならなかった。俺が三月がいるから大丈夫だろうと言って丸く収めておいたが」

「そこ」

 三月は指を立てて幸也の言葉を指摘する。

「おじさん、私が日本妖怪愛護協会に配属されたって知ってたんですか?」

「慈姑が本を買う金は、全部うちの店の経費ということにしている。だから何を買ったのかという領収書は全部出させてるし、その時どういう系統の本を集めているのかはこっちでも把握している。お前が勤務中に顔を出すようになってから、慈姑は妖怪系のコンビニ本を集めだした。そこにきてこの馬鹿げた妖怪騒ぎだ。お前がこの騒ぎの端緒を追っていて、慈姑がその資料を集めていた――そんなところだろう。そうなればこの騒ぎのあと設立された日本妖怪愛護協会に繋がりがないと考えるほうが不自然だ」

 淡々と見解を述べながらも、やはり一度も顔を上げない幸也を見つめ、三月はぽかんと口を半開きにしていた。

 慈姑の父親で、ただの古本屋の親父だと思っていたが、ここまでの洞察力を持っていたとは――いや、慈姑とのコミュニケーションを取らない生活を円満に進めるために、実はこの能力をフルに活用しているのではないか。そこには当然前提として信頼関係があるとして、それを確実に履行するために幸也が見えないところで頭を使っていたということか。

「それで、慈姑はなんて?」

「なんても何もない。あいつはお前以外と喋らないからな。ただ、買い集めたコンビニ本を持って、しばらく家のほうに引っ込んでたな」

 恐らく幸也は慈姑が次に取るであろう行動の予測がついている。そのことに感づいた三月は聞き出そうとするが、幸也は知らんの一点張りだった。

 そこで三月は気づいた。幸也の予測を聞いて三月が行動したことが慈姑に知れれば、慈姑と幸也の信頼関係に楔を打ち込むことになりかねない。幸也は慈姑と口を利かずに今まで親子の関係を保ってきた。それを可能にしていたのは幸也の洞察力によるところが大きいことを、今頃になって三月は理解した。だが幸也は慈姑には直接干渉せず、あくまで陰から見守っている。幸也が全て承知の上で慈姑の自由を許していたことが明るみに出れば、そこになんらかの不和が生じる。誰だろうと他人に自分だけの領域を侵されるのは忌避する。それは慈姑も例外ではないはずだ。

 自分が知らず知らずの内に薄氷を踏んでいたことに、三月は苦笑する。本当にこの親子ときたら――この二人のケースを思うと時々父親を憎んでいる自分が馬鹿らしく思えてくるが、今回は色々な意味で一入だった。

「わかった。じゃあ慈姑が帰ってきたら、私が来てたことは伝えといてね」

 幸也がぶっきらぼうにそれに応えるのを聞くと、三月は樹木書店を出て腕時計を眺めた。

 集合時間まではあと三時間ほど。大嶽のように一度神田署に顔を出すことも考えたが、温かい歓迎は絶対に期待できないし、三月もお断りだった。

 三月の目が、ひとりでにぎょろりと動いた。

 違和感も不快感もない。ただ自分の意思ではなかっただけで、ごく自然なことのように思われた。

 動いた目に合わせて顔を向けると、道端に立っている子供が目に入った。その姿を見て三月は得心する。礼子が話していたかぶきり小僧と全く同じ風体をしているのだ。

 襲われるかもしれないという不安より、人を襲う前に止めなければならないという義務感――あるいはどんなものかと確かめたいという好奇心が勝った。

 かぶきり小僧に近づき、見下ろす。かぶきり小僧は困惑したような顔で三月を見上げていた。

「あれ……? 話せる――」

 かぶきり小僧はわけがわからないといった様子で口を開く。

「あなたって、かぶきり小僧?」

 三月が訊くと、かぶきり小僧は必死に何度も頷く。

「あたしは、そうです。かぶきり小僧です。あなたは一体――」

「いや、聞きたいのはこっちなんだけどね。私は日本妖怪愛護協会の鬼島です――これでいい?」

 笑顔で答える三月を、かぶきり小僧はやはり困惑した顔で見上げていた。

「あ、あなたがどんな方なのかは存じませんが、お願いです。助けてください」

 襲われてるのはこちら側なんだけどね――とは口には出さない。どうも相当差し迫っているらしいことがなんとなくだがわかる。

「まあまだ時間あるから話は聞くけど」

 連続傷害――あるいは殺人事件を起こしている相手とどこかで落ち着くというわけにもいかないだろうと、この場で話を聞くことにする。そういえば慈姑が柳田国男が妖怪は場所に涌くものだと定義していたというようなことを話していた記憶がある。慈姑は妖怪を定義する努力は必要だが基本的に無理があるとぼやいていたが。

「あたしが、あたしでなくなっていくんです。もう『水飲め、茶飲め』とも言えなくなっている。ただ斧を振り回して人を襲うことしかできないんです。あたしはそんな妖怪じゃないはずなのに――いえ、今となってはそれももうわからなくなってきている。あたしは全く別の妖怪にすげ替わっていってるんです」

「いや、あなたこうして私と話してるじゃん」

 そう、かぶきり小僧の話の通りなら、三月は問答無用で斧で襲われている。ところがかぶきり小僧は、まるで殺傷は自分の意思ではないとばかりに三月に助けを求めている。色々と突っ込みどころが多すぎるのだ。

「そうです、そこがどうにもわからなくて――」

 そういえば三月が声をかけてから、かぶきり小僧はずっと困惑しっ放しだった。この事態は当人にとっても全くわけがわからないのだ。

「うーん、じゃあ、日本妖怪愛護協会にくる? 名目は妖怪の愛護なんだから、害がないなら愛護してもらえるんじゃない?」

 いやしかしとしばらく逡巡していたかぶきり小僧は、結局三月についていくと宣言した。

「あたしがこうして自分を保てているのは、多分あなたのおかげなのです。ですから、どうかあなたと一緒にいさせてください。あなたが行くのが日本妖怪愛護協会なら、お供いたします」

「はあ、まあいいけど」

 畏まられるのも懐かれるのもどうかと思う。害意は本意でないことは理解できるが、一応相手は連続殺傷真っ最中の妖怪なのだ。

 そういうわけで三月がかぶきり小僧と仲良く歩いているところを善良な一般市民の方々に見咎められたらどうしようかと思ったのだが、杞憂に終わった。かぶきり小僧の姿は普通の人間には見えないようなのだ。これが妖怪の本来の在り方で、国中で妖怪が見られていることのほうがおかしいのだろう。三月は見鬼となった――戻ったことで、本来存在しないかぶきり小僧を知覚できている。

 宮内庁の庁舎に戻ったのは、集合時間の一時間ほど前だった。急いで戻っても誰もいないだろうと思い、かぶきり小僧を連れて皇居の周りを何をするわけでもなく歩いて時間を潰した。

 会議室に入ると、山住が電子煙草をふかしていた。人が入ってきたことで慌てて電源を切ろうとするが、その前に山住の目が三月の隣にいるものを捉えた。

「動くな」

 山住の鋭い声に、かぶきり小僧はびくりと身体を震わせる。

「山住さん、その物騒なのを引っ込めてくださいよ。この組織の名前、忘れてません?」

 山住の足元で唸り声を上げる犬――恐らくは狼を指差し、三月はへらへらと笑って宥める。

「あんた、それは――」

「かぶきり小僧ですね」

「やっぱりか。そいつが何を仕出かしてるか、わかってんだろ」

「はあ、とりあえずこいつは斧出しませんし、襲ってもきません。至って落ち着いて話もできます」

 ねえと同意を求めると、かぶきり小僧は怯えながら何度も頷いた。

「ただいま戻りましたー、って――」

 咲の声がしたので三月は振り向いてお帰りなさいと笑う。だが咲が目にしたのは明らかに敵意を剥き出しにした山住と、それにへらへらと笑いながら向き合っている三月――つまり剣呑な雰囲気は、入ってきた段階でいやでもわかる。

「山住さん鬼島さん、何かあったんです――か?」

「かぶきり小僧だ」

 山住が低く告げる。

「その刑事が連れてきやがった」

「ええっと、斧で襲ってきたりは……?」

「しませんね」

「まだわからん」

 三月と山住の相反する答えに目を回しながら、咲はとりあえず座りましょうと椅子を二脚転がしてきた。

 どうもと笑って椅子に腰かける三月とは対照的に、山住は結構だと立ったままかぶきり小僧を睨み続けた。

 咲は困ったように笑いながら、山住のために持ってきた椅子に自分が腰かけた。三月などはそれを見てあまりの緊張感のなさと間の抜け具合に笑みがこぼれてしまうが、山住は厳しい表情のままだ。

「ただいま戻りました」

 大嶽が入ってきて、そのあとに金沢と少佐が連れ立って入ってきた。山住の立ち振る舞いを見て、皆一様に何かあったのだと察する。

「皆さんお揃いですね」

 最後に十塚が現れると、見鬼以外の面々がぎょっと目を剥く。

「それは――」

 金沢が全く臆することなく、研究者の目でかぶきり小僧を観察する。

「え、見えるんですか?」

「十塚さんが入ってきたら、突然」

 椅子の背もたれに半分顔を隠し、咲が頷く。

「どういうことです、十塚さん」

「いえ――私にもわかりかねます。先ほどの六三の例もありますし、見鬼の場に対する濃度が増すことでほかの人間にも影響を及ぼすのか――それよりも、その妖怪は」

「かぶきり小僧ですよ」

 それを聞いて、少佐が一歩飛び退いた。

「連行してきたんですか?」

 蒼褪める少佐に訊かれ、三月は苦笑する。

「なんか、話してたら懐かれちゃったみたいで」

「話せるのですか?」

「はあ、私が話しかけたらなんかややこしい話をしてくれましたけど」

 金沢が十塚に視線を送る。十塚は頷き、山住に式を納めるようにと言った。

「会話が可能であるようなら、試みる価値はあります。ただ――」

 十塚は会議室の壁にかけられた電波時計を見上げた。四時をわずかに過ぎた頃。

「今は時間がありません。黒沢氏襲撃の打ち合わせが先です。鬼島さん、そのかぶきり小僧はあなたの命令を聞きますか?」

「どう?」

 三月が訊くと、かぶきり小僧は力強く頷いた。

「どうも聞くみたいですね」

「では我々が許可しない限り、この部屋からの退出を禁止させてください」

「だそうだけど」

 やはり従順に頷く。

「だそうです」

「危険性は――今のところないようですね。十塚さんは襲撃組ではないですから、ここに残って監視してもらえますよね」

 少佐が未だに少し警戒しながら言う。十塚は頷き、スペースの空いた机のほうへと移動する。もう完全に切り替えたらしい。

 デスクの周囲を指令の十塚を中心に、襲撃組の少佐、山住、三月が囲み、ほかの者たちは一歩引いたところで作戦に耳を傾ける。

「作戦――と呼べるようなものではありませんが、とにかく決行はこのように。当然予期しない事態は発生する前提で行動してください」

 三月たち三人は期待を込められた無言で見送られ、わざわざ宮内庁庁舎の前に停められてあったセダンに乗り込んで目的のイベント会場へと向かった。

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