現実社会

 種継に誘われて本堂の外に出ると、雲は散り青空が出ていた。

 種継が大きなあくびをしながら両手を上げて伸びをすると、すかさず明信が肘鉄を入れ、山部王は「住職様に失礼だぞ」と注意した。種継は脇腹を押さえながら「山部王は堅物だな」と笑う。

 雨に濡れた斑鳩の山々は新緑を濃くし、滴が日の光を弾いて輝やいている。鳶が高い声で鳴きながら大空を飛んで行くと、爽やかな風が吹いてきた。

「虹が出ているわよ」

 明信が指をさす方を見ると、青い空から山に降りるように大きな虹が架かっていた。久しぶりに見る虹に、明信に手を引かれた早良王がはしゃぐ。赤から紫に変わる虹は、背景の山や空が透けて捉えどころがない。

 山部王は右手を虹に重ねた。

「手を上げて山部王は何をしている」

「虹に手が届かないかと思っていた。虹と左大臣のどちらが遠い存在なんだろう」

「山部王は真顔で変なことを言う。虹は追っても逃げてゆくが、左大臣の席は太政官室にある。虹の方が遠いだろう」

「いやいや、そういう意味じゃなくって」

「山部王は左大臣になりたいのか。皇族なんだから天皇を狙えばよいのに」

「種継の言葉は不敬だ」

「山部王は頭が固い。出世の望みはないかもしれないが、皇族なんだから天皇になる夢くらい見ろ。もし本宗家に人がいなくなれば、山部王にだって皇位が回ってくるかもしれないぞ」

「出世の望みがないとはひどい言い方だ。今は無冠だがそのうち官位だってもらえると思う。同じ皇族といっても、天皇様は雲の上の存在で、皇位の夢を見るなど不敬だ。種継は、藤原一門だから任官の知らせがあったんじゃないか」

「俺の親父は出世しないうちに死んだし、式家は広嗣伯父さんが謀反を起こして以来、天皇様から遠ざけられているから内示はなかった。従五位下はおろか、卑官だってもらえない。藤原一門は曾祖父の鎌足で繋がっているとはいえ、別々に屋敷を構え官位官職も違うから、外から思われているようなまとまりはない。山部王の皇族と似たようなものだ」

 種嗣より両親が健在な自分の方がましなのかもしれないが、ドングリの背比べだ。種継の言うように、自分らは冴えない人間の集まりだ。

「政を司って、聖徳太子が理想とした国創りをしてみたい」

「山部王は法隆寺で政に志すってか」

「からかうなよ。自分はきっといつか……」

 山部王が次の言葉を口にしようとしたとき、早良王が叫んだ。

「兄さん、虹が消えちゃった」

 早良王の声につられて山を見ると、虹はほとんど消えかかっていた。

 自分の望みなど虹と同じように儚いものなのだろう。

「ところで、明信は斑鳩まで何をしに来たんだ」

「大和の叔父さんの所へ使いに行く途中よ」

「というのは口実で、右大臣様の屋敷に入ると、自由に外を出歩けなくなるから、今のうちに遊び回っているんだ。右大臣様の伝手で朝廷に入れば、いずれ内侍ないしのかみとして天皇様のお側に仕え、俺たちはひれ伏して会わなければならなくなる」

 明信は「もう種継さんたら」と微笑んだ。

「へえ。右大臣様のとこへ上がるのか」

 山部王の呑気な言葉に、種継が驚いて見つめてきた。

「お前知らなかったのか。明信は藤原豊成様の息子の継縄つぐただの嫁になるんだ」

 早良王が「ええ!」と大声を上げたので、山部王の声は消されてしまった。

「明信の姉ちゃんはお嫁さんになるの」

 明信は顔を真っ赤にして早良王の頭を撫でる。

「明信の親父さんが右大臣様の所へ行って話をまとめてきた。都へ行く前に遊んでおくんだって」

 明信が知らない男のものになってしまう!

 誰がどう考えても、将来性のない自分よりも右大臣の息子の方が良いに決まっている。百済王一族にとっても、冴えない皇族と結びつくよりも、右大臣家と縁を作った方が良い。継縄がどういう男かは知らないが、自分には明信が継縄の縁談を断ってまで来てくれるだけの魅力はない。そもそも、想いすら伝えていない。

 美人で快活な明信と一緒にいると楽しく感じられるようになったのは、明信の髪が腰まで伸びた頃だったろうか。幼い頃に手を繋いで遊んだように、たわいのない話をして笑い合うことはできるが、想いは打ち明けられずにいた。優柔不断な自分は馬鹿だ。

 例え、想いを告げたとしても、右大臣の息子と自分とでは、戦う前から勝負は決まっている。

 明信が知らない男のものになってしまうなんて……。

 早良王の「お姉ちゃん、おめでとう」という言葉に明信は笑顔で「ありがとう」と答えている。

「いつ右大臣様の屋敷へ行くんだい」

「四月になってからよ」

「お使いを口実に、今日は大和、明日は山背と、馬で飛び回っているんだ。文字どおりの、じゃじゃ馬娘だ。継縄は明信の尻に敷かれるに決まっている」

「私はつくす女よ。旦那を尻に敷くようなことはしないわ。種継さんは私が継縄さんに取られて妬いてるの。もしかして、私のこと好きだった」

「ああ、好きだよ。でももっといい女を見つけてやる」

 棒読みで答える種継を明信は笑う。

 明信は、幼なじみの自分のことなんか、空気と同じように気にも留めていないのだろう。自分も四月から都に上るが、明信との距離は大和郷と交野かたの郡よりも遠くなってしまう。何事にも明るくて、笑顔が似合う明信を種継も好きだった。しょせん自分たちには明信でさえ高嶺の花なのだ。

 山門の金剛力士像に睨みつけられながら外に出ると、種継は「それじゃあ、俺たちの馬はあっちに繋いであるから」と背を向けて歩き出した。明信も笑顔で手を振ってから種継の後を追った。

「明信の姉ちゃん、お嫁さんになるんだね」

 と、うれしそうに言う早良王を馬に乗せ、山部王は溜め息をついた。

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