写経

 大仏の鋳造は、天平十九年(七四七年)九月から開始した。天平二十一年(七四九年)二月には、第七層まで終え、いよい最終段階にさしかかっていたが、金の手配のめどは立っていなかった。体調を崩しがちになっていた聖武天皇は、内裏の奥に作った写経所に籠もることが多くなっていた。

 西向きの写経所は、午後になると日が差し込んで明るくなる。白木の柱と床の写経所には、朝堂院の人の気配、市井の騒ぎは一切入ってこない。写経道具の他に何もない部屋は、清く透明な空気で満ちていた。

 光明子は、写経所が殺風景だから、花くらい置いても良いのではと言うが、写経の気を散らすようなものは一切置かないことにしている。香を焚くこともしないし、書を掛けることも、壁や柱に絵や彫り物を入れることもしない。漢籍や笛を持ち込むことなど以ての外だ。

 写経は単に筆を動かし文字を写すことではなく、徳を積むことであるから、清い場所で、清い心で行わなければならない。

 写経をする前には、ハタキでほこりを払い箒で床を清める。采女にやらせることはしない。

 手を洗い、口をすすいで礼服らいふくをしっかりと着る。光明子は礼服のような正規の服装ではなく狩衣のような簡単な衣で良いと言うが、朕は写経に当たっては身と心を正すために礼服がよいと考える。

 梅の蕾がふくらむ季節となったが、寒いからといって部屋に火鉢を置くと体が温まり緊張感がなくなる。手がかじかむようでは困るが、少しくらい寒い方が体が引き締まって頭が冴える。

 書見台を横に置き、机を正面にして座る。

 先ずは、雑念を捨て、写経に集中するために、目を閉じ深呼吸をする。

 政は橘諸兄と皇太子に任せておけばよい。大仏造立は大仏師、大鋳師、造東大寺司ら玄人に任せて朕のような素人が口を出すべきではない。金の手配は……

 雑念はいけないと思いながら、つい気になってしまう。

 硯に水を入れて墨を擦る。

 井戸水や川の水は汚れているから、雨水をためておいたもの使う。墨は写経のために特別に作らせた。松を燃やして作った煤に香料を少し入れて膠で練り、形を整え冷暗所で三年間掛けてゆっくりと乾かした物を使う。古墨が良いと言われるが、朕でも手に入らないので仕方がない。

 墨を擦ることも写経の一部である。心を落ち着かせ、水を練るように硯の上を滑らせる。墨から僅かに上る香りを楽しむ心の余裕も重要だ。

 筆も写経用に作らせた。細い竹に猫の柔らかい毛を使った。固い筆の方が書きやすいといって、筆をのりで固めたり、狸や馬の毛を好む者がいるが、朕は猫の柔らかい毛が好みだ。筆は使っていくうちに墨となじみが良くなる。

 墨が磨り終わったら、紙を机の上に広げる。

 紙は美濃国の工人に漉かせた。朕が即位した頃には国産の紙は、写経に使うほどの質がなく新羅から取り寄せていたが、今では十分に質の良いものが作れるようになっている。

 乱れることなく文字を写すために罫線を引かなければならない。罫線には露草の汁を使う事が多い。露草の汁は日が経てば薄くなって見えなくなるが、かすかに跡が残る。だから朕はヘラで罫線を引く。ヘラで当てた線ならば、紙が水分を吸ったり吐いたりすることで自然に消えてゆく。

 罫線を引くためのヘラは自作だ。竹を割って板にし、小刀で削って手になじむような形にした。紙の繊維を引っかけないように、先端は丸みを持たせ、椿の実で磨いて油をしみこませた。

 定規を当てゆっくりと横の罫線を引く。強すぎれば折り目になるし、弱すぎれば罫線の役に立たない。横罫線は十七段。ゆがんではいけない。すべて平行でなければならない。縦の罫線も同様に引く。升目を正方形にしてしまったのでは、読みづらくなるので、横の線よりも間隔を広く取る。もちろん、間隔に広い狭いがあってはならない。間隔が不均一になるのは、心が乱れている証拠である。もし罫線がうまく引けなかったら、新しい紙を用いてやり直す。失敗した紙は、軽く水を拭きかけて皺を伸ばし乾かしてから後日使う。

 罫線を引き終えたらいよいよ文字を書き写す。一文字一文字が、仏のありがたい言葉であり、徳を積むことであるから、心を込めて、丁寧に書かねばならない。早く済まそうなどと書き殴ってはいけない。一文字に精神を集中させ、天下泰平、万民安楽を願い、仏の加護を求めて書く。

 朕の徳は国家の徳となる。焦ってはならない。

 金泥を使いたいが、金はすべて大仏様の鍍金に回さなければならない。金があれば……

 燃灯供養を行ってから三年あまり経ってしまった。鋳造も最終段階にさしかかったが、金の手当のめどは全くない。

 新羅や渤海に使者を出して交渉したが、さすがに四千両もの金は手に入らない。もし朕が新羅王や渤海王だとして、日本が四千両もの金を欲しいと言ってきても絶対に出さないだろうから仕方がない。大仏様は黄金色に輝き神々しくあって欲しい。金色から緑青色へ変わっていったのではありがたみがなくなる。

 金がどうしても欲しい。東大寺の大仏様は黄金色の輝きがなければならない。

 金か…… 写経で徳を積めば、日本でも金が採れるようにならないだろうか。伊勢神宮や石上神社、宇佐八幡神社へ幣帛を捧げるべきか?

 写経中に雑念を抱いてしまった。金や世俗のことは写経所を出てから考えればよい。

 経文の一文字に、朕の命を込めて写すのだ。


 聖武天皇が三列目を書き終えたときに、足音が聞こえてきたと思ったら、勢い良く戸が開いた。

「天皇様はこちらにおいででしたか」

 藤原仲麻呂の元気の良い声が写経所に響いた。

 聖武天皇は、紙の上に墨が垂れないように、ゆっくりと筆を硯の上に置いて、仲麻呂の方へ体を向けた。

「藤原卿か。騒がしいぞ。朕が心を静めて写経をしているときに何事だ。朕が写経をしている間は一人にしておくようにと厳命しておいたはずだ」

 仲麻呂はひれ伏して詫びた。

「朕を探しているようだが、何かあったのか」

 仲麻呂は満面の笑みで答える。

「陸奥国に金が出ました。しかも大量に金が採れる見込みだそうです」

 仲麻呂は懐から小さな袋を取り出すと、広げた布の上に中身を出した。

 小さな粒が布の上に転がり、西日を受けてキラキラと輝く。

 聖武天皇は「オオ」と声を出し、仲麻呂の元まで来て、一粒つまみ上げた。

 米粒よりもやや小さい固まりは、気品のある黄金色こがねいろをしている。

「陸奥守である百済王くだらのこにしき敬福きようふくが小田郡内にて金を見つけたとのことです」

 仲麻呂から渡された木簡には、陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)で砂金が採れたので、証拠の金を添えて報告する。砂金の量は多く見込めることが書いてあった。

「日本に金が出た。仏様が朕の願いを聞き届けてくださった」

 左手の平に数粒乗せ、右の人差し指で転がす。

 角のない金の粒は手のひらの上でキラキラと妖しく輝いた。

「どのくらい採れそうだ」

「使いの話では、少なくとも数百両、年月を掛けて採れば数千両は見込めるとのことです」

 聖武天皇は、手のひらの金を慎重に布の上に戻すと、東を向いて正座し手を合わせた。

 仲麻呂も、聖武天皇の背中に回り、東を向いて手を合わせる。

 大仏様を鍍金するための金のめどがついた。鋳造が終盤にさしかかったときに都合良く金が採れるとは、仏様の御慈悲に相違ない。行基大僧正から菩薩戒を受け、写経をして功徳を積んできたことが、仏に認められたのだ。あの世へ行った行基僧正が口添えしてくださったのかもしれない。ありがたいことだ。

 手を開き、再び金の粒を取り上げて見る。

「まぎれもない金だ。さっそく、畿内・七道の諸社に幣帛を奉納し産金の報告をしよう。敬福は褒美として昇叙しよう」

「誠にめでたい限りにございます」

「光明子や、皇太子は陸奥国の産金を知っているのか」

「天皇様に一番に報告していますので、まだご存じありません」

「さっそく金を見せてやってくれ」

 仲麻呂は布の上に散っている金の粒を袋に入れ始めた。

「二、三粒置いていってくれ。大仏様へ産金報告の行幸をする。藤原卿は橘卿に手配するよう伝えてくれ」

 仲麻呂が写経所を出た後に、三粒の金を写経途中の紙の上に置いた。

 白い紙の上の黄金も、黒い文字の上の黄金も、趣のある輝きを放っている。

「仏様が奇跡を起こしてくださった。仏様が天下泰平、万民安楽を叶えてくださるという証しだ」

 天皇として産金報告を行った後は、沙弥しやみとして大仏造立に邁進しよう。

 聖武天皇の決意に答えるように、金の粒が西日の中で輝いた。

 陸奥国の金は国家財政を豊かにしてくれるようになる。金は先ず大仏の鍍金に使われたが、その後は新羅や唐との貿易の決済に用いられたり、遣唐使の滞在資金として下賜されるようになり、後の「黄金の国」伝説を作ってゆく。

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