第一八話 魚夫王(いさなとりのおう)《改訂版》

 1

 俺たちは、 青森県新郷村(しんごうむら)にレンタカーで向かっていた。この村は、野沢村の一部と、戸来村(へらいむら)が合併してできたものだった。

 そこに向かう理由は、『キリストの墓』があるからだ。

 それは今回の旅の、目的のひとつである。

「キリストの遺骸は、エルサレムの『聖墳墓教会』に埋葬されているんじゃないの?」

 助手席の智美が言う。

「うん。良く知っているね。でも半分当たりで、半分外れだ」

「そうなの?」

「そうなんだ。キリスト教では、キリストは葬られた後、復活し、肉体ごと天に昇ったとされているからね。だから埋葬はされていない」

「うーん。じゃあ、新郷村の『キリストの墓』はなんなの?」

「新郷村のホームページを見てごらん」

 智美は、俺のタブレット『ネクサス7』に指を走らせた。

 そして、読み上げる。

「『ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡っていた』そんな突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現・北茨城市)にある『皇祖皇大神宮( こうそこうだいじんぐう )』の竹内家に伝わる『竹内(たけうち。または、たけのうち)古文書』から出てきたのが昭和10年のことです。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、『キリストの墓』を発見しました」

「そうそう」

「えーと」

 智美は、困っているようだ。

「どこから突っ込んでいいわけ? 『密かに日本に渡っていた』って何? 『竹内古文書から出てきたのが昭和10年』って何? 『キリストの墓を発見しました』って何? それ以前は、何だと思われてたの? で、『皇祖皇大神宮の竹内家』って、そもそも何?」

 まあ、もっともな反応だ。

「『密かに日本に渡っていた』というのは、そう言ってるんだから、しょうがない。反論しても無駄だろう」

「うん。そうかもね」

「『竹内古文書から出てきたのが昭和10年』というのは、まず『竹内古文書』から説明しなきゃいけない。

 順番が逆になるけど、『皇祖皇大神宮の竹内家』というのは、皇祖皇太神宮天津教(あまつきょう)を興し、同宮の神職だった 竹内巨麿(たけうちきよまろ。または、たけのうちきよまろ)氏の家のこと。

 この巨麿氏が、祖父から譲り受けたと言い、昭和10年に公表したのが、『竹内古文書』だ」

「へえ。その文書に、『キリストの墓』が載っているわけね」

「内容は、それだけじゃないんだけどね。

 その中に、これが『イエス・キリストの遺言』とされているんだけど、『イスキリス・クリスマスの遺言』という『イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文』で始まる文書があるんだ」

「ちょっと待って。『キリストの墓』だけじゃなく、『キリストの遺言』まであるの?」

 智美は、もうついていけないようだ。

「それによると十字架上で死なずに、日本に渡来したんだそうだよ。ゴルゴダの丘で処刑されたのは、弟のイスキリだそうだ。

 そして、1935年、つまり昭和10年、8月初めに竹内巨麿が青森県の戸来村、現在の新郷村で発見した十来塚(とらいづか)が、『イスキリス・クリスマスの墓』すなわち『キリストの墓』としたんだ。ちなみに、十来塚というネーミングは、竹内巨麿が、そう村長に書くように言ったんだとか。

 その前は、誰か偉い人の墓だとは伝わっていたらしい」

「うーん。要約すると、『竹内巨麿』さんが、『竹内古文書』に書かれている通りに、『キリストの墓』を発見したのね」

「そうそう」

「じゃあ、『竹内古文書』って凄いわねえ」

「でも、偽書とされているんだよ」

「はーあ?」



 2

「 一般には研究家らからは、偽書とされているんだ。竹内巨麿氏が捏造した文書、とされている。だから一般には『竹内文書』と呼ばれるんだ。『古』ではない、って言うわけさ。

 ただ、馬鹿にしてはいけない。今もなお、『皇祖皇大神宮』は信仰されているんだからね。

 元々の『竹内(古)文書』は、彼の天津教と直接関係はないんだけど、『竹内(古)文書』の内容と、さらに『新宗教天津教』の教理が加えられたものが、同宗教団体の教典に位置づけられているんだ」

「ふーん。『皇祖皇大神宮』の人にとっては、『キリストの墓』は真実ということになるのかしら?」

「 ホームページには『古代の日本の天皇(スメラミコト)に会うために、世界中から聖人と呼ばれるイエス・キリスト、釈迦、マホメット、老子、孔子など世界の大宗教教祖はすべて来日したと伝えられています』って書いてあるから、そう信じられているのだろうね」

「ふーん」

「まあ、それが真実であろうとなかろうと、新郷村が『キリストの墓』を使って、村おこしをしようとしているのは確かなわけさ」

 そうして俺たちは、新郷村に到着した。



 3

 俺たちは、『キリストの墓』と『キリストの里伝承館』を見終わり、またレンタカーに乗った。

「どうだった?」

 そう尋ねると、智美は困った顔をする。

「戸来村の名の由来がヘブライが訛ったものだとか、ユダヤ人と同じ単語、風習があるとか、ヘブライ語と思われる歌が伝わっているとか、家紋がダビデの星の家があるとか」

「信じた?」

「ううん。正直に言うと、まるで悪い冗談を次々と見せられてるみたい」

 うまいことを言う。

「とどめは、お墓の足元にあった石碑よ」

 智美は、デジカメを見ながら読み上げる。

「『この石はイスラエル国、エルサレム市と新郷の友好の証としてエルサレム市より寄贈されたものである』って、どういうこと? イスラエルも『キリストの墓』を認めているわけ?」

「どうなんだろうねえ」

 そうとしか言えない。

 写真を見ながら、智美は続ける。

「申し訳ないけど、これはちょっと信じられないわ。いい?

 『 イエスキリストは21歳のとき日本に渡り12年間の間神学について修行を重ね33歳のときユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架に礫刑に処さんと致しました。

 しかし、偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架上の露と果てたのであります。

 他方、十字架の礫刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び日本の土を踏みこの戸来村に住居を定めて106歳長寿を以って、この地に没しました。

 この聖地には、右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祀っております。

 以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております 』」

「うんうん」

 智美はこれはこれで、ハマっているのかもしれないな。

「だって、キリストがここで死んだとするならよ?」

「うん?」

「いいわ。もう、なんでもない」

 ふむ?

「それで、次は奥入瀬渓流に行くんでしょ?」

「ああ。今度は、大自然の素晴らしさを満喫しようじゃないか」



 4

 レンタカーを駐車場に停め、俺は一人、渓流をぶらぶらしていた。智美は宿泊先の宿に、電話をかけている。

  奥入瀬川の渓流は約14kmあって、十和田八幡平国立公園に属する、国指定の特別名勝及び天然記念物だ。

 木々の緑と、苔の緑が、とても美しい。そこは緑色の世界だった。

 そうして歩いていると、魚釣りをしている老人がいた。

 置いてあるバケツを見ると、恥ずかしながら種類はわからないのだが、魚がたくさん入っている。

 老人が、片足を引きずりながら、こちらにやって来た。

「釣れているようですね」

「まあね。俺は王様だから」

 王様?

「王様ってなんですか?」

「魚釣りの王様だよ」

 何か、魚釣りのコンテストででも優勝したのだろうか?

「でも、こんなに釣ってどうするんです? 一人では食べきれないでしょう?」

「なあに。俺は、これで生計を立ててるんだ」

 ふむ。近くの食堂や旅館に卸しているのかもしれないな。

「それにしても、足、辛そうですね」

「昔、槍に刺されてね」

 槍?

「治らないんだ。ずっと傷の痛みに苦しんでるんだよ」

「それはそれは、大変ですね」

 そこへ、智美がやって来た。

「シゲちゃん、大変だよ!」

「どうした?」

「ごめん。あたしのミスで、宿泊予約が、一週間ずれてたって」

「ええ?」

「ごめん! 本当にごめん!」

 まあ、智美らしいミスだ。

「いいよ、いいよ。トラブルは旅の醍醐味さ。どこか空いてる旅館を見つけて入ろうぜ」

 すると、魚釣りの王様が言った。

「なんだ、あんたら、宿がないのかい?」

「じつは、そうみたいなんです」

「だったら」

 魚釣りの王様は指差す。

「この道をまっすぐ行くだろ。2つめのT字路を右に曲がるんだ。で、どこまでも山を登って行くと、小さいけど旅館がある」

「へえ」

「魚釣りの王様に聞いた、って言いな。良くして貰えるから」

 うん、面白そうだ。

 俺たちは、お礼を言って別れた。



 5

 本当にこの道でいいの? 騙されたんじゃない? と智美が心配するくらい、俺たちは山を登った。

 そうすると、確かに小さな旅館があった。

 外見は、とても美しい。

 俺たちは駐車場に車を停めて、玄関をくぐる。

「こんな山奥の宿に、ようこそ、おいでくださいました」

 女将が、深々と頭を下げて迎えてくれた。

「じつは飛び込みなのですが、一泊、どうにかなりませんでしょうか」

「まあまあ。こんな宿で良ければ、ゆっくりして行ってくださいな」

「ありがとうございます!」

 値段はひょっとしたら高いのかもしれないけど、まあ、それは旅の必要経費というものだろう。

 仲居さんの後に付いて、俺たちは板張りの廊下を歩いた。

「素晴らしい宿ですね」

「ありがとうございます。でも、地元の人でも、知ってる人は少ないんですよ。お客様方は、どこでお知りになりましたか?」

「はい。じつは泊まる所がなくて困っていたら、偶然、魚釣りの王様、と名乗る老人に教えて貰いまして」

「それは、まあ。運が良かったですわねえ」

「はあ。あの老人は、何者なんでしょうか?」

「ここの社長ですよ」

 え?

「この宿の、経営者なんですよ」



 6

 俺たちは、早めのお風呂に入った。湯船は大きくはないが、とても良いお湯だった。

 そして、早めの夕食にした。

 とても細かいところまで気が利く宿で、むしろこちらに泊まって正解だったかも知れない。

 ちなみに智美が予約していた宿は、宿泊一週間前だったので、キャンセル料は発生しなかった。

 そうして、見た目にも素晴らしい料理を、「これは美味しいねえ」とか「これは何の魚なんだろう?」とか言いながら、楽しく食べていると、ふすまの向こうで「よろしいですかな」という男性の声がした。

「どうぞ」

 顔を出したのは、魚釣りの王様だった。

「どうだい、この宿は?」

「はい、とても素晴らしいです!」

「そうかそうか。そりゃあ良かった」

 智美が言う。

「こちらのオーナーだったんですね」

「うん。これは俺の城だ」

 俺の城! 男だったら、一度は言ってみたいセリフだなあ。

「お客さんたちは、これから、どこへ行くんだい?」

「はい、弘前に行きます」

「弘前かい。やはり、そうか」

「なんでしょう?」

 あっ。

 魚釣りの王様の目は、ルビーのように真っ赤だった。

 これは。

 人間の目では、ない。

 俺はその目を見ていると、そんな経験はないのだが、悪いガスでも吸ったかのように、くらくらとしてきた。

「弘前に行って、『聖杯』を持って来てくれないか」

 智美が、寝ぼけているみたいな声で尋ねる。

「『聖杯』ってなに?」

「うん」

 魚釣りの王様は言った。

「英語では、『ホーリー・グレイル』って言うんだ」



 7

 あたしとシゲちゃんは、弘前の、あるお屋敷の前にいた。

 とても大きなお屋敷だ。

 表札は、『伊吹』。

 ここで、間違いない。

 シゲちゃんが、インターホンを鳴らす。

「どちら様でしょうか」

 すぐに、若い女性の声がした。

「宅急便です」

 シゲちゃんはそう答える。

「どちら様からの、宅急便でしょうか」

「えーと、佐藤様ですね」

「佐藤、何様でしょうか」

 めんどくさい女だ。

「佐藤茂様です」

 なんでシゲちゃん、本名を名乗っちゃうのかなあ。

 まあ、いいか。

 皆殺しにするんだし。

 しばらくして、潜り戸(くぐりど)が開いた。

 シゲちゃんは、人影に向かって、包丁を持って突っ込んだ。

「!?」

 くるり。

 シゲちゃんは上下逆さまになって、頭から地面に叩き付けられていた。

「馬鹿にされたものです」

 まだ若い女性が、あたしに向かって言う。

「あなたも、逃がしません」



 8

 目が覚めると、座敷に寝かされていた。

 布団はとても立派なものだ。

 隣には同じく、智美が寝かされている。

 後頭部が、ずきずきした。

「目が覚めましたか」

 脇に正座していた、綺麗な女性が言う。

「痛みますか」

「ええ。正直に言いますと」

 俺は布団の上に、上半身を起こした。

「紅(べに)、あなたを倒した者ですが、まだ若く、手加減を良く知らないのです。前よりだいぶ、ましになりましたが」

「はあ」

「では、冷泉(れいぜい)様をお呼びします。しばらくお待ち下さい」

 その女性は、部屋を出て行った。

 しばらくして、もっと綺麗な人が入って来る。

 その人は黒髪を腰まで伸ばし、上下とも真っ白なスーツを着ていた。ネクタイは青だ。

 腰には、日本刀をぶら下げている。

 この人が、冷泉様らしい。

 俺の前に、正座して言う。

「こんばんは。この伊吹の家に侵入しようとするなんて、無謀にもほどがありますねえ」

 びっくりした。この綺麗な人は、男性だったのだ。

「本当に申し訳ありません。警察には連絡しましたか?」

「いいえ。たぶん、連絡はしないと思いますよ」

 ほっとした。

「でも、事情は説明して貰います」

「はい。しかし、なぜこうなったのか、自分でも良くわからないのです」

 俺は、これまでの経緯(いきさつ)を説明した。魚釣りの王様という老人に出会ったこと。その老人が、宿を紹介してくれたこと。その宿に泊まっていたら、老人がやって来て。

「真っ赤なルビー色の目でした。それ以降は、ぼんやりとして記憶が曖昧なのです」

「ふむふむ」

 冷泉さんは、足を崩した。

「光輝(こうき)・当主様に、お伺いしてみましょう」

「あなたが、この家の主人ではないんですか?」

「いやいや。それは恐れ多いことです。僕は嫌な予感がして、このお屋敷にいただけですよ。碧(みどり)?」

 そう声をかけると、先程の女性がさっと現れた。

「お呼びでしょうか」

「当主様にお会いしたいんだ。お伺いしてくれるかい?」

「かしこまりました」

 頭を下げて、去って行く。

 冷泉さんは、俺に言った。

「まあ、今後どうなるかは、当主様のご判断しだいですね。ひょっとしたら、あなたたちも警察の厄介にはならないかも知れませんが」

 冷泉さんは、恐ろしい言葉を続ける。

「生きて、この家から出られないかも知れませんね」

「ええっ?」

「当主様は、絶対ですよ」

 そう言って、美しいゆえに、いっそう恐ろしく見える笑みを浮かべた。

「それが、伊吹家なのです」



 9

 俺はレンタカーをまた運転していた。

 助手席には智美、後ろには伊吹冷泉さんを乗せている。伊吹さんは、日本刀を持っていた。頭には白いソフト帽をかぶっている。

「あの老人は、何者なんですか?」

 智美が、伊吹さんに尋ねる。

「魚釣りの王様、と呼んでは、わからないかも知れませんね。漁夫王(いさなとりのおう)と呼べば、ピンとくるかも知れません」

 ええっ!

「漁夫王って、あの『聖杯伝説』に出てくる王様ですか?」

「そうです。だって、あなたたちは、伊吹のお屋敷に、『聖杯』を奪いにやって来たのでしょう?」

 目眩がしてきた。

「ねえ。さっぱり、あたしにはわからないんだけど」

 俺は説明する。

「『聖杯伝説』とは、 一般に『聖杯』、英語では『ホーリー・グレイル』を追い求める物語全般をあらわすんだ。中世西ヨーロッパに成立し、キリスト教的背景をもつんだけど、聖伝承すなわちキリスト教教義の一部とされたことは一度もない。むしろ世俗的な、騎士道文学の中で発達したものなんだ」

「ふーん」

「『聖杯伝説』とは、簡単に言うとこうだ。とある若者が、旅の途中、釣りをしている男に出会う。若者はその漁夫にどこか泊まれる所はないかと訪ねる。その漁夫は、この近くに宿泊できるような場所はないが、自分の言う通りの道をたどれば宿があると言い、道を教える」

「それって、あたしたちの場合と、良く似てるわ!」

「うん。若者は漁夫の言うとおりに道を進むと、やがて立派な城にたどり着く。

 その立派な城の主は、先ほどの漁夫で、若者は歓待を受ける。

 漁夫王は、足に怪我をしていた。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で有名になった『ロンギヌスの槍』で刺され、 この怪我は自然治癒しない呪われたものだったから、以後はずっと傷の痛みに苦しんでいたんだ。

 それからは、簡単に、はしょるよ?

 漁夫王が病むことによって、彼の王国も同様に病み、肥沃な国土は荒野へと変わってしまっていた。

 そこで、王の病を癒すために若者が『聖杯』を探す旅に出て、数々の試練を乗り越え、『聖杯』を探し当てて、王と王国を癒すことに成功する」

 伊吹さんが言う。

「まあ、いろんな説というか、いろんな類型があるのですが、概ねそういう話ですね」

「あたしたちは、『聖杯』を持ち帰ることはできなかったわよ。そこは、物語とは違うわね。で、王と王国を癒すことには失敗したわけだ」

「うん。ちなみに『聖杯』に注がれた飲み物を飲み干すと、たちどころに傷や病を癒し、長命と若さを授けるとされているよ。それを手に入れた者は、世界を征服できるとも言う。あのアドルフ・ヒトラーも探し求めていたらしい」

「そんな凄い物が、伊吹家にはあるの!?」

「はい。あくまでも『聖杯』のような物なのですが、家宝のひとつなのです」

 信じられない話だ!

「『聖杯』には、どうしてそんな凄い力があるわけ?」

「十字架上の、イエスの血を受けた杯だからだ」

 伊吹さんが付け加える。

「『最後の晩餐』のとき、もちいられた杯、とも言いますね。まあ、こちらは英語では『ホーリー・グレイル』ではなく『ホーリー・カリス』と呼んで区別するみたいなのですが」

「それよ!」

 智美は、突然、大声を出した。

「キリストが青森で死んだなら、有名な『最後の晩餐』だって、青森で行われたはず、と、あたしは思ったのよ!」

 いろいろと繋がってきた。

「つまり、青森には『キリストの墓』がある。だから、文字通り最後の食事という意味になるけど、『最後の晩餐』も青森で行われた。だから『聖杯』も青森にある。で、それによって、『聖杯伝説』も青森が舞台であり、よって『漁夫王』も青森にいる」

「はい。そういうことです」

 伊吹さんは、さらりと言ってのけた。

「でも、でも」

 とても信じられない。

「ちなみにこれが」

 伊吹さんは、日本刀を持ち上げて見せる。

「漁夫王の足を傷つけた、『ロンギヌスの槍』なのです」



 10

「碧に調べて貰いました。遠い昔に、この伊吹家の伝家の宝刀・津軽正宗、『ロンギヌスの槍』とは呼びませんよ?、で、足を刺されたものの、逃げ延びた鬼がいたそうです」

「鬼?」

「そうです。青森にいる漁夫王は、鬼なのです。そして、その鬼は、自分の足を治すため、自分たちの王国を取り戻すため、あなたたちに一種の催眠術をかけて、伊吹家に送り込んだのです」

 俺は、赤いルビーみたいな目を思い出していた。

「でも何で、俺たちみたいな素人を?」

「はい。わかっているつもりです。後で教えますよ」

 智美が口を挟んだ。

「じゃあ、王国って何ですか?」

「昔、陸奥(みちのく)は、鬼の王国だったのです。人間がすべてを奪いましたが」

「へえ」

 もう、何を聞いても信じられる。そりゃあ、青森には『キリストの墓』があると思えば、鬼の王国くらい、何でもない!

「しかし、納得できないことがあります」

「どうぞどうぞ」

「戸来村のキリストは、寿命で亡くなったのでしょう? 磔にされたわけじゃない。じゃあ、『ロンギヌスの槍』、つまり磔になったキリストの死を確認するために脇腹を刺した槍も、存在しないのでは?」

「うーん。良くわからないですけど」

 伊吹さんも、頭を傾げる。

「それくらいは、細かい違いなのかも知れませんね。ほら、『ロンギヌスの槍』は複数存在しているでしょう? じゃあ、キリストの死を確認しなかった槍も、きっと存在しているわけで」

 うーむ。これ以上この話を追求すると、キリスト教の言っていることを否定する形になるのかも知れない。

「で、俺たちは、また漁夫王の宿、いや城に向かっているわけですが」

 一応、聞いてみる。

「本当にたどり着けるのでしょうか?」

「大丈夫ですよ。行ったものだけが、また帰れるのです。あなたたちに運転して、案内して貰っているのは、そういうわけなのです」

「はあ」

 車は、まっすぐに走って行く。

 そうして、俺たちは、宿に戻って来た。



 11

 伊吹さんは、車の中で言う。

「伊吹家は、代々、鬼退治を生業としている家なのですが、それは弘前から鬼を追い払うためなのです。僕が弘前を離れるなんて、珍しいことなのですよ?」

「そうなんですか」

「鬼に傷を負わせたものの、逃がした。それは伊吹家にとって、とても不名誉なことなのです。おまけに『それ』が、伊吹家の家宝のひとつを狙ってくるなんて! 伊吹家の自尊心は、とても傷付けられました」

「はい」

「先程、なぜ、あなたたちのような素人を送り込んだのか、と尋ねましたね。理由はひとつしかありません。これは、伊吹家への挑戦なのです。素人がたった2人で、伊吹家から家宝を盗めるはずがないのです。鬼だって、そんなことはわかっているでしょう。これは鬼からの、俺たちは城にいるぞ、来るなら来てみろ、という挑戦なのです。だから当主様は、仰いました。漁夫王の首を持って来い、と。僕は、それを果たします。鬼の住む城だろうが飛び込んで行き、それを果たします。当主様の言葉は、絶対なのですから。しかし」

「しかし?」

「城にどれほどの鬼が待ち受けているのかは、わかりません。これは久々に、困難なお務めになるでしょう。だから1時間経っても僕が戻らなかった場合、弘前に戻って、伊吹のお屋敷に逃げ込んでください。いいですね?」

 俺たちは、うなづく。

 伊吹さんは日本刀を片手に、車を降りた。



 12

 宿が燃えていた。

 それは激しく、まるで紙でできていたかのようだ。

 俺は、時計を見る。ちょうど1時間。

「ねえ。1時間経ったよね」

 智美が言う。

「わかってるさ」

「まさか、逃げたりはしないよね?」

「ああ。しないさ」

 伊吹さん!

 無事でいてくれ!

 そして、早く戻って来てくれ!

 秒針は、変わらず進んでいく。

 そして秒針に合わせて、分針がゆっくりと進む。

 そして、1時間を7分ほど過ぎた頃。

 こちらに歩いてくる、細い人影があった。

 智美が、俺の膝を、ばんばんと叩く。

「来たよ! 戻って来たよお!」

 その人影はもちろん、伊吹さんだった。

 手には、恐ろしいことだが、生首を持っている。そしてそれには、確かに角(つの)があったのだった。

 俺は、開いた窓から叫んだ。

「おかえりなさい! 伊吹さん!」

 伊吹さんは、車の横に立って言った。

「やれやれ」

 伊吹さんは、自分の腕時計を見る。細い手にはあまり似合わない、アウトドア用の時計、カシオのプロトレック・マナスルだった。

「あなたたち、約束を破りましたね? しょうがない人たちだなあ」

 智美も、大声を出す。

「早く乗って! 弘前に帰りましょう!」

「はい」

 伊吹さんは、車に乗り込んだ。

「では、弘前まで、安全運転でお願いします」



 13

 伊吹家の食事は、とても豪勢だった。

 旅館の宴会料理も、顔負けなほどだ。

「毎日、こんな物を食べているわけではありませんよ?」

 伊吹さんは笑って言う。

「当主様からの、せめてもの、お礼の形なのです」

 碧さんは、とても良くしてくれた。

 伊吹さんは、弘前を案内してくれた。

 そうして、とても楽しかったけど、帰る時がやってきた。

「また遊びに来てくださいね」

「はい、もちろんです」

 智美が言う。

「ありがとう、伊吹さん。また来るから、よろしくね」

「はい。あなたたちは、いつでも伊吹家で歓迎いたしますよ」

 俺たちは、門をくぐろうとした。

 そこには、紅さんが立っている。

「一本背負いなどして、すみませんでした」

「いえいえ。悪いのは、俺の方だったのですから」

「次いらっしゃる時は、宅急便などと、嘘はつかないでください。今度は、きっと手加減ができずに」

 紅さんは、恐ろしい言葉を続けた。

「殺してしまうと思います」

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