藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の乱

 讃良と逢い引きの約束をした二日後の夕方、山部王は屋敷の庭でごみを燃やしていた。

 群青色から黒色に変わろうとしている空では、十一日の月が一番星と明るさを競っている。風はなく、白い煙は真っ直ぐ昇り空に消えてゆき、庭の隅の草むらから、松虫や鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。

 山部王が火の世話をしていると明信めいしん種継たねつぐがやってきた。

「小父様はいらっしゃるかしら」

 紫の布に包んだ荷物を両手で抱えて明信は小首をかしげた。

 明信はすっかり母親顔になった。娘の頃の躍動感は消えて、すべてを包み込んで許してくれるような優しい雰囲気を出している。種継も嫁をもらい子供ができてから、りっぱになった。ボサボサだった髪の毛はきれいに櫛が入れてあり、髭もきれいに剃ってある。嫁がしっかりしているからに違いない。

 明信や種継に比べて自分は独り者で昔から変われていない。いや、讃良が自分のところに来てくれれば変わってゆける。讃良との逢瀬が待ち遠しい。

「顔が笑ってますよ。何か良いことがあったのですか」

「明信はすっかりお母さんの顔になった。馬に乗って鷹狩りをしていた、やんちゃな娘が変わるもんだ」

「子供の世話をしていると変わるものなのよ。山部王さんも早く嫁をもらって子供を作りなさい」

 今度の満月の夜に逢い引きするなんて言ったら、冷やかされるに決まっている。讃良と一緒になれば自分の生活は変わる。子供ができたら、三人で川の字になって寝よう。親子が一緒に暮らせることが幸せなのだ。子供は何人作ろうか。子供が大きくなったら、鷹狩りや水浴びに連れて行こう。親子で法隆寺へ行って、讃良や子供に聖徳太子の話を聞かせてやりたい。

「仲麻呂卿は屋敷の授刀舎人を増やしたそうだ。都や宮中の空気も張り詰めてきた。種継は永手様から何か聞いているのか」

「永手伯父さんから、いつでも出られるように用意をしておけと言われた」

「自分も、東大寺へ出かけたときに吉備真備様に会い、呼びに行くから準備をしておけと言われた」

「上の方で何かが動いているのだろうか」

 焚き火の中に入っていた竹が、ポンと大きな音を立てて爆ぜたときに、馬に乗ったままで屋敷に入ってきた者があった。

 狩衣姿の男は馬を下りずに山部王の近くまで来た。

「早良か。馬で屋敷に乗り込むとは行儀が悪い。井上内親王様に叱られるぞ。門のところで馬から下りろ。それに修行僧のお前が狩衣姿とは変だ」

「兄さんも、種継兄さんも真備様のお召しだ。悠長に焚き火なんかしていないで、武具を着けて東大寺に来て」

「早良は何を言いたいのか分からない。深呼吸をして順を追って話せ」

 早良は、両手を大きく広げて息を整えた。

「仲麻呂卿が兵を挙げて孝謙太上天皇様と関係者を弑するという知らせが入ってきた。仲麻呂卿に対抗するため、真備様は御璽と駅鈴を内裏から法華寺へ移すよう太上天皇様に奏上された。太上天皇様は奏上を受けて、山村王様を内裏に遣わしたのだけれども、内裏で仲麻呂卿の手勢と小競り合いを起こし、二十人近くが死傷した」

 山部王と種継、明信は顔を見合わせた。

「二十人が死傷って大事だ!」

「真備様は伝令を四方に出し、東大寺では二百人の工人に武具を与えて仲麻呂卿の追討準備をしている」

「追討とは? 仲麻呂卿は屋敷にいるのではないのか」

「詳しくは分からないけど、仲麻呂卿は一族を引き連れ屋敷を出て近江へ向かったらしい」

「近江は仲麻呂卿が昔から国司を兼任している国だ。美濃と越前の国司は仲麻呂卿の息子だから、仲麻呂卿は軍を整えて都に入ってくるつもりだ」

「真備様は、仲麻呂卿が保良宮で軍を編成すると見ていらっしゃる。仲麻呂卿が体勢を作る前に追撃する必要があるとのこと。兄さんと種継兄さんも早く準備して東大寺に来て。ついでに言うと、太上天皇様は、仲麻呂卿から官位官職、氏姓を剥奪し、太政官符には従うなという詔を出された。仲麻呂卿は逆賊になったんだ」

「真備様の元に駆けつけたいが、屋敷には老いた馬しかいない。鎧や甲もない。種継は持ってるか」

「無位無冠の下働きに聞くな。親父が使っていた太刀がある程度だ」

「真備様の言いつけどおり準備しておけば……」

 空はすっかり暗くなって、多くの星が瞬き始めていた。風が出てきて、焚き火の煙が渦を巻いて上がって行く。

 仲麻呂卿を倒すことが朝廷の正常化への第一歩だ。もし、仲麻呂卿が近江で勢力を付けて官軍を打ち負かすようなことになれば、太上天皇様はじめ、反仲麻呂派は大粛正されてしまう。自分も反仲麻呂の一員として殺されるだろう。仲麻呂卿自身が天皇に即位するかも知れない。負けるわけにはいかない戦いになる。

 仲麻呂卿を倒し朝廷を正常化させる絶好の機会に何もできないとは、つくづくだめな自分だ。駄馬に乗り、なまくら刀を佩いてでも、真備様のところへ行きたいが……。

「二人とも真備様の元へ行きたいのでしょ」

 明信は山部王と種継を交互に見ながら言う。

「うちに授刀舎人用の太刀や鎧甲があるから使いなさい。馬も二頭ぐらいなら何とかなるわ。でも、絶対に危険なまねはしないで。無事に帰ってきて」

「すまない。持つべき者は幼なじみだ」

 山部王と種継が走り出そうとしたとき、馬上の早良王も馬の口を門の方に向けた。

「早良も行くのか」

「当たり前だよ。兄さんたちに知らせに来たのは一緒に行くためだから」

「お前は残れ」

「どうして!」

 早良王は大きな声を出して抗議してきた。

「早良は学問と仏教の勉強をしているんじゃなかったか」

「真備様や苅田麻呂様の役に立ちたい。仏教を学ぶのが国のためなら、太上天皇様の命に従うのも国のためだ」

 種継が山部王と早良王の間に割って入ってきた。

「早良が知らせてくれなきゃ俺たちは置いてけぼりを食らってた。後ろで見ているという条件で連れて行ったらどうだ」

「種継が言うなら……」

 早良は「やった」と大きな声を上げ、「他に知らせるところがあるから先に行く。二人とも東大寺に来て」と、言い残して駆けていった。

 山部王と種継も、明信の、「くれぐれも気をつけるのよ。無理をするんじゃないのよ」 という声を背に受けて走り出した。

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