藤原広嗣の乱

 天平十二年(七四〇年)八月二十九日、藤原広嗣は、下道真備と僧玄昉を糾弾し朝廷から除くことを要求する上表文を朝廷に送りつけた。真備と玄昉は右大臣橘諸兄の腹心であり、二人を糾弾することは諸兄を糾弾することと同じである。広嗣は上表文と合わせて西海道諸国に徴兵を命じ、自身は大宰府で筑前の兵を練兵、弟の綱手を豊後、腹心の多胡古麻呂を筑後で兵をまとめるよう派遣した。

 広嗣の上表文と挙兵の報を受け取った諸兄は、広嗣を謀反と断定。大野東人を追討大将軍、佐伯常人、阿倍虫麻呂を副将軍に任命、停止していた兵制を一時的に復活させ、一万七千人に動員をかけ大宰府へ向けた。

 大野将軍は九月二十一日に関門海峡に到着すると、翌日には海峡を渡り、交通の要衝である、豊前国ぶぜんのくに企救郡きくぐん(北西海道市小倉北区)の板櫃の鎮を占拠する。板櫃が落ちたという知らせに慌てた広嗣は綱手や古麻呂の軍を待たずに大宰府から軍を率いて出発した。


 十月九日。広嗣は板櫃川で大野東人らの軍と対峙した。大野軍は板櫃川の東に現れ、広嗣軍は西で隊列を整えた。

 二日続きの雨は上がったが、鉛色の雲は厚く空を覆っていて、昼間だというのに薄暗く、再び雨を降らそうとしている。強い風に旗がパタパタと音を立て、ときおり木の葉が飛ばされてゆく。

 板櫃川は増水して水が茶色に濁り、川幅も三十間(約五十メートル)に広がっていた。どのくらいの深さがあるかは分からない。河口に近いところなので流れはほとんどないが、強い風にあおられて波立っている。水鳥たちは恐れをなして逃げ、近くの海に浮かんで人間たちの愚行を眺めている。

 雨で濡れていた川原の草は、広嗣軍によって踏み倒され、邪魔になる葦は刈り取られた。板櫃川の河口まで十町(約一キロメートル)、上流へ十町の川原は両軍の兵で埋め尽くされている。川岸には渡河するための筏や舟が隙間なく並べられていた。ガチャガチャと鎧を着けて歩くときに出る音は聞こえてくるが、不思議に人の声は聞こえてこない。興奮した馬の鳴き声や舟が横腹をぶつけ合う音がたまに聞こえてくる。

 両軍とも訓練はしても実戦の経験はない。命をかける戦いに、兵たちの顔は引きつり弓を持つ手は震えていた。両軍の緊張と恐怖が川の中央でぶつかり合っていた。

「綱手や古麻呂の軍はまだ到着しないのか」

 広嗣は鐙の上に踏ん張って対岸を見た。

 向かい風と一緒に雨粒が頬に当たり、飾りをつけた白馬が鼻を鳴らした。

 広嗣の甲には二本の雉の羽が刺してあって風に大きく揺れている。新調したばかりの赤糸威の鎧と、金象眼された鞍が周囲から浮くように光った。

 朝廷が軍を差し向けてくるとは思っていなかった。大きな誤算だ。だが、見たところ敵軍は六千程度、綱手や古麻呂が率いてくる兵が合流しなくても、俺が率いてきた一万人の軍は圧倒的だ。目の前の敵を打ち破り大将首を取れば、俺の権威が増すし、都への道も開ける。

 鎧袖一触とゆこうではないか。

 広嗣は太刀を抜いて高く掲げた。

「敵は長旅で疲れている。一気に叩き、都に上る手土産にせよ!」

 広嗣が「進め」と号令をかけ太刀を振り下ろすと、川岸から一斉に筏や舟が入れられた。

 広嗣軍の兵が乗り込んだ筏が川の中程にさしかかると、敵軍が雨のように矢を射てきた。

 鎧甲を着けず、楯の用意もないこぎ手が次々に水に落ちてゆく。こぎ手をなくした筏は水に流されて隣の筏に衝突し、投げ出された兵は、鎧で自由に動くことができずに、助けを求めながら沈んでいった。

 広嗣も弓で応戦させたが、大半の矢は川の中に落ち、向こう岸に届いたとしても、敵の陣地にまでは遠く、効果はなかった。

 わずか三十間ほどの川が渡れないとは情けない。

 広嗣は三回にわたって渡河を敢行させたが、その都度撃退されてしまった。

 川岸からずぶ濡れになって上がってきた兵長が報告する。

「敵のいしゆみの前に、我が軍は為す術がありません」

「不甲斐ない奴らだ。敵を倒す前から弱音を吐くな。俺が敵を一喝してやる」

 広嗣は渡河を中止させて、単騎で軍の先頭に出た。広嗣に合わせて敵からも鎧甲に身を固め、栗毛色の馬に乗った武者が現れた。

 板櫃川をはさんで二人はにらみ合い両軍は声をひそめた。

「俺は大宰少弐藤原広嗣である。お前が何者かは知らないが、俺が兵を挙げた理由を聞かせてやろう」

 広嗣の大声に、大野軍は聞き耳を立てた。

「右大臣橘諸兄に取り入った、玄昉は紫の衣を帝からいただいたにも関わらず、豪奢な衣を身にまとい女色に耽溺し、遂に下賎の女を弥勒と称するに至った。下道真備は入唐につとうで鍛えた舌を武器に、新羅、蝦夷、隼人らに不穏な動きがあるにもかかわらず諸国の徴兵をやめ朝廷の弱体化をまねいた。帝は諸兄にたぶらかされて、賢臣良将を用いる代わりに悪人、愚人を用いている。玄昉は皇太后の治癒に、真備は瘡病対策に功績があるとされているため、公卿らは奴らが悪人であると思っていても批判できないでいる。情けない公卿に代わって、俺は帝の獅子身中の虫である諸兄、玄昉、真備を除くために立ち上がった。俺こそが帝の大忠臣なのだ。お前も帝に忠誠を尽くすのであれば、軍旗を巻き俺の配下に加わるが良かろう」

 広嗣の陣営から、パラパラと拍手が起きる。

 対岸で栗毛色の馬に乗った武者も、鐙を踏ん張って馬の上に立った。

「我は武門を誇る佐伯一族の中で、その人ありと知られた衛門督えもんのかみ佐伯常人である。我は勅命を賜り逆賊である藤原広嗣を打つために下向した。広嗣に従う者たちよ、帝のお言葉を良く聞け。勅命に曰く。『広嗣は若年から凶悪であり、長じては奸計を巡らすようになった。広嗣の父親である式部卿宇合は、将来を憂えて広嗣を朝廷から除こうと考えたが朕は許さなかった。広嗣が心を改めることを期待して、都から遠くに移した。しかし、広嗣は凶悪さを増して朝廷に弓を引こうとしている。広嗣の不忠、不孝は天地の道理に反する』。神明は遠からず広嗣を滅ぼすであろうが、帝は天神あまつかみの手を煩わすことを畏れて、我に広嗣を討ち取ることを命じた。西海道の人間は、帝より賜った節刀を見よ」

 常人は刀を高く掲げた。曇り空に白銀の刀身がキラリと光る。

「広嗣の謀反軍に加わった者でも、悔い改め、広嗣を殺して世を平らげたものには、無位の者でも五位以上を賜り、官人の場合は高い地位を加給しよう。もしも本人が殺されても子に官位を与えることを約束する。我が軍の後からは、阿倍虫麻呂将軍が五千の兵を率いて、さらに大野東人大将軍が一万の兵を率いてやってくる。広嗣に勝ち目はない。勅命を聞いた者は広嗣の元を離れよ。忠臣、義士はすみやかに現れよ」

 常人が太刀を大きく振って鞘に収めると、常人の軍から拍手と大歓声が起こった。

 広嗣は大笑いする。

「佐伯の某は、ハッタリが得意らしい。俺の挙兵に呼応して、都では宿奈麻呂すくなまろや田麻呂、永手たちが事を起こしているはずだ。援軍など来るはずがない」

「お前が上表文と一緒に送った密書は、すでに右大臣様が手に入れた。帝は激しくお怒りになって、藤原の氏上である藤原豊成殿を叱責。畏れをなした豊成殿は関係者をとらえて、都では何の騒ぎも起こっていない。広嗣は孤立無援なのだ」

「都の決起が失敗しただと? ハッタリに違いない」

「ハッタリでない証拠が、節刀と我が精鋭軍である。もし、都で争乱が起きているのならば、軍を率いて押しかけてくることはできない。大宰府で挙兵した広嗣が海峡を渡る前に、都を発した官軍が板櫃を占領できた意味を知れ」

 常人の言葉に、広嗣の軍はざわめき、常人の軍は歓声を大きくした。

 都で挙兵に失敗したというのは本当らしい。愚か者に密書を出したことは間違いであった。だが、宿奈麻呂たちは初めから当てにしていない。俺と綱手だけでも軍を進めることができる。

 常人の言うとおりならば、帝は俺の上表文を見たはずだ。帝には奸臣である諸兄や真備を除くという俺の意図が伝わったはずなのに、なぜ俺に対して追討軍を出すのか。俺と同心して諸兄たちを追放することが筋ではないのか。青瓢箪で気が弱い帝が、軍を出すなどという大胆なことができるわけがないから、上表文は諸兄が握りつぶしたに違いない。憎きは、橘諸兄、下道真備。都に着いたら、一番に首を取ってやる。

 常人は右手を高く上げて歓声を止める。

「板櫃川の西岸にいる者たちに告げる。謀反人の広嗣に従って我ら官軍にそむけば、自身を滅ぼすだけではなく、罪は妻子や親族にも及ぶぞ。今すぐに官軍に服し帝に忠誠を誓え」

 対岸には何人もの兵長らしい男が出てきて、薩摩なまりの言葉で常人軍への投降を叫び始めた。川岸にいた三人の兵が鎧を脱ぎ捨てて川を渡り始めると、常人の陣営から声援が起こった。

 広嗣軍のあちらこちらで鎧を脱いで、川を渡ろうとする者が出てきた。

「敵を前にして逃げ出す弱い兵は射殺せ!」

 弓隊が前に出ると、常人軍から、投降者を援護するように弩が射られてきた。広嗣軍の矢は対岸に届かないが、常人軍の弩は広嗣の陣営にも余裕で届いてくる。広嗣の弓隊が敵の矢にこらえきれずに後退を始めると、広嗣軍の中から逃げ出して西へ走る者が出始めた。

「逃げ出す者は殺せ!」

 広嗣が叫ぶ前に、常人軍は一団となって川を渡り始めた。常人軍の動きに動揺した広嗣軍はあっという間に崩れて敗走を始めた。

「戦わずに逃げるとは何事だ! 逃げるな。立ち向かえ。弓を放て」

 広嗣の声は敗走の混乱にかき消されてしまう。

 渡河を終えた敵軍は、隊列を整えると、広嗣を目指して猛進してくる。

 広嗣は舌打ちをして逃げ出した。

 俺の軍が崩れてゆく。

 戦いを始める前に負けてしまった。

 俺の命で筑前や肥後から兵を集め、練兵すること一ヶ月。兵は良く俺の命に従ってきたのに、なぜ敵を前にして逃げ出すのだ。兵たちには、俺よりも敵の佐伯常人の方が権威があると見えるのか。

 いや、常人などよりも、俺の方が立派で権威がある。弱い兵を用いたことが失敗だった。

 広嗣に答えるように、冷たい雨が降り出してきた。

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