藤原讃良

 山部王が早良王に荷物を渡して東大寺の山門を出たとき、犬の鳴き声と女の悲鳴が聞こえてきた。

 門の近くで若い女が犬に吠えられて困っている。

 山部王が道ばたの石を拾って投げつけると、犬はキャンキャンと吠えながら逃げていった。

「ありがとうございます」

 若い女は微笑みながら、両手を体の前に揃えて頭を下げる。

 女は山部王より若く二十代前半に見える。容姿は十人並みだが、大きな目と、えくぼが可愛らしい。背は山部王よりもいくぶん低い。体は丸みを帯びていて、胸もお尻も普通の女よりも大きい。肌は瑞々しくて化粧など必要なく、紅を引いてなくても赤い唇は艶めかしい。長く伸ばした黒髪を腰のところで結んでいる。鶯色の衣は、上等な物には見えないが、汚れや皺はなく、体からあふれ出ている若さを柔らかく包んでいた。

「どういたしまして。怪我はありませんでしたか」

「お使いの帰りに、野良犬に絡まれてしまいました。あなた様がいらっしゃらなかったら犬にかみつかれていたかもしれません。えーっとお名前は?」

 人なつっこい笑顔と、少し低めの声が心地よい。

「山部王と言います」

 山部王は女と並んで歩き出した。

「山部王さんですか。私は藤原讃良ふじわらさららといいます」

「藤原というと仲麻呂卿の縁戚の人ですか」

「いいえ。私は藤原弟貞ふじわらおとさだの娘です。父が亡くなってからは仲麻呂様の元から内裏に通っています」

「藤原弟貞様とは」

「元は山背王やましろおうと言いましたが、臣籍降下して藤原弟貞という名をいただきました。お爺さまは長屋王ですから、山部王さんとは遠い親戚ですね。山部王さんは、どんなお仕事をしてらっしゃるんですか」

「中衛府に務めています」

「では、武術がお得意なんですか。どうりで野良犬を恐れない」

 山部王が頭をかきながら苦笑いすると、讃良も笑い返してくれた。

「武術は苦手ですが、犬くらい追い払うことはできます。元は大学寮にいたのですが、今は中衛府にいます。漢籍も和歌も好きです」

「どんなお歌が好きですか」

 山部王が空を見上げると、鳥の群が北の空に向かっていた。

「いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉ゆずるはの 御井みいの上より 鳴き渡り行く

(昔を恋しく思う鳥だろうか、弓絃葉の御井の上を鳴きながら渡ってゆく)」

「まあ、弓削皇子ゆげのみこ様のお歌ですね。それでは、私もお返しをしませんと」

 讃良は白くて細い人差し指を顎に当てて少し考えた。

「いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし 我がおもへるごと

(昔を恋しく思って鳴く鳥は霍公鳥ですね。たしかに鳴いています。私があなたを思っていているのと同じように)」

「まるで相聞歌ですね」

 と、山部王が言うと、讃良は顔を真っ赤にした。はにかむ姿も可愛らしい。

「自分は鷹狩りも好きです」

「まあ、どこでなさるのですか」

「大和郷の実家へ帰るとやっています。母親の実家は、百済王くだらのこにきし一族とつきあいがあって、鷹狩りを教えてもらいました。鷹が空を滑るように飛んで獲物を捕まえるのは見ていて気持ちがいいですよ」

「連れて行って欲しいのですが、大和は遠いので行けませんね」

「それでは、近いところで、今度の満月の日に佐保川で月見をしませんか。一ヶ月遅れですが、九月の満月もきれいですよ」

「今日は九日ですから六日後ですね。よろしいのですか。私、男の人に誘っていただくのは初めてです」

 讃良は笑顔で、山部王の左腕に抱きついてきた。讃良の体温が衣越しに伝わってくる。

 讃良は自分に好意を持ってくれたらしい。初対面で気が合って色々話せる女は初めてで、とても嬉しい。

 讃良は美人ではないが、人なつっこくって、笑顔がすてきな娘だ。一緒にいると楽しくなってくる。嫁にするのなら、井上内親王様のように美人だが性格が悪い女より、讃良のように顔は十人並みでも優しくて朗らかな女がよい。藤原弟貞様の娘であれば、自分とも釣り合いがとれている。讃良のような娘と一緒に暮らせたら楽しいだろう。

 一目惚れした? のかもしれない。明信の子供は大きくなったし、種継も嫁をもらって赤ん坊がいる。やっと自分も運が向いてきたのだ。

 山部王の腕に抱きついている讃良から、ほのかに良い香りが漂ってきた。

 明信も小波王女こなみのひめみこも良い香りがしていたが、女とは良い香りがするものなのだろうか。

「ご飯を作ってゆきますね」

「得意なのですか」

「いつも厨に立ってますから腕には自信あります」

 厨に立っている? 讃良は仲麻呂卿の屋敷でどのような扱いを受けているのだろうか。

「晴れると良いですね」

 山部王は薄曇りの空を見上げた。

 夜の佐保川河畔を讃良と二人で歩いている光景が目に浮かんでくる。

 雲一つない夜空に白い月が輝やいている。あまりに明るいので、松明を持たなくても足もとはしっかりしている。北の空から南に流れる銀河も月に負けずに美しい。河原に降りて岩の上に腰を下ろすと、讃良が持ってきた包みを広げて握り飯を渡してくれた。川面は月明かりを反射して光っている。二人で握り飯を一緒に食べると、気持ちの良い風が体をくすぐっていった。握り飯の塩加減もちょうど良い。讃良の手を握ると、讃良は笑顔で握りかえしてくれた。

 気がつくと讃良は「十五日の夜にお会いしましょう」と頭を下げていた。

「お屋敷に迎えに行きます」

 讃良と手を振って別れた山部王は思わず口笛を吹いてしまった。

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