第3章 マーカス・ウェントワース

8 屋根の上のマーカス


「な、なんでこんなところにマーカスが!」


 眞奈は反射的に窓からぱっと身を引くと、一目散に逃げ出した。


 しかしすぐに自分は今道に迷っているんだということを思い出した。


マーカスが外にいるってことはまだ授業は始まってないってことだよね。

 逃げ出すなんてバカみたい。マーカスにもう一度道を聞くか、同じ授業なんだから一緒に行けばいいじゃない!


 ジュリアは亡霊だが、マーカスは人間だ(いくら自分の空想の中では窓の魔法使いでも)。亡霊のジュリアと会って会話した後、人間のマーカスに会うのが怖くて逃げ出すなんておかしなことではないか。


 眞奈は勇気を出してマーカスの窓の方に戻りはじめた。


 さっき窓から見えたのはマーカス一人だった。イザベルはどこにいるのだろう。イザベルがいるのなら声をかけづらい。


 眞奈が外をのぞき込むべきか惑っていると、当のマーカスが窓を器用に乗り越えて廊下に入ってきた。


「あれ、君か。なんか物音がしたから何かなと思って」、マーカスは眞奈を見てびっくりしたようだった。


 そりゃあびっくりもするだろう。他に生徒は来そうもない場所に、自分が道を教えたはずの女の子がいるのだから。


「こんな場所で何やっているんだい?」


 困ってしまった眞奈はかなり恥ずかしかったが、素直に答えるより他なかった。

「えーと、正直に言うとあれからまだ道に迷ったままなの。せっかく行き方を教えてくれたのに悪いんだけど……」


 もちろん亡霊のジュリアのことは内緒だ。信じてもらえないにきまっている。これ以上、変なやつと思われたら大変!


 ジュリアのことを話したかったし、ジュリアに会った生徒はマーカスだったのかも聞きたくてたまらなかったが、眞奈はさしあたって自分の心の中にしまっておくことにした。


 ジュリアのことがまだ冷めやらず、おまけにマーカスと二人きりで話すはめになっている。心臓はあいかわらずドキドキ早打ちしており、いろいろな感情が交差し過ぎていて、眞奈はむしろ無表情になった。


「ウィストウハウスって迷宮みたいね」


「そうだよね。慣れるまで誰だって迷うよ」、マーカスは礼儀正しくフォローした。


「あなたは何やっているの?」


 眞奈の方でも、どうしてマーカスがここにいるのか不思議だった。

 こんな使われていない教室ばっかりの誰もいないエリアで、マーカスだっていったい何をしているのだろう。


 彼もなんと言ったらいいのかちょっと困っているようで、「スケッチだよ。ここからの風景、スケッチに最適なんだ」と、申しわけなさそうに言った。


「ふーん、そうなの」


 眞奈はマーカスがスケッチブックを持っているのを見てから、窓の景色に目をやった。向こうにはウィストウハウスの外壁と規則的に並んだ窓が見えるだけだった。


 とてもスケッチに最適な風景になんて見えない。それにこんな寒いのに屋根に寝そべってスケッチなんて……。


「そういえばウィルはどうしたんだい?」

 マーカスは話題を変えるように聞いた。


「ちょっと用事があるからさぼる……いえ、早退するって」、眞奈は答えた。

 逆に「イザベルは?」と思い切って聞いてみた。


「おばあちゃんの具合がよくないって家に呼ばれて帰ったよ。二、三日戻れないかもしれない」


「そう」

 眞奈はイザベルがいないのがわかると少しほっとした。


 そしてウィルの名前を耳にすると、今となっては彼方にかすんでいる記憶の中からかろうじて、ウィルの友情と自分の使命を思い出した。


「ウィルに授業のノートを貸す約束してるから、ちゃんと授業に出ないと。ここから二〇八号室って近くないよね?」、眞奈は心配そうに聞いた。


「近くはないね、ここは別館の奥だから本館までけっこうある」


「次の授業、二〇八号でしょ。私たち、遅刻しちゃわない?」


「まだお昼休みは始まったばっかりだから大丈夫だよ」


「まさか!」、眞奈は叫んだ。


 眞奈の驚きっぷりに面食らったマーカスは、「時計見る?」と、自分の腕時計を見せた。


 彼の言うとおりだった。昼休みが始まったばかりの時間だ!

 そしたら眞奈がウィストウハウスを迷っていた、あの時間はなんだったのか。


 亡霊たちと会っていた時間は現在の時間よりもゆっくり流れるとしか思えない。これはいったいどういうことなのだろうか……。


 眞奈があまりに傲然としているので、マーカスは言った。

「君がよければ、先に二〇八号室に一緒に行ってあげようか? 前もって教室がわかっていればゆっくりお昼を食べられるだろ?」


 確かにいいアイデアだった。眞奈はお昼をまったく食べたい気はしなかったが、先に二〇八号室にたどり着けば安心するだろう。


「でも遠いのに、悪いわ」


「僕にとっては遠くない。特別な近道を知ってるんだ。まかせてよ、僕はここに住んでいるんだからね」、マーカスはにっこり笑って、ついて来いという合図をした。


 住んでいるのはウィストウハウスではなくて寮でしょ、眞奈は思ったが、彼は魔法使いなんだから、きっとちゃんと連れて行ってくれるはず、と考え直した。


 そういえばさっき廊下に黒猫が突然現れて、突然消えたのだって、やっぱりおかしい。ものを出したり消したりする魔法ってあったよね。


 きっとマーカスが魔法を使ったんだ!


 眞奈は本気でそう考え、『マーカス魔法使い疑惑』は一段と高まった。


 それにしてもマーカスとこんなことになるなんて信じられない!


 次にどんな会話をしたらいいのか、眞奈が途方にくれているのを尻目に、彼は廊下の反対がわの窓を乗り越え二階の屋根に降りていた。


「な、何やっているの?」、眞奈は目をみはった。


「この窓を出て屋根の上を行くと二〇八号室に近道なんだ、さ、おいでよ」

「え、屋根の上って歩けるの? あっちまで?」


「絶対安全だからさ」、マーカスは請け合った。


 マーカスが手をかしてくれたので眞奈は緊張しながら彼と手をつなぎ、窓敷居を越えて屋根の上に立った。


 下の二階の屋根には煙突がいたるところに突き出ていたが、屋根自体は平面になっていて歩くのに問題がないぐらい幅があった。


 一緒に手はつないでいるし安全だと言われても、眞奈はやっぱり怖かった。できるだけ下を見ずに歩いた。


 そのうち、怖くてドキドキしているのか、マーカスと手をつないでいるからドキドキしているのかわからなくなってきてしまったため、自分がどんな気持ちなのか、何が今起こっているのかはあまり考えないことにした。


 マーカスとこんなに近くに並んだのは初めてだった。彼はあまり背が高いように見えなかったが実際並んでみるとけっこう高かった。


 眞奈は急にリアルなマーカスの存在を感じた。

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