取引

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 楽舎の裏手、倉庫が並んだ林の奥には誰も足を運ばない秘密の庭がある。あかいサルスベリと白い夏ツバキの花が咲く風の強い庭だ。

 古謝は足しげくそこへ通っていた。

 蓮が柘榴帝の寵を得てからというもの、自分の宮が賑やかで慌ただしくなった。運ばれてくる高価な品々や増えた警護、とりまきの鎮官たちを避けて落ちついた場所で筝の研究をしたかったのだ。新たな弾き方を工夫したり弦糸を変えてみたりして、筝の奥深さを踏破しようとしている。最近では新しい筝作りにも夢中になっている。木の胴を大きくし本来十三本の弦を十七本にまで増やせば、より多彩な音が出せることに気づいたのだ。

 見本品の十七弦筝をつま弾き、今日も古謝は裏庭で譜面づくりにいそしんでいた。

 誰に言われたわけでもないが、古謝には自然とどうすればいいのかがわかるのだ。音楽の探求は楽しく古謝はいつまでもこうしていたかったが、あいにくと自身の体が限界を訴えはじめていた。近ごろ視界がますます暗くなり、手に力が入らぬ日が増えている。急速に衰えつつある視力に抗い、古謝は紙と目を極限まで近づけて必死に譜を書き記す。視力は楽器の演奏にも大きくかかわる部分だ。目が見えなくなる前にやらなければならないことが古謝には多くあった。

 そんな鬼気迫る古謝のもとに、今日も柘榴帝がふらりと現れた。

 前にここで会ったときには誰だかわからなかったが、近ごろ蓮に会いに頻繁に宮へ顔をのぞかせるのでそれが柘榴帝だと古謝もわかっていた。わかったところで互いの態度が変わることもなく、会えば世間話に興じるくらいの仲だ。けれど古謝は一人になりたかった。静かな場所で譜を書きたいからわざわざここへ来たのに、柘榴帝の相手をしている暇はない。無視して譜を書き続けていると、黒衣の青年はかってに隣に座り物憂げにため息をついた。


「最近、蓮の様子がおかしいんだ」


 古謝は無視をきめこんだ。柘榴帝はかまわずしゃべり続けている。


「一日中ぼうっとしてろくに何も食べない。俺がこまごま様子を見に行って、昼を一緒にとったり夜に食べさせたりはするけど、食欲もないみたいだ」


 たしかに蓮の様子は最近おかしかった。演奏を邪魔された件でまだ怒っている古謝は面とむかって話さないが、遠巻きに見てもそれはよくわかる。

 蓮は近ごろ寝台でずっと虚空を眺めている。あれだけ真面目でだらしないことにうるさかったのに、己の髪も整えず寝間着のまま一日中じっとしている。抜け殻のような蓮と一緒にいたくなくてここへ来ているのもある。あの淀んだ空気のなか、顔色の悪い蓮のそばにいるとこちらまで気分が沈んでしまう。


「君、何か聞いてない?」


 問いを向けられ、しかたなく口を開いた。


「知らない。どうして蓮を罰さなかったの?」


 うるさい相手を黙らせようと刺々しく聞いたら、相手は痛そうに顔を歪めた。


「なにも起きてないのに、何を罰する必要がある?」

「嘘。俺、知ってるよー」


 蓮が柘榴帝を殺そうとしたこと。「七夕の会」で複数の鎮官が不慮の事故で死に、その原因がどうやら蓮にあることも。


(それから俺の筝も、弦を切られたんだ!)


 握りしめた鉛筆の先が怒りで折れてしまった。それをどうとったか柘榴帝は目をすがめている。


「君は蓮のことが嫌いなの?」

「そんなことないよ」


 不思議な質問に古謝は思わず手を止めていた。古謝は人を好き嫌いで判断したりしない。どんな人にだって好きな時もあれば嫌いになる時もあるし、人間とはそういうものだ。だから白黒つけるように好みの問題で人を判断する考えは、古謝にとっては新鮮だった。人の好嫌なんて、その時の気分しだいでどうとでも変わってしまうものである。

 柘榴帝は真っ直ぐにこちらを見て言う。


「俺は、蓮のことが好きだよ」


 愛しているとはっきりそう口にした。

 だから「七夕の会」の事件をなかったことにしたのだろうか。

 あの場にいた限られた人間は――楽舎の長・球磨羅くまら楽人、鎮官の魔醜座ましゅうざ、それに古謝とその他一部の者だけが、蓮のやろうとしたことに気づいていた。楽人席の隅、高燈台の下にあった白い導火線に火が移ればどうなったか。竹涼殿の床下から大量の爆薬が見つかったと球磨羅楽人からこっそり教えられていた。


『他言無用だぞ。このことは我らしか知らぬ。外に漏らした者は殺される』


 球磨羅楽人が異様におびえていたのは、たぶん柘榴帝のせいだ。帝は蓮の件を完璧にもみ消していた。あの場では何事もなかったように倒れた蓮を介抱し、「演奏に魅せられたのだ」とそのまま寵妃にまでしてしまった。


「俺は蓮のためだったら何でもできる。今度のことでそれを思い知ったよ」

「ふうん。なら、早くあいつのところに行きなよ」


 古謝には関係のないことだ。話が済んだなら立ち去ってくれるかと期待したが、柘榴帝は「分かってない」と顔をしかめる。


「できることならそうしてる。俺だってそうしたい。ただ、その」


 古謝は苛々と折れた鉛筆を置く。帝を追い払わないと落ちついて譜も書けやしない。


「彼は……蓮は俺のせいで、その……俺がいないほうがいいんだろうか」

「知らない」

「なにか話してなかった?」

「だから、知らないって!」


 堂々巡りのやりとりに古謝は苛々したが、相手も腹立たしそうな顔だ。言いたいことが伝わらずにもどかしいといった表情だった。「はっきり言え」と言いそうになるのをこらえた。面倒に巻きこまれたくない。けれど柘榴帝のほうが意を決したように表情を引き締めた。


「頼む。蓮の気持ちを聞いてきてくれないか」

「なんで俺。いやだよ、忙しいんだ」

「頼む。礼ならどんなことでも、物でもやるから!」


 その言葉が記憶にひっかかった。似たようなことが前にもあった気がする。


「この前、頼んだことはどうなったの?」


「前?」

神衣曲しんいきょくだよ! 調べておくって言ったじゃないか」


 はじめてこの庭で柘榴帝と会ったとき、神衣曲について調べておくと彼は約束してくれた。なにかひとつ礼をしてくれるというなら、古謝はそれをこそ欲している。

 柘榴帝はしばらく無表情で黙っていたが、やがて頷く。


「教えたら、蓮に話を聞いてきてくれる?」

「いいよ。教えてくれるなら」

「わかった。俺が神衣曲について知っていることをすべて話そう」


 古謝は紙と鉛筆を放り出し喜びに胸をふるわせた。ようやく神衣曲の譜が手に入る!

 柘榴帝はもったいぶるようにしばらく黙りこんでいたが、やがて諦めたようにそっと目をふせ語りはじめた。


「神衣曲に譜は存在しない」

「えー!?」


 思わず悲鳴をあげると、柘榴帝は「まだ続きがある」と視線で制した。


「譜は存在しないが、弾けないわけではない」

「どういうこと?」

「神衣曲は習得するものなんだ。譜や音といったありふれた事象からじゃない。体の五感と精神のすべてをつかって至高の音を降ろす仕組みだ」


 意味がわからなかった。呆けていると柘榴は顔を曇らせる。


「俺が神衣曲について知っているのは、兄さんを探していたからなんだ。兄の不花ふばなは神衣曲に熱をあげていた。失踪した彼の日記にそのことが詳しく書かれてあったよ。兄は誰よりそれを求めていた」

「その人は曲を習得したってこと?」


 古謝は体が空に浮き上がるようなときめきを感じた。やはり神衣曲は後宮にあったのだ。実際にそれを追い求め習得した人がいたのだから。


「いや、わからない」


 けれど柘榴帝は白い顔を強張らせ、躊躇うように続ける。


「たぶん、無理だったんじゃないかな。あの手記を読むかぎりは――ねぇ、悪いことは言わないからさ」

「なんで止めようとするの?」


 柘榴帝の兄・不花とやらはどうなったのだろう。たかが曲の習得ひとつ、どれだけ難解だったとしてもそれほど深刻に考える必要があるだろうか。今や古謝はありとあらゆる筝譜を習得しきっている。どんなに困難な奏法や音並びであっても軽やかに弾くだけの自信はあった。


「明日、この時間にまたここへ来てほしい。その時に兄の手記を持ってきて直接見せるよ」


 だから蓮の気持ちを聞いてきてほしいと柘榴帝は言う。神衣曲の習得法を渡すのに、それが条件だと。


「わかった。何を聞いてくればいい?」

「その筆貸して」


 柘榴帝は聞きたいことを紙へ細かく記していった。音楽以外のことにはひどく物覚えの悪い古謝のことだ、質問内容を頭で覚えていられるか不安だったのだろう。


「頼んだよ」

「任せてよ。ああ、楽しみだなあ……!」


 うっとりと神衣曲に思いをはせる古謝を柘榴帝は神妙な顔で見ていた。柘榴帝の兄は神衣曲を習得しようとしてから行方不明になっている。安否も行方も杳として知れない、ただ彼が何をやったかはわかっている。神衣曲の習得。『神』の『衣』を纏うのがどういうことか、知れば古謝も諦めるだろうと柘榴帝は考えていたのだった。

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