第二四話 紫苑と天狼
1
真冬である。
真っ暗な天から白い雪が舞い降りて、音もなく積もっていく。
その雪の白い世界を、月光が照らしている。
俺は薄紫色の毛糸の手袋を脱ぎ、黒いスーツのポケットにしまった。
「可愛らしい手袋ですね」
正面に対峙する、若者が言った。
「鬼には、とても似合わないな」
俺は言い返す。
「この手袋を馬鹿にしたこと、必ず後悔させてやるぞ。伊吹の裔(すえ)よ」
「ふむ。ただの鬼ではないようです」
鬼退治を務めとする伊吹家の裔は、白い帽子を脱ぎ、脇に投げた。
「どうやら、『ぼうふら』のように湧いた鬼ではありませんね。鬼の腹から産まれた、先祖代々の鬼畜生です」
俺は一笑に付した。
「一応、名前を聞いておきましょうか。おっと、あなたの墓に刻んであげるためではありませんよ?」
伊吹の裔は、薄く笑う。
「あなたの首に名札を付けて棚に並べた方が、何かと笑うのに便利だからです」
「噂通り、お喋りな男だ。口から産まれて来たか? お前の母親は、変わった産み方をしたようだな。それは、変わった『種付け』をしたからなのか?」
「ふん。お喋りなのは、そちらも負けてはいないようですね。まさか、名前がないわけではないでしょう? それとも『ぼうふら』程度の鬼なのかな」
「ふざけるなよ。いいだろう。自分を殺した鬼の名ぐらい、知っておいても損はあるまい。地獄で俺の名を呼び、呪いのひとつでもかけてみろ。 俺の名は」
俺は、天を指差した。
「天狼、と言う」
2
「天狼星。シリウス、ですか」
伊吹の裔は言う。
「鬼にしては、もったいない名前だ。ポチにでも改名なさい」
面白い。実に面白い男だ。
気狂いだらけの伊吹家の人間の中でも、特別何かが、少し狂っている。
「その悪態の数々は、俺を動揺させるためなのか?」
伊吹の裔の表情は、変わらない。
「それとも自分に言い聞かせているのか? 目の前の鬼は敵だ、殺さねばならないのだ、と。そう思わねば、鬼一匹切れぬか? なあ、お優しい伊吹の裔よ」
伊吹の裔の目が、すうっと細くなった。
「僕は、お優しい男ですよ。あなたを苦しめることなく、その首を切り落として差し上げましょう」
伊吹の裔は上下とも、雪のように真っ白なスーツを着ていた。そして空のように青いネクタイ。腰まである黒髪は、闇のような漆黒だ。鬼の俺が見ても美しいと思う、その顔。茜色の唇。
「伊吹の裔よ。いや、伊吹冷泉よ。俺は紫苑・鬼皇様に、その首を必ず持ち帰ると誓ったのだ。ここで死んで貰うぞ」
「僕だって、光輝・当主様に命じられているのでね。ここで死んで頂きますよ」
「ならば。お喋りはそろそろ止めだ。やるか?」
「やりましょう」
俺は人の姿を捨てて、鬼になった。闇でもはっきり目が見えるようになり、額から気の流れが読める2本の角が生える。犬歯は伸びて、骨をも噛みちぎる凶器となる。そして両爪も長く伸びて、すべてを切り裂く刃となった。
冷泉は太刀を抜き、鞘を捨てた。
それが、合図となった。
3
我(わ)は『長老の間』の玉座に、ゆっくりと腰かけた。
見回して、言う。
「何であろうか、長老会の皆様方」
十二人の長老のうちの、一人が言う。
「紫苑・鬼皇よ。我らは長命ゆえ、焦ることは何もないのだが、しかし、人間ふぜいに侮られるのは我慢がならぬ」
他の長老たちが続ける。
「最近、伊吹の者が、図に乗っておるようじゃの」
「我ら鬼族の者は、決して多くはありません。虫けらのように増える人間とは、違うのですから」
「それなのに、あの憎き太刀により、同胞(はらから)が次々に露と消えて行くことを、如何お思いかな?」
「もちろん」
我は答える。
「忌々しく思っているぞ。長老会の皆様と同じようにな」
長老の一人が叱責する。
「同じでは足りぬのだ! 紫苑・鬼皇には、我々以上に痛恨の念を持って頂きたい!」
我は、頭を下げるしかない。
「申し訳ない。長老様の仰る通りだ」
別な長老が、擁護してくれた。
「まあまあ、紫苑・鬼皇はまだお若いのだ。それを導き助けるのが、我ら長老会のお役目だろうに」
「うむ。では、我ら長老会は進言しよう。我ら鬼族も、手をこまねいてばかりいるのは如何なものか、と」
我は尋ねる。
「つまり?」
「戦士を送り込むのだ。それで汚れた太刀をへし折り、伊吹の裔の首を持ち帰らせよう」
ある長老が、別な長老に尋ねる。
「今の太刀の持ち主は、何と言ったかのう?」
「冷泉、ですよ」
長老の一人が、口を開く。
「実を申すと、送り込む戦士は、すでに選んでおるのだ」
嫌な予感がした。
「その戦士とは、誰であろうか?」
長老は、きっぱりと言った。
「天狼だ。手始めには、あの者が相応しいだろう」
4
俺は驚いていた。
冷泉は見た目よりも強い。
女のような、なりなのに、だ。
剣技も馬鹿にはできないが、なによりも自分の戦い方を知っている。
その戦い方には鞘が邪魔なことを、知っている。
だが。
俺の方がはるかに強い。
俺は足をやられたが、冷泉の片腕を使えなくした。
片腕で、どこまで戦えると言うのだ?
俺は雪の上を、足を引きずる。
まったく、ふざけた太刀だ。何でも易々と切れる上に、鬼の回復力を持ってしても、治らない傷を与えるとは。
恐るべし、刀匠・正宗よ。
しかし今、津軽正宗は折られるのだ。ただの鉄片となるのだ。
「ごおお!」
俺は駆けた。
冷泉の首を取る。
そして。
必ず。
俺の爪が、冷泉の首をはねた。
転々と首が転がる。
やった、のか?
いや軽すぎる。
「!」
転がっていたのは、雪の固まりだった。
俺は振り返る。
だが遅い。
太刀が、脇腹に降り下ろされる。
「があ!」
俺の爪が同時に、冷泉の肩に食い込んだ。
5
我は『鬼皇の間』に戻り、天狼を呼び出した。
「お呼びでしょうか、紫苑・鬼皇様」
深々と頭を下げる。
「うむ。長老会の決定だ」
我は、命じねばならない。
「汝(な)は、あの禍々しい太刀を折り、伊吹の裔、冷泉の首を持ち帰らねばならぬ」
「御意」
天狼は、それだけ言った。
そして沈黙。
天狼が、やっと口を開いた。
「下がっても宜しいのでしょうか。私にも、準備がありますので」
「あ、ああ」
天狼は尋ねない。自分がなぜ選ばれたのかを。
手始めには相応しい、だと? 馬鹿にしている!
我は、退室する天狼の背中に声をかけた。
「お前なら、必ずできると信じているぞ」
天狼は振り替えって、頭を下げる。
「ありがたいお言葉。必ずや冷泉の首を持ち帰ります」
6
俺は雪面に膝を突いていた。
倒れるわけには、いかぬ。
俺のプライドが許さぬ。
だが脇腹から溢れる血が雪を染め、溶かしていた。
面白い。本当に面白い男だ。
あの窮地で『幻身(げんしん)』を使うとは!
だが、もう同じ手は食わぬぞ。
俺はポケットに手を入れた。
そこには、薄紫色の手袋がある。
ならば。
負けるはずが、ない。
冷泉は雪の中に、うつ伏せに倒れている。
もはや立つ力もないか。
首を貰う。
その首を貰うぞ。
「冷泉!」
俺は、最後の力を振り絞って襲いかかった。
冷泉がこちらを向く。
ぞくり、とする。
その目は、死んではいなかったのだ。
7
自室に戻り、服を脱ぐ。
ブラジャーを外し、ふう、と息を吐く。
それから夜着に着替えた。
今宵は、報告があるまで眠るわけにはいかない。いや、眠れるわけがない。
我は箪笥から、編みかけのマフラーを取り出した。
色はもちろん薄紫色だ。
他の鬼族、ましてや長老会に見つかったなら、女じみた趣味だと笑われるに違いない。
だがいいだろう。
我だって女なのだ。
鬼皇とは言え、ただの女の子に戻りたい時もある。
それにしてもマフラーとは!
手袋でさえ恥ずかしそうに受け取り、こっそりと使っている彼なのだ。
マフラーなんて、いつ、どこで使ってくれるのだろう?
彼の生真面目な、困ったような顔を思い出すだけで可笑しかった。
8
夜だった。
天狼は雪の中に座り、その腕の中に、我は後ろから包まれている。
空は澄み、星々が煌めいている。
「どれがシリウスかわかる?」
「もちろんだ」
天狼は指差す。
「この冬の星空の中で、一番輝いて見えるのが天狼星だ。それは地球から見える、もっとも明るい恒星だからな」
「いいなあ」
我は言う。
「天狼はいい名だ。羨ましいよ」
「紫苑だって良い名だ」
「そうかなあ? 別名は『鬼の醜草(しこぐさ)』だよ? 両親は何を考えて名付けたのだろう?」
「俺は紫苑が好きだ。薄紫色の、とても可憐な花じゃないか」
「でも花言葉だって、あんまり縁起が良くないよ。『遠くにいる人を思う』とか『君を忘れない』とか、そんなのばっかりだ」
天狼は笑う。
「人間が付けた名前や花言葉など気にするな。紫苑は良い花だ。美しいし、その根は薬になるじゃないか。素晴らしい花だ。俺は紫苑という花が好きだ」
「ふん。そんなに好きなら」
我は、わざと機嫌を損ねたふりをする。
「花の紫苑と結ばれればいいさ!」
「ああ、紫苑」
天狼は我を抱き締める。
「もちろん花の紫苑より、鬼の紫苑の方が好きだ」
「だったら態度でしめしてよ」
「ああ」
天狼は我に口付けする。
ゆっくりと唇が離れた。
我は言う。
「それだけなの? 口付けだけで、態度をしめせたと思うの?」
「まさか」
天狼は、我を雪の上に押し倒した。
9
薄紫色のマフラーを、ただ無心に編み続ける。
手を止めると恐くなってしまう。
我の天狼は無事なのか、と。
だからなるべく考えないように、手を動かす。
だが不意に時計が鳴り、我は現実へと引き戻されてしまった。
信じよう。
天狼は、冷泉の首を持ち帰ると誓ったのだから。
時計を見る。
天狼は、いつ戻って来るのか。
戻って来たら。
我は天狼を抱き締める。
そして、もう二度と離さない、と誓う。
我は長老会に言おう。
天狼と夫婦になる、と。
忌々しい太刀を折り、冷泉の首を持ち帰ったなら、誰が反対できようか?
例えそれが身分違いの、許されぬ恋であったとしても。
我は再び手を動かして、マフラーを編む。
薄紫は、紫苑の色。
天狼の好きな、紫苑の色。
10
「紫苑・鬼皇様」
臣下の者が、障子の向こうで我の名を呼んだ。
「何用か」
鬼皇の声で、我は答える。
臣下の者は言った。
「誠に残念なことを、お伝えせねばなりません」
我の手から、マフラーが落ちた。
11
雪は、いつの間にか止んでいた。
夜空には星が散らばっている。
我は夜着のまま、外に飛び出していた。
頭上を見た。
天狼星が輝いている。
あの時と同じように、輝いている。
涙が頬を伝う。
嗚咽が漏れる。
ああ。
天狼星は、変わらず輝いているのに。
我の天狼は、墜ちてしまった。
雪に足を取られる。
白くて冷たい雪の中に、我はうつ伏せに倒れる。
拳で雪面を叩く。
二度、三度。
「ああ!」
声が出た。
それは人の声ではない。
鬼の、声だ。
愛しい者を失った者だけが発する、呪詛の声だ。
許さぬ。
伊吹の者は、誰一人として許さぬ。
そして冷泉。
お前の首は未来永劫、飾り物にして笑ってやるぞ。
我は身を起こした。
我は、もう女ではない。
恋に身を焦がす、女などでは、ない。
我は涙を拭いた。
もう泣かぬ。
涙など流さぬ。
我は鬼を統べる闇の皇、鬼皇なのだから。
天狼。
安心して眠れ。
我は必ず、仇を取るぞ。
12
部屋に戻ると、床に薄紫色のマフラーが落ちていた。
我はそれを拾うと、『力ある言葉』を唱えた。
手の中でマフラーは燃え、すぐに灰になった。
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