14. 奮闘の果て

 大学でプリントアウトすることも考えたが、意外に内容のチェックが厳しいため、大量に印刷するのは難しいだろう。

 トナーを売っている店を検索してみると、最速で月末の配送となっており電器店とそう大差ない。メーカーにしか在庫が存在せず、どこも取り寄せとなるようだ。


 取り敢えず注文を済ませた俺は、次の方針に再び悩む。シャーペンに芯を補給しながらも、膨大な手作業を思えば躊躇しても当然だ。

 配送予定日の月末を待つか、それまでに手で書くかの二択。プリンターを新調するのは、財布へ致命傷を与えるので却下。


 自分を信じよう。まずは行動する。やはり手書き、そう腹を括った。

 手とプリンターのスピード差は、比べるのも烏滸おこがましいレベルだ。文明の機器をナメてはいけない。水分には弱いから、故障を招くしな。


 一時間で六千から七千字、そのくらいが限度か。八時までに百万字など、これでは到底間に合わないペースである。

 俺が冷静だったなら、百万字が書けないことを前提に行動したかもね。だけど、一度目の前にぶら下げられたニンジンは、目を逸らすには余りに甘美な目標だった。冷静さなんてクソ食らえだ。


 ニンジンは、生シャケの身にも似た赤さでを追い立てる。早く、もっと早く。

 小さな文字の列が、コピー用紙を隙間無く埋めていく。


 誤字や脱字は毎行に登場するが、そんな些細な間違いを修正する手間がもったいない。漢字は平仮名でいい。国風文化で行く。平安の偉人の力を憑依させ、がむしゃらに字を刻んだ。


 シャーペンの尻をカチカチ押して五行、また押して四行。ただただリズミカルに、右手は紙の上を泳ぐ魚となる。

 カチカチ、スラスラ。

 スラスラ、ボキッ、カチカチ。


 暗号表を思わせる走り書きが、徐々にスピードアップして量産される。

 スラスラ、ボキッ。


 柔らかい方が書きやすいかと、2Bの芯を選んだのは失敗だったかもしれない。折れやすく、擦れた紙も汚れる。用紙に触れる右手の肉も、既に黒々と染まっていた。

 その手で更に擦るのだから、書いた字も墨を流したように筋を描く。だからと言って、羊が読めればいいのだ。汚いと文句を言う読者なんて知らん。


 目はモニターの文字を追い、手はシャーペンを細かく動かす。

 今まで読んだ創作論には、何も増文の方法ばかりが載っていたわけではない。アイデアの出し方、構成のテクニック、キャラクター作成指南。どれも執筆には欠かせない技術ではあるが、俺は読み飛ばした。


 増文法の他に興味を持ったのは、“速筆法”だ。原稿を素早く仕上げるためには、この技術が最重要視される。

 昨今はデジタルデータ、つまりはキーボードによる入力が主流なものの、もちろん手書き用の技も存在した。


 残念ながら、速記文字や、両手を一度に使う二重筆記ダブル・ハンズは上級者向けである。字を小さくして、指の運動量を減らす省エネルギー法など、俺でも使える小技を駆使して書き進む。


 二時間で三万字のハイペースを実現しようかという頃、速筆の次段階ネクストレベルに手を掛けた。

 無視覚筆法ブラインド・ライティング、目に頼らず書く。


 既存の原稿をコピーする今回、この技法を習得できた効果は大きい。両目はノーパソへ向けたまま、手は忙しく書き続ける。

 脳にエンドルフィンが分泌されることで、指の痛みも一時的に消えた。高速筆記機械と化した俺。ライターズ・ハイの賜物だ。


 三時間で六万字、まだ加速できる。

 ドライ・アイは気合いで乗り切り、中指の皮が剥けても無視した。そのうち、人差し指の先にも水疱が出来て、四時間目にはペロンと表皮がめくれた。


 激闘が開始されて五時間目、夜の六時を迎えた時、用紙に小さな血の斑点が散る。いつの間にか、親指の爪の付け根を痛めてしまったらしく、端から血が滲んでいた。


 痛みはともかく、血で字が読めなくなるのは困る。バンドエイドを三つの指に巻き付け、余計な時間を食ったと愚痴りつつ、また執筆を再開した。

 七時間が経過し、そろそろラルサの出現する時刻が近付く。


 この時点で達成した計二十万字と少しの手書き原稿は、堂々たる成果だった。通常の文庫本二冊に該当する数に恥ずべき点は無く、半日で成し遂げたことを誇っていい。

 しかし、羊の声がタイムアップを告げた時、俺は落胆せざるを得なかった。


「今日の分はそれ?」

「あ……いや、これは明日のだから……」

「ふーん。書き溜めたんだ」


 循環化を食わせるなら、百万字を一度に用意したい。一日二十万字ペースなら、餌を追加で用意するにしても一週間内に決着が付けられる。

 ここまで頑張ったんだ。手でやり遂げよう。


「ねえ、まだなの?」

「あっ、はい。これをどうぞ」


 印刷された最初の数枚に、手書き原稿を足して羊の前に置く。

 循環がバレると何をされるか分からないので、ループ二日目の記述を渡さないように細心の注意を払った。

 最初の一日、一万字が、今夜供される食事である。


 フルフルと揺れる羊の頭を眺めつつ、酷使した右掌を揉む。落ち着くと、親指の付け根が休息を訴えて痛み出した。

 消痛剤、あとサポーターも買った方がいいな。目薬も欲しいし、薬局に行くか。薬を揃えても、もう一台プリンターを買うよりは安い。


 電車で半時間の街まで行けば、テキストデータを印刷できるプリントショップが在ったと思う。安い機種があるなら買ってもいいし、店を覗くくらいはしてみよう。

 せめて都心ならプリンターも簡単に手に入っただろうに、辺鄙な場所に移転した大学キャンパスを恨むしかなかった。


 筋肉の炎症はともかく、作業の手応えは感じていた。後半になるほどスピードが上がったのは、単に手書きに慣れただけが原因ではない。同じループを書き続けるうちに、話を覚えてしまったのだ。


 微妙な変更点にさえ留意すれば、空で書くこともできる。無脳筆記法ノンブレイナー、速記量産における一つの理想形を俺は獲得していた。

 これなら一日で三十、いや四十万字も無理じゃない。今後の作業へ頭を切り替えている時、ラルサが今日の評定を告げる。


「一万二千六百七字。ちょっと消さないとダメだね」


 食い足りなかったか。厳しいな。何の記憶を食われる?


「循環化は忘れてもらうよ。これ、繰り返す気でしょ」

「えっ! なんで――」

「まったく、荒俣が余計なこと書くから。契約終了後だし、消して回るのも一苦労だよ」


 どうしてバレた!?

 残った原稿の出だしを読んで、主人公がループする前から始まることを確認する。食べさせたのは一日目に寝るところまで、この段階で循環化を使っているとは――。


「ああっ! プロローグ……」

「“これは主人公が繰り返す激闘の記録である”、一体、何回循環させるつもりだったのやら」


 強化土下座。頭を畳へ杭打ちして、い草が潰れるほど擦りつける。


「消さないで! お願いです。せっかく書くのも上達したのに!」

「ボクもさ、一からリスタートは面倒臭いんだ。でも、循環は不味いからさ」

「使いません、循環化は使いませんから!」


『チーカル』、この昨夜の夕食は、本当にラルサを喜ばせていた。機嫌の良さは続いており、今日もいきなり赤眼を発動させたりはせず、穏やかに話を続ける。


「一万字毎に、区切って食べることにするよ」

「じ、じゃあ!」

「循環化が使ってあったら、それ以上は食べない。キミをリスタート・・・・・させる」

「あ……」


 百万字を書いても、一気食いしないのなら循環化は不発に終わる。必殺の裏技は完全に封じられた。


「昨日みたいなのをまた書いてよ。あれ、面白かったなあ」


 短い尻尾を振りながら消える羊を、表情を無くした俺が見送る。

 右手を犠牲にした二十万字は、ゴミとなった。打ち込んだ百万字も、同様に電子のクズだ。


 二十時間を優に超える作業が、何の益も生まない内に虚無へと帰す。奮闘を笑う残酷な結末に、俺は気力を吹き飛ばされた。

 明日からの餌を書かなくては――頭が指示を出しても、身体が言うことを聞いてくれない。


 畳の目の跡が刻まれた額を、またゆっくりと床へつける。

 こんなの、何日続けるんだよ。羊しか喜ばない文章の山を、狭いアパートの一室で作り続ける日々。


 作家になりたいわけではない。表現したい言葉なんてない。紡ぎたい物語なんて、これっぽっちも抱えてはいない。


「もう……許してくれ……」


 体を折り曲げたまま、徒労に終わった手書きの原稿を掻き寄せる。乱暴に、グシャグシャに掴んで、手が白くなるまで紙の束を握り締めた。


“私は読みたくないわ”


 奈々崎さんの言葉が、なぜか今言われたかのように耳元で再生される。

 俺だって読みたくない。書きたくだってあるもんか!


 理不尽な羊には何度も泣かされそうになったが、本当にポロポロと涙を落とすのは、この時が初めてだった。

 畳に、そして潰し丸められた原稿に、水滴が丸く染み込んでいく。


 丸めた背中が小刻みに奮え、最後には小さな呻きが漏れ出した。

 右手の痛みは、これ以上なく酷い。またペンを持てば激痛に喘ぐだろう。だが、指より痛いものがある。背中を押さえる重圧が、床に体を縛りつけた。


 胸のスマホが震動していたことに気がついたのは、それから半時間後のことだった。

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