事変の結末

事変の結末

 山部王が明信の屋敷で資人たちに混じって暮らすようになってから二ヶ月過ぎた。苦い思い出となった夏は終わり、空には鱗雲が浮かび、油蝉に代わりコオロギが盛んに鳴くようになった。

 米つきの仕事を終えた山部王は、衣の裾をはたきながら、薪割り用の切り株に腰を下ろした。乾いた秋の風が、汗をかいた体を心地よく撫でてくれて気持ちがよい。

「ずいぶんと馴染んでいるわね」

 柔らかい声に振り向くと、明信が握り飯を持って立っていた。

「大和郷の実家にいるときは、爺さんや母さんの手伝いをして畑や山に出て仕事をしてたから慣れてるよ」

 明信は山部王の横に座ると、「ごくろうさま」と言って握り飯を渡してくれた。塩味が効いた雑穀飯は、仕事の疲れを癒やすのにちょうど良い。

「屋敷の中にいるから危ない目にも遭わずにすんでいるし、資人のみんなは良くしてくれる。みんな明信のおかげだ。資人たちと一緒に暮らしていると、朝廷に仕えて出世を目指すよりも実家の後を継いで大和郷で暮らしたほうが良いように思えてくる」

「なるほど、山部王さんは野良着がよく似合っていてよ。とても皇族には見えない。みんなに本当は白壁王様の息子なんだって言っても信じてもらえるかしら」

 山部王は自分の手を見た。

 大学寮で下働きしていた頃と違って、日に焼けて黒くなっているし、鋤を持つ手にはタコができた。土で汚れた野良着もすっかり体に馴染んで、汗の臭いが染み込んでいる。たまにしか洗わない髪は汗や泥で固まり、無精髭も目だつようになってきた。右大臣家に仕える資人と紹介されてもまったく違和感がない。むしろ、皇族だなどと言ったら嘘をつくなと言われそうだ。

「山部王さんは無罪放免よ。宮中で橘卿の変について最終的な処分の発表と、功績があった人への褒賞があったから、もう、事件の追及はないわ」

 山部王は心の中で胸をなで下ろした。

「明信が匿ってくれなかったら、自分も間違いなく捕まって罰せられていた。とっても感謝している。資人の暮らしにも慣れたが屋敷の中だけはやはり窮屈だ。暑い夏には川で泳ぎたいし、野原で馬を走らせて鷹狩りもしたい。外へ出てもいいのなら、大和郷の実家に帰るよ。母さんや早良が心配していると思う。ところで、事変の処分はどうなった」

「資人たちと話してないの」

「政の話はしないようにしている。資人たちも話の端には乗せるが、雲の上の人の話だから、漏れてくる噂以上に詳しいことは知らない」

 明信は「そうね」と言って語り始めた。

「橘卿の変で処分された人は四百人以上。殺された人が十五名、流罪になった人数十名、杖罪や都を追い払われた人が数百名になるわ。種継さんは大粛正と言ってる。橘卿の変とは関係ない人も多く含まれていて、お義父とう様や、乙縄おとたださんも処罰された」

「豊成様や乙縄殿も殺されたのか」

「仲麻呂様もさすがに実の兄や甥を殺すようなことはできないでしょ。お義父様は企みを察知しながら天皇様や台閣に報告しなかったという理由で大宰員外帥だざいのいんがいのそちに、乙縄さんについては橘卿と親しく頻繁に屋敷に出入りしていたという理由で日向員外掾ひゆうがのいんがいのじように左遷させられるの」

「橘卿の屋敷に出入りしていたことを理由にするとは言いがかりも甚だしい。員外であれば名前だけで実権も仕事もない。あまりにも横暴だ。豊成様が大宰府に下るということは、明信やこの屋敷はどうなる」

「大宰員外帥といっても右大臣はそのままにという条件が付いているし、継縄様にお咎めはなしだから、屋敷が取り上げられることはない」

「右大臣様がいなくなれば、仲麻呂卿が台閣の頂点に立つことになる。邪魔者はすべて粛正して好き勝手できるというわけか。ところで、死罪になった人とは?」

「仲麻呂様の過激な取り調べで、橘奈良麻呂様、黄文王様、道祖王様、多治比犢養たじひのこうしかい、小野東人といった人々が亡くなった」

「黄文王様と小野様も死んだのか」

「取り調べ中に杖で打ち据えられて息絶えたと聞いているわ。死んでしまうほど叩かれるなんで想像できない。そして家屋敷は没収されてしまった」

 黄文王様や小野様が殺された。ついこの前まで言葉を交わしていたのに。なんということだ。左衛士府に連れ込まれていたら、自分も拷問で殺されていたかもしれない。

 黄文王様のところの小波王女はどうなったのだろうか?

さきの皇太子の道祖王様まで殺すとは。いったい仲麻呂卿は……」

「謀反を起こせば死罪と決まっているとはいえ、恩情が全くない処罰に不満を持つ人は多いけれども、騒ぎを利用して朝廷を自らの色で染め直した仲麻呂様に、文句を言える人はいないわ」

 自分は仲麻呂卿の権勢が強すぎることが政を歪めている元凶だと思い、仲麻呂卿を除く企みに参加したが、結果として仲麻呂卿の権力を万全にしてしまったのか。何をやっていたのか、自己嫌悪に陥ってしまう。

「自分は本当に見逃されたのだろうか」

「継縄様に山部王さんが逮捕者の名簿に入っているかどうか調べてもらったけれども、名前はなかったそうよ。取り調べに当たっていた部署も解散したからもう捕まる心配はないわ」

「自分は小者過ぎて歯牙に掛けるまでないということだったのだろうか」

「有り体に言えば、そのとおり。流罪とか杖罪にならなくて良かったじゃない。家に帰ることができるわよ。洗い立ての衣を用意しておいたから、体や髪の毛を洗い無精髭を剃ってから家に帰りなさい」

「何から何まで世話になってしまった。お礼はいつかするよ」

 山部王は立ち上がって衣の砂を払った。

「ところで、そのおなかは? 太ったのではないように見えるけれども」

「赤ちゃんができたのよ。これからもっと大きくなるわよ。来年の二月には生まれるわ」

 明信の声は弾んでいる。

 山部王が、丸っこくなった明信の体を上から下まで眺めると、明信は笑いながら

「山部王さんたら、いやらしい」

 と言って、山部王の背中を叩いてきた。

 子供ができたのか。本当に明信は自分の手が届かないところへ行ってしまった。自分はこの半年何をやっていたのだろうか。

 明信は屈託のない笑顔を浮かべていた。

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