新羅亡命

 広嗣の主力軍は板櫃川の戦いで雲散霧消してしまった。追討将軍である大野東人は機を逃さず、残りの全軍に関門海峡を渡らせ、藤原綱手、多胡古麻呂の軍に当たらせた。大宰府が発行した官符で集められていた兵の士気は低くて官軍の相手にはならず、綱手と古麻呂の軍も敗れちりぢりになってしまった。

 軍団をなくした広嗣は博多湾に綱手たち近習を集めた。

 土砂降りの中では、何回顔を拭っても水が目の中に入ってくる。遠くの山は雨に煙ってぼんやりとしか見えない。ときおり雨幕が通り過ぎて広嗣たちの体を洗ってゆく。

 海も大荒れで、湾内にさえ大波が押し寄せて、用意した船は上へ下へ木の葉のように揺れている。茶色の波は恐ろしい勢いで岸にぶつかり、砕けて人の背より高いしぶきを上げる。

 強い風は立っているのがやっとで、気を抜けば吹き飛ばされてしまうほどだ。風向きは北と思えば、西に、東に変わり定まらない。風に雨が混じり、息をするのも目を開けることも難しい。近くで大きな音がしたので振り向けば、木が根元から倒れていた。土砂降りが木の根を洗い、泥水が掘れた穴の中に入ってゆく。雨音と風の音に邪魔されて声を張り上げなければ、隣の人間と話もできない。

 鎧甲を脱ぎ捨てて身軽になったが、雨に打たれてたっぷりと水を含んだ衣はずっしりと重く、体から容赦なく熱を奪っていく。

 広嗣は、集まっている者たちを眺めた。

 俺の命令で集めた兵は一万人以上いたというのに、残ったのは二十人に満たないのか。

「小長谷常人や三田塩籠はどうした。まだ来ないのか」

 広嗣の問いに、多胡古麻呂が不愉快そうに答える。

「常人も塩籠も官軍の手にかかって殺された」

「膳東人や佐伯豊石はどこにいる」

「官軍に捕まったところまで見たが、その後どうなったか分からん。豊国秋山と紀宇麻呂きのうまろは、官軍を見るとさっさと寝返った。俺も官軍に下っておけば良かった」

 広嗣が古麻呂をにらむと、古麻呂もにらみ返してきた。

「広嗣の口車に乗ったおかげで、謀反人の烙印を押されてしまった。謀反は死罪だ。俺の人生は終わった。罪は一族にも及ぶという。お前は一族の生活も台無しにしてくれた。都から来た若造を信じた俺が愚かだった」

「部下の寝返りを許した古麻呂が悪いのだ」

「敵に倍する軍を持ちながら逃げ出した大将に言われたくない」

 広嗣は古麻呂に拳骨で殴られて、泥水の中に倒れ込んだ。

 立ち上がった広嗣を雨が容赦なく打ち付ける。殴られた頬がずきずきと痛い。

 古麻呂は太刀を抜いた。

「謀反の首謀者の首を持ってゆけば死罪は免れるかもしれない」

「刃向かう者は誰であろうと許さない」

 広嗣は、古麻呂が太刀をふるう前に斬りつけた。

 うつぶせに倒れた古麻呂は顔を上げて睨みつけてきたが、すぐに水たまりに顔を沈めた。倒れた古麻呂から流れ出た血が、水たまりを赤く染める。

 大岩で砕け散った波が広嗣を襲い、広嗣は手をついて倒れ込んだ。口に入ってきた潮水は塩辛く、目は開けていられないほどにしみた。

「兄者、これはいったいどうしたことだ」

 土砂降りの中を駆け寄ってきた綱手が詰問した。

「裏切り者を成敗しただけだ。気にすることはない。古麻呂のことよりも駅鈴は持ってきたか」

 広嗣は綱手が差し出した駅令を奪うようにして受け取った。

「駅鈴は帝の権威そのものだ。大宰府から持ちだして良いのか」

「大宰少弐である俺が持ちだして何の障りがあるというのか。駅鈴さえあれば、どこでも兵馬を徴発できる。今は敵軍に追われて窮地に陥っているが、すぐに反撃に転じてみせる」

「兄者は一万の兵を持ってしても、官軍にかなわなかったのだぞ。少しの兵を集めたくらいで勝てるのか。第一、この大雨の中をどこへ行こうというのか。駅令を大宰府の都府楼から持ちだしたときに、官軍の先遣隊が目の前まで来ていて危なく捕まるところだった。筑前や豊前は官軍の兵でいっぱいだ。肥前の国へ行ったところで追いつかれる」

「新羅へ逃げる。俺は日本の貴族だから新羅王室も下手な扱いはしない」

「本当に大時化の中を船で逃げるのか。それに言っていることとやることがでたらめだ。新羅で日本の駅鈴が役に立つわけないだろう。兄者は正気か」

「俺に従わないというのならば、倒れている古麻呂と同じ目に遭わせてやる。付いてくるのか」

「本当に付いていって大丈夫なのか」

 大波は絶えず打ち寄せて大きな音を立てている。

「くどい! 俺は新羅王から軍を借りて、大野東人を打ち破り都へ上って諸兄たちを一網打尽にするつもりだ。俺に付いてこないというのならば、ここに置いてゆくぞ」

 綱手は口をつぐんで、広嗣の後に従った。


 広嗣たちが乗った船は博多湾を出たが、強風と高波にあおられて舵がうまく切れない。

 船は木の葉のように左右、上下に揺れて立っていることはできない。船が波に押し上げられるときは、体が甲板に押しつけられ、波の頭から底に落ちてゆくときは宙に浮く。何回も甲板や船縁に打ち付けられ、折った鼻から血が出てきた。帆柱より高い波が襲ってきて波に乗り上げたときには、舳先が空に向かって上がった。甲板に置いてあった物が転がってゆき船尾から落ちていった。何人もが悲鳴と共に海に放り出されていく。広嗣は帆柱にしがみついて何とか落ちずに済んだ。もし、横から波を受けていたら船は転覆しただろう。船はギイギイという不気味な音を立ててきしみ、今にも分解してしまいそうだ。

 雲は厚く昼間だというのに暗い。今が何時なのか、船を出してからどれくらいの時が経ったのか分からなくなった。風は強く海は大荒れで雨も止みそうにない。博多の港や町は雨と波で見えないし、船がどちらに進んでいるかさえ分からない。

 帆柱にしがみついている広嗣と綱手を波と雨が襲う。顔にかかる潮水が、目と擦り傷にしみる。顔を洗い流してくれる雨がうれしかった。

 生きた心地は全くしない。神仏がいるのならば救いの手をさしのべるべきだ。

「兄者。向かい風で押し流されてる。帝に逆らったから天神あまつかみが怒っているのではないか。大丈夫だという証拠を見せてくれ」

「ああ、見せてやろう」

 広嗣が帆柱にしがみつきながら立ち上がると、船縁を越えてきた波に頭から洗われた。

 広嗣は懐から駅鈴を取り出して高く掲げた。

天神あまつかみよ御照覧あれ。俺こそは藤原宇合が嫡男・藤原広嗣。帝の第一の忠臣である。天神はなぜ俺を見捨てようとするのか。天神に請う。天神の力を持って波風をおさめよ」

 広嗣は駅鈴を海に向かって放り投げた。

 帆柱にしがみついて叫んでいる綱手の声は、波音に消されて聞こえない。激しい風雨で呼吸すら難しい。

 突然、下から突き上げられた。広嗣は顔面を甲板に打ちつけると、そのまま転がって船縁に体を打ち付けた。顔面、腕、肋骨、左足とあらゆるところが痛い。

 バキンと大きな音がして帆柱が根元から折れた。帆柱は甲板に大きな穴を開ける。二人ほど帆柱の下敷きになった。

 船は左に大きく傾く。折れた柱が広嗣めがけて転がってきた。「もうだめだ」と思ったとき、広嗣は高く飛ばされて海に落ちた。

 海面に投げつけられた衝撃で広嗣は気を失った。


 広嗣は博多湾を出て、新羅領の済州島を目指したが、嵐で押し流されて五島列島の福江島に漂着したところを官軍の阿陪黒麻呂によって捕らえられた。

 広嗣は凍えて目が覚めた。荒縄で縛られて、土の上に寝かされている。頭を上げ、うつろな頭で周りをながめて、漁具を保管しておく小屋に押し込められたことを思い出した。漁網や銛がところ狭しと置かれた、暗い小屋の中は、生臭い匂いに満ちていた。

 上半身は縄でぐるぐる巻きに縛られていて動かすことはできない。足は縛られておらず、ようやくの思いで立ち上がることができた。

 荒縄が体に食い込んできてとても痛い。濡れた衣が体温を奪って震えが止まらない。鼻の中で血が固まって息がしにくい。髪の毛は固まりになって気持ち悪い。潮水が乾いたところはヒリヒリするし、打ち付けた腕や足が猛烈に痛い。頭がふらふらして、吐きそうになった。

 歩く力も気力もなく、畳んで置かれていた網の上に腰を掛けたが、ごつごつした網は痛かった。

 綱手や他の者たちはどうなったのだろうか。俺の計画に間違いはなかったはずだ。諸兄の軍に負けたのは、西海道の兵が意気地なしだったのと裏切り者がたくさん出たからだ。俺が悪いわけではない。俺は絶対に再起を果たしてみせる。まずは、縄を解いて銛を盗んで逃げ出すことだ。

 小屋の扉がギイという音を立てて開いた。まぶしい光に目がくらんで何も見えなくなる。

 光の中に三人の影が見えた。

 広嗣は縛られたまま小屋から引きずり出されて砂の上に倒された。両手が動かせないので頭がめり込んで口に砂が入ってきた。口に含んだ砂を吐き出しながら、顔を上げると、茜色の空を背景に三人の男が立っていた。

「お前たちは何者だ。大宰少弐である俺を縛り上げてただですむと思うな。今すぐ縄をほどけ」

 右端の男が「ふん」と鼻を鳴らす。

 広嗣は、下人に両脇を抱えられて立たされた。

「謀反が失敗しても強気だけは変わらないらしい。良く聞け。自分は中務少補阿倍虫麻呂である。こちらは追討大将軍の大野東人様と、副将軍の佐伯常人様だ。二度と会うことはないが覚えておけ」

「お前たちのような下賤な者が俺を裁くことなど許されない」

 三人は大声で笑った。

「縄で縛られているのによく言う。大野大将軍は天皇様から節刀を預かっている。将軍の裁きは天皇様のお裁きである」

「俺をどうしようというのだ」

「謀反は死罪と決まっている」

「俺は謀反を起こしたのではない。宮中に巣くう奸臣を除くために立ち上がったのだ。東人は大忠臣である俺を殺すというのか」

 三人は再び大笑いした。

「あの世で天皇様に詫びよ」

 東人が振り下ろす刀で広嗣は砂浜に倒され、流れ出た赤い血は砂に吸われていった。


 藤原広嗣の乱では、綱手他二十六人が死罪、没官もつかん五人、流罪四十七人、徒罪ずざい三十二人、杖罪じようざい百七十七人が処分された。広嗣の弟である宿奈麻呂や田麻呂も流罪となり、藤原式家は大きく後退する。また、藤原氏は一族から謀反人を出したことを反省するとして、藤原不比等の代に下賜された食封じきふ五千戸の返上を聖武天皇に申し出た。聖武天皇は返上された五千戸のうち、二千戸については藤原氏に返し与え、三千戸を諸国の国分寺に編入した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る