橘奈良麻呂の陰謀

道祖王廃太子

 大学寮で働いていた山部王が、筆を持つ手を休めて庭を眺めると、眩しい光の中で二頭の白い蝶がじゃれ合いながら飛んでいた。

 楽しい時は速く過ぎるが、つまらない時はじれったいほどに長く感じられる。代わり映えのしない仕事をこなしていると、自分が何者なのか分からなくなる。大学寮で一生懸命仕事すれば、認められて出世できると思っていたのに、現実は甘くなかった。毎日、四書五経の写本をしているだけでは、政を司る立場にまで出世できるとは思えない。朝廷は外から見ていたよりも、ずっと藤原仲麻呂卿の力が強いし、十七条の憲法からかけ離れているのに、自分には何もできない。

 山部王がくしゃみをこらえていると、山部王たちの上司である小野東人おのあずまびとが大きな足音を立てて部屋の中に入ってきた。

「みんな聞け。道祖王ふなどおう様が皇太子を廃された」

 孝謙女帝は独身で子供がないことから、父親の聖武太上天皇だいじようてんのうは、崩御の間際に孝謙の従兄弟である道祖王を皇太子にした。道祖王は孝謙天皇より年上で、藤原仲麻呂とは距離を置く人物であり、反仲麻呂の急先鋒である橘奈良麻呂たちばなのならまろと親しかった。仲麻呂にとって、道祖王が即位することは、権力を失うことと同義であった。

 山部王の大きなくしゃみに、東人は驚いて固まったが、我に返って興奮した様子で話し始めた。

「道祖王様は閨房が乱れていて、先帝の喪が明ける前に幼女を招き入れたり、宮中の秘事を采女うねめに漏らしたりしたそうだ。孝謙天皇様が注意しても行いを改めないので、天皇様は皇太子としてふさわしいかどうか、台閣の諸卿に問われ、皇太子を廃された」

「嘘だ! 道祖王様は見識と礼節のある方で、閨房が乱れているという話など聞いたことがない。けっして幼女を召し入れるような方ではない。橘奈良麻呂卿はなんとおっしゃったんですか」

 山部王の問いに東人が答える。

「橘卿は、親様の喪に服していて今日の朝議は欠席された」

「橘卿がいない時に道祖王様を廃されるなど、だまし討ちじゃないですか」

 東人は山部王の抗議を聞き流して続ける。

「天皇様は道祖王様を廃した後、大炊王おおいおう様を皇太子と定められた」

 部屋のあちこちから「大炊王様って誰だ」という声が上がった。

「大炊王様は舎人親王とねりしんのう様の末子で、仲麻呂様の屋敷で暮らされているお方だ。今年で二十五歳になられる」

「完全に仲麻呂卿の策謀じゃないか。仲麻呂卿の筋書きに孝謙天皇様が乗せられて、良識ある道祖王様を廃されるなんて筋が通らない。ただでさえ仲麻呂卿の権力は強いのに、子飼いの親王を皇太子にして国を乗っ取るつもりだ」

「山部王は口が過ぎる。いくら皇族でもそれ以上言えば朝廷を批判することになる」

 東人の注意にひるまずに山部王は続ける。

「天皇様と仲麻呂卿は聖武太上天皇様の遺詔にそむくつもりだ」

「口を慎め。天皇様は先帝様から、『おおきみやつこと成すとも、奴を王といふとも汝のせむまにまに』との言葉をいただいているそうだ。だから遺詔にそむくことにはならない」

「すべて仲麻呂卿の仕組んだことでしょう」

「大きな声を出すな。仲麻呂卿の耳に入ったら事だ。無冠の山部王などひと息で大隅まで飛ばされるぞ」

 仲麻呂卿と距離を置く道祖王様を廃し、子飼いの大炊王様を皇太子に擁立すれば、仲麻呂卿の権力は万全となって、朝廷で逆う者はいなくなる。

「台閣の一人に権力が集中するのは良くない。『事はひとりさだむべからず。かならずしゆうとともにあげつらううべし』といいます。一人の意見だけが通っては政を間違えることがあるから、台閣の諸卿の力が分散して意見を言い合ってこそ、良い政ができるのです」

「山部王は熱くなりすぎだ。ひとまず座れ」

 座れと言われて、山部王は立ち上がって拳を握りしめていることに気がついた。

 山部王が腰を下ろして外を見ると、二頭の蝶が風に流されていくのが見える。

 人にとって気持ちの良い風でも、小さな蝶にとっては体が飛ばされるような嵐なのだろう。自分も蝶と同じで吹けば飛ぶような存在なのだ。仲麻呂卿が風で、自分は吹き飛ばされる蝶だ。仲麻呂卿の行いを許すことはできないが、今の自分に仲麻呂卿と対峙する力はない。

 天下国家のために微力でも尽くしたいが……。

 山部王が大きな溜め息をついた時に、昼の鐘が聞こえてきて、同僚たちは大きな声で話しながら部屋を出て行った。

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