長屋王の提案

 長屋王が慌てて顔を上げると、元明天皇の横にいた氷高内親王からも真剣ななまなざしが向けられていた。

「めっそうもありません。膳夫は三世王であり血筋的に天皇にするには無理があります。膳夫には、父の高市や私と同じく皇親として天皇を支えてゆくよう教えています。膳夫を天皇にしたら、嫡子相続で後継者争いをなくするという持統天皇以来の方針に反します。舎人親王や新田部親王が壬申の乱を再現するかもしません」

「直系相続よりも、国家の安泰が重要です。血筋を重んじるばかりに政をおろそかにして国を乱してしまったら、元も子もありません。膳夫王は三世王といいますが、吉備内親王の子供であり、首親王の従兄弟ですから、血筋的に問題はありません。長屋王が心配するのならば、吉備内親王の子供たちを皇孫(二世王)とする詔を出しましょう」

 律令では、二世王は貴族待遇で成人すると五位以上の官位が与えられるが、三世王は一般の官人と同等の扱いで成人しても六位以下しか与えられない。五位と六位には食封じきふ(給与)で十倍の差があるほか、就ける役職、昇進の速さに格段の差がつけられていた。

 膳夫たちを二世王として扱ってくださるという、願っても叶えられないありがたい思し召しだ。膳夫が二世王ならば、自分は親王となるのか?

「私がしなければならないことは首親王を立派な天皇にすることです。私は皇親として、首親王を全力で支えましょう」

「長屋王が後見すると言ってくれてほっとしました。ただ、私も五十四歳と高齢になりました。首親王が立派な天皇になるまで生きていられるか心配で……」

 元明天皇の髪は白髪が多く交じっていて脂気が失せている。唇の赤みも、肌の潤いもなくなり、頬の皺は深い。あかぎれこそないものの、手は乾燥してかさかさしている。錦の衣と冠がなければ、厨に勤める年老いた下女に見えてしまう。

 三十代半ばの氷高内親王は、母親の元明天皇と顔つきがよく似ていて、母娘のつながりを感じさせる。若い娘のような浮ついたところはなく、内面からにじみ出る知性が、円熟した大人の華やかさを出している。艶のある黒髪は腰まで伸び、唇にさした紅は艶めかしい。子供を産んだことがないためか、体に衰えを感じさせない。

 未婚の内親王……

 元明天皇は文武天皇から位を引き継ぐとき、娘の氷高内親王と首親王への皇位継承について話し合ったのだろう。

 首親王の祖母である元明天皇は、親王が成人し天皇として政を行えるようになるまで生きていられないかもしれない。もし、不予に陥ったら氷高内親王が即位して首親王に皇統を繋ぐ。氷高内親王が子持ちであれば、首親王との間に後継争いを生じるから、独身でいる必要がある。元明天皇は娘に不婚を強い、氷高内親王は、自身の幸せを犠牲にしても、皇統を守ろうと決意した。

 氷高内親王は、実の妹である吉備内親王が嫁ぎ、次々と子供を産んで幸せそうに暮らしている様子を、どんな思いで見てきたのであろうか。

 幸いに、元明天皇は首親王が即位の儀を迎えられるまで無事だった。しかし、首親王は天皇にするには頼りない。老齢に達している天皇は残された時間が足りないと思っていらっしゃる。元明天皇の悩みを解決するためには。

「首親王を無理に即位させる必要はありません。今後も博士を付けて政や帝王学を学ばせたらいかがでしょうか。元明天皇様は氷高内親王に譲位していただき、氷高内親王は首親王に器量が備わるまで天皇を続けてください。元明天皇様、氷高内親王、首親王と皇位をつないでゆけば、皇統は安定します」

 氷高内親王の決意と人生を無駄にしないためにも、天皇に即位してもらうのがよい。

「私が即位するときにはたくさんの反発がありました。石上左大臣と藤原右大臣の助けがなければ、私は天皇に即位することができず、国が混乱していたでしょう。私の即位ですら反発があったのに、母から娘へ譲位したらどうなるでしょうか」

「大宝律令を根付かせ国を安定させた元明天皇様には権威ができていますので、逆らうことのできる人間はいません。氷高内親王は天皇の娘ですので血筋を考えれば一番自然ですし、聡明であることを公卿百官はよく知っています。石上左大臣殿も藤原右大臣殿も健在であれば、氷高内親王の即位に協力してくれます。もし不安であれば、不改常典ふかいじようてんも使いましょう」

不改常典あらためまじきつねののりですか……」

 元明天皇が即位する際の宣命せんみように、藤原右大臣は、実態がない法を入れて百官を納得させ、反発や不満を抑え込んだ。元明天皇が前例を作ったから、氷高内親王の即位にも不改常典は使える。

 現時点で首親王以外に皇位継承権を持つ者は、穂積親王、舎人親王、長親王、新田部親王の四人。穂積親王は老齢、長親王はおとなしくて権力欲がない。氷高内親王の即位に異議を唱えるのは、舎人親王と新田部親王くらいか。

 二人は朝廷の役職に就いていないから、宮内卿や式部卿の役に就いて活躍している自分を目の敵にしている。二人のどちらが天皇になっても割を食うし、膳夫や葛木たちが出世できなくなることもいただけない。氷高内親王の即位は自分や息子たちにとっても望ましい。

「氷高はよろしいですか」

 氷高親王が肯くのを見て、元明天皇は笑みを浮かべた。

「首親王が来たようです」

 元明天皇の言葉に、長屋王が振り向いて戸口を見ると、采女に手を引かれた少年が立っていた。

 首親王はずいぶん体が大きくなったが……

 子供だから、人生経験がないから貫禄がないのだろうか。親王付きの女官に負けないくらいの背丈があるのに小さく見える。ひょろっとした細い体に、日に焼けていない童顔。育ちが良くて賢そうな目鼻立ちだけれども、自信がなくて弱々しく見える。同年代の膳夫や葛木のほうが頼もしい。とても、天皇としての百官を睥睨する迫力や器量が備わっているとは思えない。元明天皇と氷高内親王が即位について不安になるのもうなずける。

 首親王は長屋王に挨拶することなく、スタスタと歩いて元明天皇の横に座ると、不安そうな顔つきで見上げた。

「これからは朝議に出て政を学んでもらいますよ」

 首親王は、元明天皇の言葉にあからさまに嫌な顔をした。

「首親王様は生まれながらの天皇様です。将来は日本を治めていただかなくてはなりません。政について分からないことは教えますので、何事も私を頼ってください」

「長屋王には式部卿としての仕事もあるでしょうから、舎人親王や新田部親王にも首親王を指導してもらおうと考えています」

 首親王を一人前にしたいという元明天皇の気持ちはよく分かるし、首親王の即位に反対しそうな二人をご自分の懐に入れようという作戦も理解できる。しかし、舎人親王や新田部親王が出てくると話が面倒になる。

 望むことができる地位が同じ者同士は仲良くできないと誰かが言っていたが、自分を目の敵にしている二人とはうまくやってゆけそうにない。

 父の高市は持統天皇の元で太政大臣を務めたから、自分にも朝廷内で出世して行く道が開けている。ゆくゆくは左大臣として天皇の執政を務めたい。これまで政に関わってこなかった二人の親王が邪魔をしてこなければよいが。

 首親王は、力なさそうに頭を下げていた。

 蒸し暑く不快な空気が体にまとわりついて汗が止まらない。油蝉の大合唱もうるさい。すべてを流してすっきりさせてくれる夕立が欲しい。

 長屋王の進言を受けて、元明天皇は氷高内親王に譲位し、氷高内親王は元正天皇として即位した。

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