色彩

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 ――音が、しない。


 朦朧とした意識のなか、古謝はうつろに耳を澄ませていた。今がいつなのか、窟に入ってからどれだけ経ったかわからない。

 目を塞ぎ手足の感覚をなくし、匂いも味もなくなった。飢えと渇きは不思議とおさまっている。

 静寂。凪いだどろつく闇のなかで古謝は身体を失い縮こまる胎児だ。耳を澄ませても何の音もしない、ただひとつの音のかけらさえも。

 きんと冷えきった無音空間に頭がおかしくなりそうだ。空気を失った魚のように息がつまる。音と一緒に酸素も奪われてしまったみたいだ。

 古謝は自分が死んだような気がしてきた。肉体との繋がりを失ってからはあてどない音の形を求め、意識だけが暗がりをさまよっている。音が聞きたければ声をあげればいいのだが、体との連携が取れない今は歌のひとつも歌えない。


(音、音、音、――……なんでもいいから)


 頭を掻きむしりたいのに頭がない、両手で弦を弾こうとしても手を感じない。

 風のそよめきも鳥の声も、太陽も冬の寒さもわからなかった。

 なにもなかった。なにも。手探りでどろつく暗やみを漂い、すこしでも感覚をと求めている。これが死か。だから嫌だったのだと古謝は泣きたくなる。


(音楽と離れるのが嫌だったのに。演奏できないのも歌えなくなるのも嫌だ)


 無音の空間がなにより明確な「死」となり古謝を苦しめた。楽がなければ生きている意味がない、聴けない耳や弾けない指には意味がないのだ。ここに存在する意識ですら古謝には無用の産物となりかけている。

 なんのためにここにいるのか、いっそ消えた方がいいのでは?

 それでも諦めきれない音楽への渇望で途絶えそうな意識は保たれていた。重みある暗がりをかきわけ、精神が息をしようと彷徨い続ける。


(音、音、音、音!)


 やがてひと筋の白光が見えた。

糸のようにか細いそれは目の前を鋭く一瞬で通り過ぎていく。キィンと鳴る鉄琴を叩くような一音。

 古謝はそれを目ではなく意識の全てで追った。

 キィン、キィン、鳴る音は白く細い糸のような形で、放たれた弓のように先へ進んでいく。それを追いかける古謝の意識は疲れてきた。


(速い!)


 それでも必死に音を追うと、色とりどりの音の形があとからあとから現れてきた。古謝の真横を一瞬にして通り過ぎていく。

 龍笛の音が紫の直方体となり、勢いよく走っていく。

 月琴のやわらかな音は緑の巨大な球で、弾みながら古謝を追い抜いた。

 足もとを小さく転がる白の三角は三味線の和音、ふわふわの雲に似たつらなりは女の人の声である。

 丸、三角、四角、直線的でない形やありふれた生活用品、見たこともない化け物までありとあらゆる音が一直線に、古謝よりも早く暗闇の先へ進んでいく。

 極彩色の物体の塊を古謝は一心不乱に追いかけた。

 走って、走って、やがて見覚えのある『形』を見つけた。透明なそれに色はなく触感もない、古謝はそれを掴みにぎりしめる。ありありと形を指で思い描けた。

 それは十三本の弦だった。象牙製で先のとがった極限にうすい爪を指にはめる。こげ茶の乾いた木の胴に、しゃんしゃん響く音の形。


「筝だ。俺の筝だ!」


 自分で改良した持ち運びのできる簡易筝だった。迷うことなくそれを掴んで、失くさぬようにしっかりと肩にかける。

 古謝は通り過ぎていった音の形たちが何だったのかを、そのときようやく理解した。

 振り向けば頭上の闇から音が色とりどりに降りてくる。誰かがこの闇の先で、――ずっと見えない天上で気まぐれに音の形を落としてきている。


「わっ!」


 後方からまた勢いよく現れた音の形に古謝はのみこまれた。目を回しながらも、必死にそれを追いかける。


「待って!」


 見つけた神衣曲は質量をともなう形となり古謝の意識と耳を翻弄した。寄せてはかえす音波の形にのまれている。


「弾ける。これなら弾ける!」


 何度も何度もその波にのまれ繰り返し見て、古謝はのこる感覚・第六感のすべてで音の形を記憶した。これが神衣曲の形なのだ。





 古謝は目を見開いた。

 現実の視界が目の前に戻ってくる。

 ゆっくりと足に力を入れてみた。窟のなかで極限に衰えた体は動かないはずなのに、以前より生き生きと動かせた。たった今知ったばかりの神衣曲が耳奥でくすぶり、無限の力を与えてくれているようだ。目隠しを取ろうと両手を揺らすと、戒められていた鎖枷が外れ落ちた。


「よくやった」


 窟の扉が開いていた。眩しさに目を細めた先に魔醜座がいる。彼は古謝が曲を習得し終わったことを悟り、外へと連れ出してくれた。

 窟から出た瞬間、すべての事象が古謝へ暴力的に襲いかかってきた。

 身体の感覚と目の前の景色。まばゆいと思ったのは魔醜座の掲げる手燭で、外はびっくりするほど明るい満月だった。裸足で踏みしめる土は固く心地よいつめたさだ。足の怪我と痛みが刺すように響いていた。両手がしびれ、指はいつになく強張っている。肌に触れる風の質感、その温度――秋が近づいてきた空気はすこし肌寒い。

 息を吸いこめばそこにも感覚が溢れかえっている。外気に満ちる生気の数々に古謝はぎょっとさせられた。感覚が鋭敏になりすぎている。すべての事象が鮮烈に主張し古謝の命を押しつぶそうとしてくる。


(今弾かなければ耐えられない)


 古謝は死を悟っていた。この身はすでにうつし世には適さなくなってしまった。


「俺の筝……はやく!」


 怪訝な顔の魔醜座はそれでも簡易筝を持ってきてくれた。

 先ほど窟の中でやってみせたように、それをしっかり肩からかける。もう失くさない、この音だけは絶対に。


「すこし休め。このままではお前の体が」


 古謝は無視した。魔醜座の声が終わる前から聴力を切り、無駄な感覚をいっさい遮断した。


(まだ覚えてる、今なら)


 頭の奥で音の塊たちがいっせいに素早く走り抜けていく。

 澄みきった夜空の星影でいっさいを見守っていた龍神は姿を現すと、言葉にならぬひと鳴きで「筝を奏でよ」と古謝にささやいた。

 シャン――ひと振りかき鳴らした弦の音が、不思議なほど遠くまで響く。空気をふるわせ微風を起こし夜の空気を引き絞る。


「う」


 魔醜座は危険を感じてとっさに後ずさっていた。この夜のすべてが、空気の粒全てが古謝の奏でた筝の一音に鷲掴まれた。おのれの身ですらも、操り人形のように今や古謝のものだと魔醜座は身をもって実感していた。

 すぅぅぅと息を吸う古謝の口から得もいわれぬ音が奏でられた。



〽♩―♩―――、θπΣΔ―――、

 ♩♩―♪――、₩ฺ ₾ฺ ₿ฺ―――ッ!!



 人の声ではない、もはや言語を成さなかった。高低両方の音を喉奥から同時に出し、子音がとろけて母音がくぐもっている。不可思議な質感の響きが耳を犯していく。

 びりびり響く金切り声は夜闇を引き裂き、空間の色を変えてしまった。暗みがかった夜をうす紅に変え、白月を真っ赤に塗り変えると土の色ですら紫にして揺り動かした。


(ちがう、侵されているのは私の感覚のほう)


 魔醜座はとっさに両耳を塞ぎ目を閉じた。あと数瞬でも聞き続ければ気がふれていただろう。

 古謝が発した歌は暴力的で、聴く者すべてを狂わせる美しさだ。ただびとには発想も演奏もできない、隙ない真理を含む完璧な音だった。

 魔醜座は膝を折り必死に両耳と目を塞ぎ耐えていた。完璧な古謝の歌が目の前のすべてを造りかえ、脳みそを根本から揺さぶっている。これは人が聴くべきではない音楽だ。百秒、千秒にも思えた拷問のような甘美さは、気づくと遠のき聞こえなくなっていた。

 慌てて目を開ければ古謝の姿がない、消えている。


「どこに!?」


 後宮の奥へと古謝は歩き去っていた。

 空をあおぐと黒雲の影に龍神の姿が見えた。音にうっとり寄り添い古謝につき従っている。大きくも長いその尾が進む先を魔醜座は追いかけていった。

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