失恋

 湯をもらって髪と体を洗い、髭を剃って洗い立ての衣に着替えると生まれ変わった気がする。もう捕まる恐れがないという安心感や屋敷の外に出られるという解放感が体を満たしてゆき、指の先にまで力が甦ってきた。

 山部王は明信や世話になった資人たちに礼を言って屋敷を出た。

 父さんの所に行けば井上内親王様が嫌みを言うだろうから、大和郷の実家に直接帰ろう。今なら宵の口には大和郷の実家に帰ることができる。大和郷の母さんや爺さんは、二ヶ月間音沙汰なしだと怒るかもしれないが、井上内親王様の嫌みよりはずっと良い。母さんには心配掛けているだろうから、素直に謝ろう。

 気がつくと黄文王の屋敷前に来ていた。

 屋敷の塀は前と変わりなかったが、中から人の気配がしてこない。山部王は吸い込まれるように屋敷に入った。

 きれいに掃除されていた庭は夏草が伸び放題に生えている。割れた戸板や壊れた桶が無造作に転がっていて、屋敷の隅にあった菜園は踏み荒らされ見る影もない。鳥小屋も壊されていて、鶏の姿はなかった。母屋の玄関は壊れたままで、直そうとした跡すら見ることができない。家人が死に絶えた幽霊屋敷みたいだ。

 山部王は玄関をくぐって母屋の中に入った。

 家の中は庭以上に荒れていた。厨からは鍋や食器はもちろんのこと、水を入れておく大瓶までなくなっている。黄文王が自慢していた唐物や掛け軸、調度品もなくなっている。神棚は床に落ちて壊れ、雨戸や御簾まで盗られている。部屋の中や土間には雨が入ってきてできた水溜まりがあった。

 奥の部屋から物音が聞こえてきた。

 山部王が部屋の中をそっと覗いてみると、西日の中で女がうずくまっていた。

「小波王女?」

 山部王の問いかけに、女は顔を上げた。泣きはらした目は赤く、流れ出た涙で頬が汚れていた。衣はところどころ破れ、裾には泥が付いている。

「どうしたのです。資人たちは、屋敷の様子はいったい何が……」

 黄文王様は謀反の罪で殺されたのだった。没官もつかんとして資人は引き上げられ、家屋敷や財産も没収されたのか。

 小波王女は泣き始めた。

 山部王がしゃがみ込んで小波王女の肩に手を掛けると、小波は大きな声を上げて泣き、抱きついてきた。

 小波の白くてすべすべしていた手は荒れて、髪の毛はごわごわとしていた。いつもの良い香りは漂ってこない。

「お父様は厳しい取り調べで死んでしまいました」

 堰を切ったように出る涙が、山部王の衣も濡らしてゆく。

「お父様が亡くなったという知らせと一緒に役人が来て、屋敷の中にあった品物を根こそぎ持ってゆきました」

「乱暴なことはされなかったか」

「私は庭の隅で筵を被って隠れていたので、何にもされませんでしたが、資人は取り上げられ、下人たちも出て行きました」

「それで屋敷が荒れているのか」

 小波は大きくしゃくり上げたが、山部王が髪の毛を優しく撫でてやると落ち着きを取り戻して涙を拭った。

王女ひめはこんなところで何をしていたのですか」

「役人が屋敷を荒らしてから住むところがなくなったので、お母さまの実家に行きましたが、謀反人の娘は入れることができないと断られました。知り合いの所にお世話になっていたのですが、法華寺に入れていただけることになりましたので、思い出の品が残っていないかと探しに来ていたのです」

 法華寺に入る? 尼になるというのだろうか。

「身寄りは?」

父娘おやこの二人だけでした。お母様の実家に身を寄せることを断られたので一人です」

 父親が死んで心の支えがなく心細い上に、住むところも暮らしの糧もなくして、将来の希望もなくしている。尼寺に入るくらいなら、自分の所に来て一緒に暮らせばよい。

「小波……」

 山部王が口ごもったとき小波王女が尋ねてきた。

「山部王さんはこの二ヶ月何をしていらしたのですか」

「自分は右大臣屋敷に隠れていました」

「藤原豊成様の屋敷に?」

 小波は山部王の背中に回していた腕をほどいて、体を離した。

「山部王さんは何もされなかったのですか」

「右大臣屋敷に匿われていたお陰で、捕らえられて痛めつけられることもありませんでした。自分のような小者は相手にされなかったのでしょう」

 小波は両腕で山部王の胸を押して遠ざかった。

「匿われていたというのは嘘でしょう」

 小波の顔は見る間に、親の仇にあったように険しくなった。

「あなたがお父様の事を密告したのではないのですか。お父様に力を貸した人は残らず捕らえられて厳しい拷問を受けました。家人や出入りしていた商人でさえ取り調べを受けたのです。お父様の使いをしていた山部王が捕まらないはずがありません。仲麻呂様の実兄である豊成様の所にいたのは、内通していたからでしょう」

「内通したのではなく、明信という右大臣家の嫁が知り合いで」

「嘘をおっしゃい。お父様のところに来ていて無傷でいられた人はいません。山部王は洗い立ての衣を着て、無傷じゃないですか。隠れていたというのに、髪を整えて髭もきれいに剃っている」

 小波は後ずさりしていった。

「裏切り者!」

 大声と一緒に、山部王の顔に何かが当たった。

 目の中で火花が散り、思わず額に手をやる。

「山部王は仲麻呂卿に差し向けられた密偵だったのです。事が発覚してからお父様たちが捕らえられるまで手際が良すぎました。すべて山部王が手引きしていたのでしょう。お父様たちの計画を何人も密告したと聞いています。密告した人は褒美をもらった。山部王は何をもらったのですか」

「誤解です。自分も衛士に捕まりそうになって、ずっと隠れていたのです」

「お父様と関係ない人でさえも濡れ衣を着せられて杖で打たれているのに、屋敷に出入りしていた山部王が捕まらないというのは、おかしな事です。お父様が殺されたというのに、右大臣様の屋敷で安穏と過ごしていたのでしょう。男らしく白状しなさい」

「右大臣の屋敷の資人に混じって隠れていたのです。決して密告などしていません」

「仲麻呂様の兄の屋敷にいて何を言うのですか、あっちへ行って下さい」

 小波は身近にあった物を山部王に投げつけたが、すぐに投げる物がなくなってしまった。

 山部王が近づくと、小波は後ずさりしてゆく。

「自分も二ヶ月間苦労したのです」

「嘘をおっしゃい。洗い立ての衣のどこに苦労の跡があるというのです」

 小波は壁際で動けなくなった。

「私をどうしようというのです」

「密告したというのは誤解です。尼寺に入るなどといわずに。自分の所に来て一緒に暮らしましょう」

「恥知らず! お父様を裏切った上に、私を手籠めにしようというのですか」

 小波は懐から短刀を取り出して抜いた。抜き身の刀が妖しく光る。

「物騒な物はしまって話を聞いて下さい。誤解はきっと解けるはずです」

「お父様の仇にもて遊ばれるのならば死にます。近寄らないで下さい」

 小波は山部王を睨みつけながら短刀振り回す。

「山部王など顔など見たくありません。あなたを殺して私も死にます」

 怒りで頭に血が上っている小波を、「誤解だ」と説得することはできそうにない。

 山部王が後ずさりして部屋を出ると、小波の大泣きする声が聞こえてきた。

 屋敷の外に出て大きな溜め息をつくと、山部王をあざ笑うかのように烏の声が聞こえた。爽やかなはずのそよ風さえ寒い。夕焼けはすでに終わり、群青色に染まった空には星が輝き始めている。

 小波王女がいうように、結果的に自分は黄文王様たちを裏切ったことになるのだろうか。仲麻呂卿を倒す企てで活躍して台閣に席を持ち、聖徳太子の理想の国創りをするはずだったが、現実はどうだ。仲麻呂卿の権力は揺るぎないものになった。自分は大学寮の仕事を失ったし、小波王女には親の仇と嫌われてしまった。

 自分は何か大きな間違いをしたのだろうか。

 荒れた庭、崩れかかった屋敷は山部王に何も答えてくれない。

 山部王は、星を見ながら大和郷の実家を目指した。

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