最終話 放課後の栞

 キンコン、カンコン――。


 九月の初週。木曜日の午後3時過ぎ。

 『夏休み』という非日常が幕を閉じ、新たな日常が始まって早数日。

 普段はそんなものに思いを馳せる暇などないほどに目まぐるしい日々を生きる若者さえも、この時ばかりは過ぎ去りし季節を恋しく思うのは、西暦が 2058 回目の夏を見送って、 その在り方が大きく変化した今もそれだけは変わらない。

 例に洩れずそんな無垢な少女達が集う、ここ『緑が丘女学院』の芝の敷かれた校庭に、この日の授業の終わりを告げる澄んだ鐘の音が鳴り響いた。


 その名の通り、小高い丘の上に立つ深緑とアイボリーの外壁が特徴の瀟洒な校舎。その四階の中ほどにある3年9組の教室の、窓際、後ろから二番目の席。


 六限目の『高等量子機械学』の授業を終え、放課後の訪れを今や遅しと待ち侘びそわそわとする教室へどこか達観した眼差しの一瞥をくれてから、汐里しおりは机の上のパピルスに触れた左手をどけ小さな溜息を一つ。

 少女の体温と微弱な静電気によって駆動していた端末がそのエネルギー源の供給を同時に断たれ、表面に映し出された『応用 高等量子機械学』のテキストが端の方から滲むように掠れて消えた。


 最終的に完全に透明になった薄いシート状のそれをくるくると丸めて鞄の中に仕舞い終えたところで、汐里は不意に後ろの席から声を掛けられた。

 背中をちょんちょんとつつかれ、ついで聞き慣れた友人の声で、 

「溜息なんてついてどうしたの。さん?」

 そう呼ばれてぐるりと体を後ろへ回すと、汐里はそこにいる馴染みの少女へ少しだけうんざりした顔を向けた。

「――あのね、明瀬あかせさん、その呼び方は止めてって言ってるでしょ

「ごめん、つい。でもさ、もう一年近くも経つんだからそろそろ慣れればいいのに」

「だってそんな呼び方するの、それこそ明瀬さんぐらいだもの。慣れっこないわ」

「え、そうなの? じゃあ委員会の子からは何て呼ばれてるの」

 明瀬は大袈裟に驚いたリアクションをしてみせる。

「ええと、ふつうに汐里さんって」

「ほう、名前で呼ばれる間柄と……」

「別に深い意味はないってば。ではみんな名前で呼び合うことにしてるの」

「へえ、それはそれは。仲良くやってるみたいで何より」

「おかげさまでね」

 おどけた言い方をする明瀬に、汐里はつんと澄ました声で答えた。


「ってことは少なくとも人間関係の悩みではないわけだ」

「……何の話?」

篠宮しのみやさんの溜息の理由。単純に疲れてるだけ?」

 明瀬は汐里の目を覗き込むようにして聞いた。

「別に疲れてなんかいないけれど、――ただ、みんな元気だなって」

「それって思いっきり疲れてる人の台詞じゃない。……原因は〝例のあれ〟?」

「まあね。でも好きでやっていることだから」

「そうは言っても無理はいかんよ無理は」

「うん、わかってる。――ありがとう、明瀬さん」

 

 汐里がそっと感謝の言葉を口にすると、明瀬は「はて」と首を捻った。

「感謝されるほどのことはしてないと思うけれど……、あ、もしかして、先にお礼を言うことで済し崩し的に手伝わせようって魂胆? ――だめだめ、今回ばかりは手伝えないからね。ほら、わたしも最近何かと忙しい身だし」

「……違うって。心配してくれたのもそうだけど、それだけじゃなくて。今のわたしがこうしていられるのは明瀬さんのおかげもあるから、そういうの全部ひっくるめてのお礼」

「ふむ、まあそういうことなら素直に受け取っておこうかな。でも、何で今なの?」

 真顔でそう聞かれ、汐里は顔を背けて出来るだけ素っ気ない口調で答えた。

「別に。何となく、言いたくなっただけ」




 ホームルームを終え、いつものように部活へ向かう明瀬と別れた汐里は、体育館へと続く通い慣れた道を一人でてくてくと歩いている。

 幅の広い林道の分かれ道を右へ折れて進んだ先、かつて旧校舎と呼ばれていた古い建物があった場所には、今は真新しいモダンな校舎が建てられている。

 そこには旧校舎のこじんまりとした面影は微塵もなく、どんと聳え立つような姿は汐里の通う校舎よりもずっと大きい。何らかの特殊な塗料を使っているのか、翡翠色の外壁は陽の光を反射して淡くきらめていてとても綺麗だ。

 特に今日みたいに天気の良い日は、近くを通るたびに汐里はそこに通う生徒が少し羨ましくなる。あと二年入学が遅ければ自分もここに通えたのに、と思わぬでもないけれど、それは言っても詮無いことだ。

 

 それに、と汐里は思う。

 もし二年遅ければ、あの人には会えなかった。

 

 校舎の中から聞こえる賑やかな声に耳を傾けながら、汐里は外周をぐるりと回って裏手へ向かう。

 その辺りは依然とほとんど変わっていないが、一つだけ違っているのは、森の中に舗装された小さな道が設けられていて、大昔のガス灯を模した洒落たデザインの照明が等間隔に設置されていること。

 その道を真っ直ぐに進んだ先、かつては一部の生徒にしか知られていなかったの近くに汐里の目的地があった。


 迷うことなく小径を進んでいくと、在りし日の旧校舎と同じ色合いの緑で塗られた、森の中の洋館といった趣の建物が木々の間から徐々に姿を現す。

 とりわけ新校舎に通う一年生たちから『森の図書室』と呼ばれ親しまれているその木造建築の正体は、かつて旧校舎の中にあった図書室を丸ごと移築したものである。

 それが証拠に、入口には汐里にとって愛着のある茶色い木の扉がそのまま取り付けられており、真新しい外観の中でそこだけが長い年月を経た風格を滲ませている。

 そして扉の上の表札と愛称が示す通り、独立した建物となった今でも、ここはかつてのように『図書室』として扱われているのだった。


「綺麗になったのは良いけれど、少し遠くなってしまったのが玉に瑕よね」と汐里は独り言を呟きながら、入り口の前に設けられた小さな階段を登り、分厚い木の扉を押して中に入った。

 

 かつては土足厳禁だった場所へ、革靴のまま足を踏み入れる。

 変わったことと言えば、きっとそれくらいだ。

 その瞬間、初めてここに来た時とまったく変わらない、胸の奥をジンとさせるようなどこか切なく甘美な香りが汐里を包む。

 しばしの間、その中に身も心も浸して過ぎた日々に思いを馳せてから、汐里は頭の中身を切り替えるように左右に小さく振った。


 あの日のままの、木漏れ日が斜めに差し込む静かな図書室を見渡す。

 よく耳を澄ませば、いまだに現役のあの柱時計の音が聞こえてくる。

 汐里は、カウンターに置いてある札がひっくり返されたままになっているの見つけて『貸出中』に直した。

 施錠されていない時間帯であれば本の閲覧は自由だが、貸出は図書委員がいる時だけと決まっているのだ。

 どうやら、他の図書委員はまだ誰も来ていないらしい。


 ――さて、何から始めよう。やることは山ほどある。

 

 目下汐里の頭を悩ませているのは、明瀬も言っていた〝例のあれ〟、――つまり、全国から集まる寄贈本の分類や修繕をして図書として使える状態にする作業だ。

 この図書室をリニューアルするにあたって、今後も図書の貸出を続けるうえで問題となったのが、本が傷んだ際の修繕や損失した場合の補充方法である。紙の本がありふれていた時代であれば新しく買えば済んだかもしれないが、今となってはそうもいかない。

 そこで物は試しに、まだどこかに眠っている本があるやもと、不要な書物の引き取りを始めたところ、最初はポツポツと忘れた頃に送られてきていたものが、今年に入ってから急にその数が増えた。利用者は増えたものの、委員の成り手がなかなか見つからず人手不足の汐里たちにとって、それは手に余る量だった。

 カウンターの奥の事務室には、今も手付かずになっている本が山のように積まれている。卒業するまでにそこにある分だけでも作業を終えたいところだが、果たしてどうなることやら、と汐里は思う。

 それはまさに嬉しい悲鳴というやつだった。




 汐里はひとまず、他の図書委員がやってくるまでに別の作業を片付けてしまうことにした。一人で事務室にこもっていると、作業に集中するあまり人が来たのにも気づけないことがあるからだ。せっかく生徒が来てくれても、誰も応対しないせいで悪い印象を持たれては目も当てられない。

 

 そして、

 綺麗に磨かれた板張りの床を行ったり来たりしながら、

 返却された本を棚に戻す作業の途中、一冊の小さな文庫本が目に留まる。

 それは、汐里がこの場所で一番初めに手に取った本。

 その本が実は図書室の備品でないことを汐里はもう知っている。 

 いつか稚佳子ちかこがそう打ち明けてくれた時の会話が、不意に脳裏に蘇った。


「この本はね、実は図書室の備品ではないの。わたしに一番親しくしてくれた人がずっと大事にしていたものなのよ。――それでね、ぜひ皆にも読んで貰いたいってここに置いていたんだけれど、結局置き忘れたまま卒業してしまったの」

「卒業する前にその人と会わなかったんですか?」

「ええ。卒業式の当日は散々迷ったけれど、結局会いにはいけなかった。その人が本当はわたしのことをどう思っていたのか、知るのが怖かったの」

 予感とも確信ともつかないような曖昧な閃きが汐里の頭に浮かぶ。

 僅かに躊躇った後、汐里はおずおずと言った。 

「もしかしたら、その人も同じ気持ちだったのかもしれません」

「それはどうかしら」

「きっと、忘れたんじゃなくてわざと残して行ったんだと思います。本に挟まれていた栞……、あの黄色い押し花は稚佳子さんに宛てたメッセージなんだと思うんです」

 汐里が一息に言い終えると、

「汐里さんが言いたいのは〝花言葉〟のことかしら?」

 稚佳子はまるで動じることもなく淡々と言った。

「――もしかして、知っていたんですか」

「だってあのは、森の空き地で彼女に初めて教えてもらった花だもの」

「だったら――」

「わからないわ。たまたま挟んでいただけかもしれないでしょ。……だからね、今度確かめに行ってみようと思うの。ちゃんと彼女に会って、文句の一つも言ってやろうって決めたの」

 そう言って稚佳子は笑った

 何かから解き放たれたようで、とても清々しい笑顔だった。

 

 その後、二人がどうなったかは汐里は知らない。

 何故って、

 確かめなくたって、きっと上手くいったってわかってるから。

 それがわかっている以上、自分の知らないところで稚佳子が他の女の子と仲良くしている話なんて、進んで聞きたいとは思えなかったから。

 

 きっとこれが、嫉妬というやつなんだろう。

 小さな文庫本と、寄り添うように並べて置かれた稚佳子のお気に入りだった本を見ながら、汐里はいつの間にか芽生えていた感情がまだそこにあるのを確かめる。


 彼女が卒業してしまった今となっては、その感情すらも愛おしく思えた。 

 

 


 不意に、どこかから汐里を呼ぶ慌ただしい感じの声が聞こえた。

 汐里が振り向くのとほぼ同時、本棚の隙間から図書委員の二年生が顔を覗かせた。

「あ、いたいた。おーい、汐里さん! ――どうしたんですか、ぼうっとして」

「ごきげんよう、由樹乃ゆきのさん。ぼうっとなんてしてないし、そんな大声を出さなくても聞こえるわ」

「嘘です。向こうに汐里さんの鞄が置いてあったから、どこかにいるのかと思って呼び掛けていたのに、全然返事してくれないんですもの」

 由樹乃と呼ばれた少女は頬を膨らますようにして言った。

 

「ええと、それは――、……ごめんなさい」

 そんなものにまったくこれっぽっちも気づかなかった汐里は、素直に頭を下げた。

「あ、いえ、言うほど気にしてないから大丈夫です」

すると由樹乃は慌てたように首をぶんぶん振った。それに合わせて、少し明るい色の肩までのボブカットが風を切って広がる。

 彼女はいつも表情がくるくると変わって、見ていて飽きないと思う。


「あ、それより聞いてくださいよ」 

「何か良いことでもあったの?」

「あの押し花の栞、一年生に配ったら凄く好評ですぐなくなっちゃいました。また作ってもらえます?」

「それはいいけれど、花さえ用意すれば誰でも簡単にできるものよ」

 由樹乃は、今度は大袈裟に呆れるジェスチャアをして見せた。

「わかってないなぁ――。汐里さんが作った栞だからいいんですよ」

「なにそれ――。駄洒だじゃれ?」

「薄々感づいてはいましたけど、汐里さん、ご自分が下級生に人気があるってこと良くわかってないですよね。汐里さんに会いたくてここに来る子だっているんですよ」

「それは、正直喜んで良いのか複雑なところなんだけれど……」

「良いじゃないですか、きっかけは何だって。そこから本が好きになって貰えれば」

 確かに彼女の言い分はもっともだと思う。

 そもそも、汐里だって人のことを言えた義理ではない。

 汐里は思わず感心した声で言った。

「由樹乃さんも、たまには良いこと言うのね」

「たまには、は余計ですっ。もう、本気で感心しないでくださいよー!」


 由樹乃の百面相を存分に堪能してから、

「――ところで、すみれさんたちは?」

 汐里はまだ顔を見せない二年生の名前を出して訊ねた。

「多分ですけど、部活の方に顔を出してから来るつもりだと思います」

「そう。由樹乃さんが早く来てくれて助かったわ。良かったら、返却の残りをお願いしてもいい?」

「はい! まかせてくださいっ」

 汐里に頼りにされることがよほど嬉しいのか、由樹乃は子犬がしっぽを振るように答えると、すぐさま作業に取り掛かった。

 その様子を微笑ましく見届けてから、汐里はいよいよ棚上げにしていた仕事に取り掛かることにした。


 事務室へ向かう途中で柱時計をちらと見上げ、そろそろ利用者がやって来る頃合いかしら、と思う。


 校内での宣伝活動が功を奏して、少しずつ図書室の利用者は増えている。

 とくに今年の四月――、

 新校舎の完成と時を同じくした、一年生の入学当初の人入りひといりは記憶に新しく、それは何十年もこの学院の図書室を見守って来た顧問の宮田をして、かつての全盛期もかくやと言わしめるほどの盛況ぶりだった。

 それから半年近くが経過して、生まれたての雛のようだった新入生もそれぞれの落ち着く先を見つけ終えた今日この頃。今も継続的に図書室を訪れるのは、ほぼ決まった顔ぶれとなっている。

 けれど、それでも時たまに、

 汐里の見知らぬ生徒がふらりと迷い込むようにやってくることがある。

 巣立ちの時期を逃して、取り残された鳥のように。

 ちょうど、二年前の汐里のように。


 汐里はあの頃とほとんど変わらぬこの場所で、あの頃には想像できないくらいの多くの生徒に出会った。少なくとも二度以上訪れてくれた生徒の顔は忘れていないつもりだけれど、そろそろそれも怪しくなってきた。

 紙の本に初めて触れるような生徒が図書室を好きになってくれるのは嬉しかったし、おかげで汐里自身も今まで以上に本が好きになった。

 この二年は、間違いなく汐里の人生で最も充実していた時間だった。

 そして、多分これから先も、

 汐里が卒業した後もずっと。

 

 そんな話を聞かせたら、きっと稚佳子は羨ましがるに違いない。

 一仕事終えたら、彼女に会いに行こうと思う。

 まだ聞いていない話を話してもらうために。

 まだ話していない話を聞いてもらうために。


 話したいことを忘れぬように、

 放課後の一ページにそっと栞を挟んで、その日まで。

 栞には、そういう使い方だってあると思うのだ。


 噂をすれば何とやら――、

 ふと気配を感じて入口に目を向けると、

 汐里の知らない生徒が、おずおずとした様子で扉を開けて入ってくるのが見えた。

 恐らく一年生だ。

 もしかしたら彼女は、扉をノックするかどうかでしばらく悩んだのかもしれない。

 もしかすると彼女は、やりがいのある何かを探してここまで来たのかもしれない。

 

 だとしたら、

 こういう時に最初に掛ける一言は決まっている。

 好奇心と不安をい交ぜにする少女へ、汐里は柔らかな笑顔を向けて言った。 



「ごきげんよう。――あなたはここに来るのは初めてかしら?」







                 



                 

                  ‐了‐

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放課後の栞 佐久間コウ @Kousakumap

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