不肖の息子

 聖武天皇は平城ならに大仏を造立することを宣言してから難波に行幸したが、行幸先の難波で病気に罹ってしまった。容態は日に日に悪化し、九月には予断を許さないような状態に陥った。

 諸兄は天皇に従って難波宮に来ていた。

 明かり取りの窓から見ることができる空は、きれいな茜色に染められている。もう半時もすれば一番星が輝き始めるだろう。残暑が厳しいので日が落ちてからでも体に暑さがまとわりついて汗ばんでくる。蜩のカナカナという鳴き声がわずかに、秋を感じさせてくれた。

 夕餉を用意する竈の煙が真っ直ぐ上っている。凪の時間で風はないが、潮騒が浜の臭いを運んできてくれている。

 主の重体に難波宮はひっそりとしている。歌舞音曲は当然自粛しているが、采女たちは音を立てずに歩き、舎人たちは大声を控えている。都から連れてきた馬も厩で静かに飼い葉を食べ、難波津の海猫の群れも草香江の川鵜たちもおとなしくしている。

 天皇様が不予に陥っているというのに、不思議と気分が落ち着いている。

 自分は左大臣として最高位にあるが、定見がない天皇様に振り回され、公卿百官、民らの批判を一身に受ける損な役回りをしてきたからなのかもしれない。

 平癒祈願の手配はしたが、万一のときは皇太子様に即位していただく。

 「万一」などと不敬なことを考えてしまった。

 熱い白湯が入った茶碗を持ち上げると、気持ちの良い湯気が上がってきた。

 諸兄が茶碗に口を付けたとき、息子の奈良麻呂が部屋に入ってきて前に座った。

「帝の容態はいかがでしょうか」

「芳しくない。まだ四十五歳でいらっしゃるが、夏の暑さにやられたのかもしれない。薬師如来の法会を準備しているし、賀茂神社と松尾神社には平癒を祈願する使者をたてた。おまえも、摂津大夫(長官)をいただいているのだから、管内の寺や神社に平癒祈願を命じろ」

 奈良麻呂は、嫁をもらい人の子の親になることで、すっかり大人の顔になった。かわいかった頃のことを思うと、寂しくもありうれしくもある。もう、自分のような年寄りは隠居して、奈良麻呂のような若い者たちに政を渡す時期かもしれない。

 奈良麻呂は真剣なまなざしをしていた。

「摂津大夫として問題でも起きたのか」

「父上もよくご存じのように、帝のお気持ちはふらふらとして定まるところがなく、百官、民は、度重なる遷都に身も心も潰えました。紫香楽宮の大仏が失敗したにもかかわらず、平城京に還って間もないというのに、再び大仏を造ろうとしています。あいつぐ浪費に、民の疲弊は激しく、官人の規範は崩れています。しっかりした国家観を持ったお方が天皇になって国を治めていただかなければならないのです」

「待て、奈良麻呂。お前は何を言い出そうとしているのか」

「帝の政に天下の民は憂え苦しんでいます。帝が不予に陥った今こそ、見識と徳を備えた人に位を譲るべきだと考えます」

「控えよ! 臣下が天皇様の位について云々するな。お前は天皇様を退けようというのか」

 諸兄の大声に、奈良麻呂はピクりと体を震わせたが、不敵な笑いを浮かべて、見返してきた。

「帝に退位していただき、別の人に天下を治めてもらおうと考えています。人の上に立つお方は、ただ大声でわめいたり、罰則を決めればいいわけではなく、民を信服させる見識や判断、経験の蓄積を必要とするのです」

「聖武天皇様には見識や経験がないというのか」

「そのとおり。生まれついての天皇で、内裏の奥で育てられたから、市井の暮らしを知らなのです。ご自身に徳も力も備わっていないので仏に救いを求めたがる。仏の力によって天下泰平、万民安楽になると言うが、現実は大仏によって、国家動揺、万民苦痛となっています」

「お前の言っていることは謀反だぞ。他の誰かに言ったのではないだろうな」

佐伯全成さえきまたなりや大伴古麻呂が御璽や駅令を確保したら、黄文王様を立てる準備ができています。父上にも協力して欲しいが、嫌ならば黙って見ていて欲しい」

「大馬鹿者め!」

 諸兄は立ち上がると、拳骨で奈良麻呂を殴った。

 不意を突かれた奈良麻呂は、大きな音を立てて床に転げる。

「何をする!」

 奈良麻呂は、殴られた左の頭に手を当てながら立ち上がった。

指斥乗輿しせきじようよでさえ死罪なのに、謀反を起こせば類はお前の子供にも及ぶぞ」

「帝を替えれば万事問題ない」

 諸兄が奈良麻呂を睨みつけているところへ、下道真備が入ってきた。

「藤原仲麻呂殿が、派手な甲冑をまとい左兵衛府の兵を難波宮に連れてきました。天皇様のご病気を案じて警護に来たそうですが、摂津大夫の奈良麻呂殿とは連絡を取っていない様子にて……」

 真備は橘親子の険悪な雰囲気に立ち止まった。

 諸兄は思わず右手で顔を覆う。

「左大臣様はいかがなさいましたか」

 諸兄は、真備に奈良麻呂の計画を話した。

「奈良麻呂殿は企てを黄文王様、佐伯殿や大伴殿以外にも打ち明けましたか」

「ああ、一人でも多くの公卿を見方にした方が企てが順調に進むと思って信頼できそうな者を勧誘した」

 仲麻呂が指を折って数え始めると、真備はため息をついた。

「謀議は少人数でするものです。奈良麻呂殿が話した御仁のいずれかが藤原仲麻呂殿に通じたのです。仲麻呂殿は謀反を利用して、左大臣様、大伴様、佐伯様など目障りな人間を一掃するつもりでしょう」

「国家や民のことを考えての行動だから、仲麻呂も話せば分かってくれる」

 諸兄と真備は顔を見合わせてため息をついた。

「自分の息子が藤原広嗣のような愚か者になるとは」

「奈良麻呂殿の見通しは甘すぎます。仲麻呂殿は、謀反に左大臣様を連座させて追い落とし、ご自分が右大臣になる絶好の機会と意気込んでいることでしょう」

奈良麻呂はへなへなと座り込んでしまった。

「事態はすでに動き出しているのならば如何にすべきか」

「仲麻呂殿よりも先手を取るべきです」

「黄文王様と奈良麻呂を捕らえるのか」

 真備は首を振る。

「左大臣の地位を利用して、玉璽、太政官印、駅鈴を平城京より取り寄せ、仲麻呂様に渡さないようにしてください。同時に、黄文王様を含むすべての二世王を難波に呼び、警護の名目で軟禁します。仲麻呂殿が連れてきた兵を警護に当てれば、仲麻呂殿の動きを封じることにもなります」

「黄文王だけでよいのでは?」

「黄文王様だけを呼び出したら仲麻呂殿が動きます。我々が仲麻呂殿の計画を知ったことを悟られないために、すべての二世王を呼びます。佐伯全成様と大伴古麻呂様には私が事情を話し翻意させます。邪推する者が出てこないよう、目くらましとして、功徳を積んで天皇様の平癒を祈るために鳥獣の殺生禁止を命じ、大赦を行い、鰥寡孤独かんかこどくには恵みものを下賜します。薬師経七経の写経と僧を数百人動員して平癒祈願に大般若経の読経をさせましょう」

「奈良麻呂は難波の屋敷に閉じ込めておく」

「奈良麻呂殿は摂津大夫ですから、屋敷に閉じこもっていては怪しまれます。平常を装って職務を行っていただきます」

「なるほど、下道の兵法は評判どおりの切れ味だ。奈良麻呂はよく反省し、下道の指示に従え」

 謀反を企てるような不肖の息子であっても死罪だけは勘弁してやりたい。

 下道は何事もないようにことを収める道を示してくれた。どれだけ感謝しても足りない。

「もう夜になったが、遅れれば遅れるほど仲麻呂の包囲網が完成する。さっそくに動こう」

 奈良麻呂が「俺も」と言って立ち上がった。

「お前が夜に動けば、仲麻呂を刺激する。今晩は摂津の屋敷に戻って反省していろ」

 諸兄は真備を連れて部屋の外に出た。

 すでに空は暗くなっていて、宵の明星が銀色に輝いていたが、銀河が出るにはまだ時間があるらしい。凪が終わり、風が出てきたので涼しさを感じることができる。

「馬鹿息子が……」

 諸兄のつぶやきに真備は返事をしてくれなかった。

 奈良麻呂の乱は未遂に終わり、公になることはなかった。

 聖武天皇は九月半ばには回復すると、諸兄たちを連れて平城京に帰った。

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