元明天皇の憂鬱

元明天皇の憂鬱

 雲は足早に流れていくのに風は吹いていない。蝉の声はうるさいほどにやかましく、夏を沸騰させている。蒸し暑い空気が体にまとわりついて汗がひかず、うちわは役に立たない。左手に持った手ぬぐいは絞れるほどに濡れてきた。

 和銅八年(七一五年)の夏は例年になく暑かった。

 長屋王は式部卿(式部省長官)の執務室で決裁の山と闘っていた。

 夏が涼しいと秋の実りが心配になるが、暑すぎるのは考えものである。汗で衣が背中に張り付いて気持ち悪い。式部卿である自分が着崩したら、部下も着崩して職場の規律がなくなる。だから、やせ我慢をしなくてはならないが、せめてそよ風ぐらいは吹いてほしい。窓の外は眩しいほどに明るく照りつけられている。今夜も寝苦しいかもしれない。

 長屋王は机の上に置かれた木簡の山を見てため息をついた。決裁しなければならない案件が文字どおり山を作っている。しっかり見て直しておかないと太政官会議で恥をかくが、一つ一つ調べる仕事はやっていて楽しくない。

 早く仕事を終えて屋敷に帰り、小さい子供たちと遊びたい。子供の笑顔があれば、宮仕えの苦労を忘れることができる。机に向かって汗をかきながら仕事をしているよりも、かわいい盛りの子供と遊んでいる方が何倍か楽しい。

 本当なら、子供たちと相楽さがらの別宅で川遊びをするか、難波の海で潮干狩りをしているはずなのに、今年は皇太子が即位するから何かと仕事が詰まっている。子供たちも楽しみにしていたのに残念なことをしてしまった。埋め合わせに大嘗祭が終わったら有馬の湯でも連れて行ってやろう。

 首親王の即位か…… 蒸し暑い夏をさらに面倒にしている。

 元明天皇は、孫である首親王を即位させるため、前年の和銅七年、皇太子にしていた。

 文武天皇が十五歳で即位した前例にならえば、十五歳になった親王は即位することができるはずであったが……

「長屋王様、元明天皇様がお呼びです。奥へおいでください」

 采女の声に、長屋王は筆を置いた。

 大極殿を通って、天皇の住まいである内裏に入ると、蒸し暑さは消え、厳粛でひんやりとした空気に体を洗われた。

 元明天皇の隣には娘である氷高内親王ひたかないしんのうが座っていた。

 老齢の天皇は暑さが堪えているらしく顔色が優れない。若い頃から美貌で評判の氷高内親王は、三十代半ばにさしかかった今でも容色に衰えがないが、元明天皇と同様、憂色を浮かべていた。

 母娘おやこそろっての悩み事というのは、首親王の即位のことだろう。

 二人の前に座り、長屋王は型どおりの挨拶をした。元明天皇が口を開く。

「首親王も十五歳になり即位を考えなくてはならなくなりました。百官も即位の発表がいつあるか気を揉んでいるようです。しかし、首親王は長屋王も知ってのとおり気が弱く優柔不断な性格です。一年前に皇太子にしましたが、いまだに王者の片鱗を見せてくれません。朝賀に出し、朝政も聴かせましたが、おどおどするばかりで、頼りないことこの上ありません。政にも興味を示さず、このまま日本を治めてゆく天皇にして良いのか、それとも……」

 元明天皇は視線を落とした。

「それとも、帝王の資質に欠ける首親王に代えて、皇族の中からふさわしい者を天皇にすべきか、氷高と相談していたところなのです」

 重い質問に、長屋王は即答できなかった。

「天皇様に申し上げます。先代の文武天皇様は十五歳で即位なさいましたので、首親王が去年に皇太子になったときから、今年は天皇に即位し、元明天皇様が太上天皇だいじようてんのう様として後見されることが既定であると百官は考えています」

 太上天皇とは譲位した天皇のことである。律令では、太上天皇と天皇は同格とされ、天皇と同じ権威と権力を持っている。二頭政治となるが、太上天皇─天皇は直系の血族であり対立することはない。新天皇の政治が安定するまで前天皇が後見し、権力の移譲を円滑に行う仕組みとされていた。

石上いそのかみ左大臣(石上麻呂)殿や藤原右大臣(藤原不比等)殿は、なんと申し上げているのでしょうか」

「左大臣と右大臣は、持統天皇、文武天皇、私と三代にわたって献身的に仕えてくれているので信頼していますが、左大臣には石上氏、右大臣には藤原氏を盛り上げてゆかねばならないという氏上うじのかみとしての立場があります。国家の大事ですが、氏族の利害が大きく関わることですから、まずは皇親である長屋王と話をしたいと考えて来てもらいました」

 長屋王は一礼する。

「私が、息子である文武天皇から皇位を受け継いだのは、二度と壬申の乱のような皇位継承争いを起こさないよう、直系相続を定着させるためでした。文武天皇の嫡子である首親王を天皇にすることは、私が即位したときから決めていたことです。私はすでに五十四歳となり、充分に老いを感じる年になりました。まだ余力があるうちに首親王に譲位し、太上天皇として後見をしたいのですが、首親王は……」

 元明天皇は深くため息をついた。肩は落ち、体は一回り小さくなったように見える。

 蒸し暑く不快な空気が部屋に入ってきて、じっとしていても汗が出てきた。

 首親王は頭はよい方だが、残念なことに心が細すぎる。皇太子になってからも采女の陰に隠れているし、自分で物事を決めることができない。十五歳といえばやんちゃな盛りで、普通の子供ならば活発に動き回って親の手を焼かせる年であるが、首親王は東宮から外へ出て遊ぼうとしない。親王が幼い頃に、膳夫や同年代の子供を何人か遊び相手に付けたことがあったが、首親王はすぐにひとりぼっちになってしまい、膳夫も子供ながらに困っていた。首親王が心を許して楽しそうにしているのは、幼なじみの安宿媛あすかべひめだけだ。

 元明天皇は政に臨んで、いつも民の暮らしのことを考えていらっしゃるから、首親王が即位して民を慈しむ政を行えるかどうか心配なのだろう。首親王を即位させなければ、後継争いを生じる。かといって、頼りない首親王では、公卿百官を率いて政が行えるか分からない。

 元明天皇の葛藤には同情してしまう。

 天皇は遠くを見つめるような目をして言う。

「首親王には将来の天皇になるようにいろいろ教えてきたつもりですが、物事を教えることはできても心を鍛えることはできませんでした。皇太子にすれば変わってくれるかと思いましたが、今のところは……」

「首親王はいまだ十五歳ではないですか。体はこれからぐんぐんと大きくなります。体が大きくなるに従って心も育ちましょう」

「皇室は大きな一族であれば、皆がそれぞれに一家を構えていて、考えることや望みが違っています。首親王を天皇にすることを快く思わない皇族もいるでしょう。長屋王には皇親の筆頭として首親王を後見してほしいのですが」

 長屋王は「もちろんです」と深く頭を下げる。

 皇室の行く末、天下泰平、万民安楽を真剣に悩まれている老女帝の姿が痛々しい。

 首親王の即位を良く思わない皇族とは、皇位継承権がある天武天皇の親王たち、舎人親王や新田部親王のことであろう。あの二人のどちらかが天皇になるなど想像したくない。

 自分が呼ばれたわけが分かってきた。二世王である自分には皇位継承権がないので、首親王の即位に反対する理由がない。加えて元明天皇の娘をもらっているから、天皇に一番近い身内として親近感を持っていてくださる。元明天皇の信頼に応えなくてはならない。

 天皇は長屋王を正面に見据えてつぶやいた。

「首親王に代えて、膳夫王を天皇にしようかとも」

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